福永武彦『草の花』に、恋人同士のこんな会話がある。
「ねえ汐見さん、本当の愛というものは、神の愛を通してしかないのよ」
「僕はそうは思わない。愛するということは最も人間的なことだよ。神を知らない人間だって、愛することは出来るんだよ」
「でも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ」
「僕はそうは思わない。愛するということは最も人間的なことだよ。神を知らない人間だって、愛することは出来るんだよ」
「でも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ」
これを読み、ウラジミール・ナボコフ『ロシア文学講義』に引用されているアントーノフ『大いなる心』(1957年)を思い出した。
オリガは沈黙した。
「ああ」とヴラジーミルは叫んだ。「こんなに愛しているのに、どうしてきみは愛してくれないんだ」
「私は国を愛してるもの」とオリガは言った。
「それはぼくだって同じだ」ヴラジーミルは力をこめて言った。
「それに、もっと強く愛してるものがあるの、私には」青年の抱擁から身をふりほどいて、オリガは言葉をつづけた。
「というと、何だろう」青年はふしぎそうに訊ねた。
オリガは澄んだ青い目でヴラジーミルを見つめ、即座に答えた。「党よ」
「ああ」とヴラジーミルは叫んだ。「こんなに愛しているのに、どうしてきみは愛してくれないんだ」
「私は国を愛してるもの」とオリガは言った。
「それはぼくだって同じだ」ヴラジーミルは力をこめて言った。
「それに、もっと強く愛してるものがあるの、私には」青年の抱擁から身をふりほどいて、オリガは言葉をつづけた。
「というと、何だろう」青年はふしぎそうに訊ねた。
オリガは澄んだ青い目でヴラジーミルを見つめ、即座に答えた。「党よ」
このやりとりには思わず笑ってしまうでしょ。
アントーノフ『大いなる心』という小説はナボコフがでっち上げたんじゃないかという気がします。
私が大学のころ、共産主義はキリスト教の裏返しだと聞き、意味がわからないくせに納得したもんです。
「神」を何か別のものに置き換えることは可能なわけで、共産主義も鰯の頭も信心になるわけです。
(追記)
生き仏や生き神、たとえば天皇、法主、教祖などへの信者の愛情は切ないものがあります。
神(党)は恵みをもたらす・・・
・・・しかし罰(粛清)ももたらす。