昭和天皇は、憲法に忠実に従い、憲法の条規によって行動する立憲君主の立場を貫いたと言われている。
二・二六事件と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考えを実行させたが、開戦に際しては、憲法を尊重したために自分が望まなかった開戦を阻止できなかったことになっている。
しかし、昭和天皇は自分の考えをきちんと伝えており、「政治的行為」をしていることが、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』を読むとよくわかる。
『昭和天皇独白録』で、終戦の「聖断」に踏み切るにあたって決心を左右した要件として、
と昭和天皇は述べている。
昭和天皇は国体を護持するために、新憲法施行後も能動的君主として政治に介入した。
サンフランシスコ講和条約・安保条約(1951年9月)が調印されて十日後に行われたリッジウェイとの第三回目の会見で、昭和天皇は
と喜ぶとともに、
と述べた。
この講和条約は、第三条でアメリカによる事実上の沖縄支配が規定され、第六条で二国間の駐留協定の締結を認めることによって安保条約が根拠づけられ、十一条で東京裁判の結果を日本が受諾したことを明記している。
旧安保条約の内容は、日本には米軍に基地を提供する義務があるが、米軍の日本駐留はあくまで権利であって、米軍には日本防衛が義務づけられていない一方で、米軍には日本の内乱に介入する権利がある。
さらに、米軍は日本の基地を利用することができるが、基地については提供地域が特定されない「全土基地化」の権利が米軍に与えられている。
また、米軍には事実上の「治外法権」が保証されている。
そして、この条約には有効期限が設定されておらず、失効には米政府の承認を必要とする。
しかも、米軍の駐留はあくまでも「日本側の要請」に応えるアメリカが施す「恩恵」とされた。
アメリカとしては、占領期と同じように米軍が日本に駐留し、基地や国土を自由に使用できる権利を確保することが目標だったのだが、昭和天皇はダレス国務長官に「衷心からの同意」を表明している。
これだけの不平等条約である安保条約を昭和天皇は吉田茂に圧力をかけて「自発的なオファ」による米軍への無条件的な基地提供という方向にさせている。
と豊下楢彦氏は説明する。
「内乱への恐怖」を持ちつづけた昭和天皇は、ソ連や共産主義を恐れ、天皇制を守るためにアメリカの庇護をアメリカ側に訴えたのである。
国体護持のために終戦の決断をしたように、安保という国体を維持するためにさまざまな働きかけを昭和天皇はしている。
朝鮮戦争の時、マーフィー駐日アメリカ大使に次のように訴えている。
日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している。
55年8月、重光葵が訪米する前の発言。
58年10月、マケルロイ国防長官に。
キューバ危機が終息した62年10月、スマート在日米軍司令官に。
内外の共産主義が天皇制の打倒を目指して侵略してくるであろうという恐怖感、こうした脅威を阻む最大の防波堤が、昭和天皇にとっては米軍の駐留だった。
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