三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

カルトの親とカルトの子 1

2010年01月24日 | 問題のある考え

米本和広『カルトの子』『我らの不快な隣人』を読む。
『カルトの子』は、親がオウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会に入ったために、いやでも巻き込まれてしまった子どもたちを取りあげている。

「カルト」という言葉には確立した定義がないそうだ。
米本和広氏は「カルトとは、組織や個人がある教えを絶対であると教え込み、それを実践させる過程で、人権侵害あるいは違法行為を引き起こす集団である」という定義をしている。

カルトの子どもたちは親や教団から虐待を受けている。
虐待とは身体への暴力ばかりではない。
チャイルド・アビューズは児童虐待と訳されるが、アビューズを虐待と訳すと身体的虐待だけが注目されてしまうので問題があるそうだ。
アビューズはネグレクト、心理的虐待も含まれる。
心理的虐待とは、
「心理的な暴力や心理的な苦痛を与えることをさします。家族の中で常に孤立させられたり、常に差別されたり、罵倒されたり、おびえさせられたりすることなどがこれに入ります」
チャイルド・アビューズを直訳するなら「不適切な子どもの扱い方」ということになり、意訳をすれば「子どもに対する度を超えた支配権の行使」ということになるそうだ。
「子どもの欲求を無視して特定の価値観を押しつけるのはチャイルド・アビューズである」

エホバの証人では子どもへの体罰(暴行)が日常的に行われていたという。
「生後十ヵ月から叩くようにしました」
「所沢の長老は鉄のパイプや自転車のチェーンで叩いていたそうです」
「当時の長老は、『泣く、ということは悔い改めていない、反抗の表れだ。泣くのをやめるまで叩きなさい』と教え諭した。それで私もそうした」

現在は激しい懲らしめは姿を消しつつあるそうだが、今度エホバの証人がうちに来たら、あなたは子どもを殴ったことがありますかと聞いてみよう。

ヤマギシ会も子どもたちへの暴力では負けていない。
広島少年院で法務教官4人が収容少年に繰りかえし暴行していたとして実刑判決が出ている。
だけど、広島少年院の暴行はヤマギシ会に比べると実にかわいいものである。
子どもは親から離されて集団で生活する。(つまりネグレクト)
起床は5時半で、6時から作業。
なのに朝食抜きの一日二食(その日の最初の食事は学校の給食)だから、子どもたちはいつもお腹をすかせている。
病気になってもほったらかし。
驚くのは世話係の暴行がすさまじいこと。

1998年、ヤマギシ会が私立小学校、中学校設立の計画書を三重県に提出する。
普通なら問題なく認可されるのだが、三重県はヤマギシ学園で生活する小中学生407人に直接アンケートを記入させた。
その結果、5人のうち4人が世話係から暴行を受けていたことがわかる。
どんな暴行がヤマギシ会で行われていたかというと、
「パジャマの首の所と足の所を持って、ベランダに叩きつけられた」
「思いっきり蹴ったり、ほっぺを両手で叩いたり、投げ飛ばしたり、体を持ち上げて壁にぶつけたり、ガラスに突っ込まれたり、殴ったり、一回で鼻血が止まらなくなるくらいやられる。泣いてもさらにやる」
「服とか全部脱がされて、夜ベランダに出されて三十分から一時間ぐらい放っとかれたこと。しかも冬。死にそうに凍えた」

などなど、『カルトの子』に数ページにわたって書かれている。
こうした暴力が日常的になされ、しかも学校はヤマギシ会の教育に問題があることを知っていたにもかかわらず、驚くことにヤマギシ会は警察の捜査を受けていないし、世話係は逮捕されていない。
三重県はアンケートの結果を文部省と厚生省に報告しているが、信じられないことに両省とも警察に通報していないし、何の対策も講じていないそうだ。

オウム真理教や統一教会では子どもたちに直接暴力をふるうことはしないらしい。
とはいっても、統一教会やエホバの証人の信者は伝道などの教団活動ばかりして、子どもはほったらかしにしている。
オウム真理教では親と子どもが別々にされ、世話係が子どもたちの面倒を見ていたのだが、食事はお粗末だし、部屋は掃除をしないのでゴミだらけ、ずっと同じ服を着ていて、風呂にもほとんど入らないというように、ろくな世話はしていなかった。

『カルトの子』にある、児童相談所に保護されたオウム真理教の子どもたちの回復の記録を読むと、インドの狼に育てられた少女の話が作り話であることがわかる。

とはいっても、エホバの証人や統一教会などをやめた二世は10年以上経っても影響が残っているわけで、心の傷の深さは他者にはうかがい知れないものがある。

で、米本和広氏は「親がある教えを絶対であると信じ込んだ結果(これは宗教やイデオロギー、信条一般に通じる)、子どもにふりかかる不幸はどの組織でも同じことなのだ」と言う。
そりゃカルトの話だろう、うちとは関係ない、とすましてしまうわけにはいかないということだ。
私も加害者だとほんと思うし、ほとんどすべての親だって無関係とは言い切れないと思う。
ほんと他人事ではない。

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2 コメント

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真理の導き(2) (エホバの証人)
2010-01-25 10:18:45
【点と線と面】

私は疑問だ。面に点は無限にとれると言うが, それはどうだろうか。

そもそも点は可視的でないし, 分けることも出来ない。にも拘わらず, 面から無限に捉えられると言うのはおかしくないか。いや, おかしい。何故, 分けることが可能なのか。

それは紛れもなく, 0(点)を偽装した1(存在)だからである。

【0∞1】

0は質であり事だ。つまり存在の1とて切り離すことの出来ない事であり, 1ですら質的な変化の前には絶対に保存出来ない。

ならば, 面から捉えられる疑惑つきの点とは, 質的な変化の中に絶対に保存できない粒(物)のことではなかろうか。

因果とは, 粒と無数の軌道を表す法則性。中道とは, 因果の破綻に伴う己意志の解放と, 俯瞰者としての自我の確立, 物に対する執着の終焉と柔軟な捉え方(認識), そして, これらを機軸とする物事の確立である。

結局, 私は点が膨張した不可分の面を観ているのだ。


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真理の導き(1) (エホバの証人)
2010-01-25 10:19:56
【因果の壊れと中道のみち】

【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。

原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。

ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。

即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。


《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》


【知・法の根本】

如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。

宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。
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