今月23日は母親の命日である。
少し母親のことを整理して書いておきたくなった。
幼い頃に両親を亡くし、養父、養母に育てられた彼女は、
中学生になって、自分の両親が実の親ではないことを知った。
無論、育ての親には感謝していただろうが、急にこの世で
独りきりになったような、なんともやり切れない
孤独感に苛まれたであろう。
荒れて、ぐれて、そのうち大阪の繁華街では名の通った
不良少女となった。
縁あって私の父親とめぐり合い、私を身ごもったのが
17のとき。
18で私を産んだが、まだ若すぎる彼女は、子育てなど
考えられず、私を捨てようと淀川へ行ったり、
寝ている私の鼻に脱脂綿を詰めたりしたこともあったらしい。
そのときは、私の顔が真っ赤になってきたので、
あわてて脱脂綿を取り除いたようである。
そんな彼女も、自分の家族ができたことで、孤独な思いを
慰めることができたのだろう。
私を含めて、4人の子供を授かった。
貧しい時代であった。
だが、その分、夢もあれば、些細なことに笑って暮らせる
日々であった。
今思えば、ずいぶん隣近所の人たちのお世話にもなっていた。
いつも自分の孫のように接してくれる人も多かった。
父親の事業の失敗、続けざまの病気と手術。
苦しいだけの家計ではあったが、家庭を守っていこうとする
その気魂は、凄まじいものがあった。
私の幼稚園のときの写真には、今で言うヤンママなどとは
まるで違うオーラがあった。
凛として、綺麗で、むやみにそばに近寄れないような、
圧倒的な目元の迫力があった。
自ら水商売に出て、家計を支え続けた。
私が高校生の頃だったか、自分の店を持ち、私の大学進学を
支えてくれもした。
家のことは、子供が多いせいで、掃除や整理整頓が
行き届かない。
どちらかといえば、大雑把にならざるを得なかっただろう。
リビング兼、ダイニング兼、勉強部屋と、一室がすべて兼用で、
勉強するには食事の後片付けをせざるを得ない。
彼女が仕事に出てからは、勉強するために私が片付けや
洗い物をしていた。
あまりにも片付かないので、彼女とけんかすることも
しばしばであった。
今では、片付け下手なカミサンと、時々けんかとなる。
それでも、彼女の偉いところは、他人の悪口を
一切言わないことと、愚痴を言わないことであった。
父親に対する不満や愚痴など山ほどあったであろうが、
ついぞ愚痴など聞いた覚えがない。
どんな父親であれ、子供に対して父親のことを
悪く言うことは、徹底して忌み嫌っていた。
家計を支える彼女の前で、大して家にお金を入れてもいない
父親が、私に散髪くらい行けと言ったことがあった。
家の事情がよくわかっている私は、思わず反抗的に、
「どこにそんなお金があるんや。」と、
父親に食って掛かった。
「あんたは誰にものを言ってるんや。」と、
すかさず彼女が私を厳しくたしなめた。
私は不服ではあったが、彼女にそう言われては、
黙るしかなかった。
他人のことを悪く言わない、愚痴を言わない。
それどころかむしろいつも人の愚痴を黙って聞いてやる
ということをしていた彼女だったが、家族を守るために
無理を重ねていた彼女にとって、身体に良いわけがない。
人間というものは、愚痴や不満を口にして、
誰かに聞いてもらうことで多少なりとも楽になるものである。
彼女はそれを一切しなかった。
ある日の夕方、突然、くも膜下出血で倒れた。
17時間にも及ぶ手術により、一命を取り留めた。
半年以上の入院の後、なんとか普通の生活を
送れるまでには回復した。
それから10年。
4人の子供がそれぞれ一人前に所帯を持ち、独立して、
それぞれ子供ができた。
6人もの孫の成長をしっかり見届けて、彼女は逝った。
あまりにも若い逝去ではあったが、彼女は自分の信じる
自身の使命を全うして、逝ったと私は思う。
それは、どれほど長生きをするかではなく、
いかに生きるのかという命題を、常に私に問いかけて
いるようにも思える。
お墓参りにいくたびに、彼女の声が聞こえるような気がする。
「おまえは、自分のやるべきことをやり切りなさい。」
私は他の誰でもない私自身である。
だが、間違いなく、彼女の血肉を分け与えられた
息子なのである。
その誇りを胸に、これからもやるべきことをやっていく。
それが、彼女と私の、生きるということなのである。