先日、視覚障害者の男性が、目白駅のプラットホームから転落し、電車にはねられて亡くなりました。この時、同じく全盲の奥様がご一緒で、しかも時間帯は夕方の5時過ぎ。
この事件を受けてJRはプラットホームに柵を設置することを検討している、という記事を読みました。
それはもちろん推奨されることなんですが、その前に「この時間帯、この視覚障害者の夫婦に気をつけてあげる人はいなかったのだろうか。この時間帯だったらプラットホームには人は少なからずいたはず。しかも白杖をついた人が二人連れだったら、一人より目立ったはずなのに。」という声が上がらないことに、苛立ちを覚えます。
もうだいぶ前ですが、市の点訳赤十字奉仕団の会長から、
「視覚障害者の男性が、毎日通勤に電車を一人で利用していた。しかし、その日電車は若干ずれた位置に停車。その視覚障害者の男性はそれに気がつかず、いつもと同じ場所から電車に乗り込もうとしたが、そこは乗り口ではなく電車の連結部。彼はそこからホームに転落して亡くなった。
その時間帯は朝の通勤ラッシュ時。人はたくさんいたのに、彼に声をかけて間違いを知らせることさえする人もいなかったのだ。」
というやりきれない話を聞いたことがあります。
今回もその時と同じく、周りの人が無関心であった為、転落事故を防ぐことができませんでした。
無関心ではなくても声をかけられない人もいるにはいます。
視覚障害者の話ではありませんでしたが、以前、兵庫のゆかりMさんが、
「障害を持った男性の年配者が転んだので、とっさに声をかけたんだけど、凄い顔で睨まれて・・・。それ以来、声をかけるのを躊躇うようになった。」
と言っていました。
この時私は、
「障害を持った方の中には、街でジロジロ見られて不愉快な思いをしている人もいると思います。
健常者であっても、人前で転んだりしたとき、痛さよりも恥かしさの方がまさり、「大袈裟に騒がれたくない」と思う人がいますが、それは彼らとて同じこと。
それに加えて彼らには『哀れみを受ける屈辱』を感じてしまう人もいるでしょうね。
でも、きっとそのおじいさんはその時は必死だったけど、後で心配してくれたゆかりさんに感謝しているのではないかな。」
と返事をしましたが、本当に、その気遣いや一言が、命を救うことだってあるのです。
駅や危ない箇所で障害のある方、それから高齢者を見かけたらそっと見守り、もし少しでも困っていそうだったら、「何かお手伝いできますか?」と自然に声をかけること-それが当たり前の社会になって欲しいと願います。
(余談ですが・・・私の友人の視覚障害者の女性は、買い物に行くと親切な店員さんと出会うことが度々あるようです。でもなかには、ずっと年上の彼女に向かって、まるで小さな子供相手のような口ぶりで話す人もいるようです。これは患者を子供扱いする看護師さんが時々いるのと同じですが、共に不思議です。)