心理学者アドラーが好んだイソップ寓話に以下のようなものがあります。
“ミルクがいっぱい入った壷の淵を、二匹のカエルが跳び回っていました。
突然、二匹とも壷のなかに落ちてしまいました。
一匹は「もうおしまいだ」と泣きました。
ゲロゲロと泣いて、溺れ死ぬ覚悟をしました。
もう一匹はあきらめませんでした。
何度も何度も足をばたつかせて、とうとう、
もう一度足が固い地面に着きました。
何が起きたと思いますか?
ミルクがバターに変わっていたのです。”
この話を、以前、子供の頃に印象強く残ったイソップの別バージョンの蛙の話をもとに随想を書いた友人Bにメールで送りました。
友人Bが取り上げた方の蛙の話は、ずっと水を探して井戸を探し当てた二匹の蛙のお話です。
井戸を見つけた蛙たち、一匹は喜びその井戸に飛び込むことを決め、もう一匹は「ここで安易に水を求めて井戸に跳び込んだら二度と出られなくなる」という思慮深い判断をして、引き続き別の水がある場所を探し続け、結局水を見つけることができずに干からびて死んでしまうという結末で終わるもの。
友人Bは『ミルクの壷の蛙』を読んだ後、「この『ミルクの壷の蛙』も昔読んだ記憶がある。でもこういうのはよく聞く話。『井戸の蛙の話』はこれと違って、何十年経っても覚えていられるくらいのインパクトがあった。」という返事をくれました。
実はこの『ミルク蛙』のお話は『井戸蛙』のあらすじもそえて、友人N、友人T,友人Oにも送ったのですが、
日本の将来について私と語ることが多い友人Nは、「(『ミルク蛙』の話は)子供にも聞かせたいが、閉塞感漂う今だからこそ大人にも心響く話だと思う」と言い、食べ物に目がない友人Tは、「ミルクを蹴っただけでは、ミルクはバターにはならない」と突っ込み、スポーツが大好きな友人Oは、「何故蛙はミルクの中で泳げなかったんだろう」と疑問を呈しました。
私自身の感想は「『ミルク蛙』の話にしても、『井戸蛙』の話にしても、「助かった方の蛙達は『知恵』ではなく、『運』を持っていた。」と考えるのも、私が大人であるためか・・・。それでもまあ、『ミルクをバターに変えた蛙』のような楽観的視点の方が、インパクトは小さいですが、覚えておきたいです。」。
一つの寓話でも、読んだときに人それぞれ視点が違い、その視点の違いは、性格やその時の関心によって違うものなんだな(もちろん、ジョーク的要素を含んで感想を述べている部分も後者二人にはありますが、)・・・と妙なところで新しい発見をし、4人の性格を思って一人笑ってしまいました。
さて、『ミルク蛙』に話を戻しますと、この話をアドラーから聞いたことがあったアルフレッド・ファラウ哲学博士は、
「とても信じられない話のように聞えるかも知れませんが、ダッハウの強制収容所に入れられていた間、わたしは希望を失っていた大勢の人々にこの短いお話をして、彼らの心を揺さぶることが出来たのです。」
と『アドラーの思い出』(創元社)のなかで述べています。
(アドラーは『ミルク蛙』の話自体がこれほど人に影響を与えるとまでは思っていたわけではないでしょうが、『楽観-希望』が人に与える影響の大きさは、わかっていたのでしょう。)