三日坊主日記

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粟屋憲太郎『東京裁判への道』

2010年04月03日 | 天皇

米国立公文書館に眠っていた東京裁判の国際検事局の機密文書が近年公開された。
文書の中には、A級戦犯だけでなく、政治家、軍人、財界人、皇族など証人たちの多量の尋問調書がある。
近衛文麿、吉田茂、鳩山一郎たちも検察に大量の書類を提出している。
これらの資料を基にして書かれたのが粟屋憲太郎『東京裁判への道』である。

「日本での近年の東京裁判論議には、裁判の全面否定を唱える伝統的な「勝者の裁き」論をそのまま踏襲する傾向も相変わらず少なくない。「大国」日本を歴史的に正当化するためにも、東京裁判という戦後日本の原点における「屈辱」を払拭したいという情念が強まっている」
ところがこれらの資料によって、
「これまでの東京裁判史の「通説」が、伝聞や推定による不正確なものが少なくないことを知った」と粟屋憲太郎氏は言う。
たとえば、被告28人の選定過程や、
「ソ連は天皇不訴追の立場だったのである。これはスターリンの決定によるものだった」ということなど。

検察や日本側が一番頭を悩ましたのが天皇の訴追である。
「天皇に戦争責任がないことを「論証」するためには、「戦争を終わらせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争開始の許可を下したのか」という批判に対処しなければならなかった」
天皇の戦争責任はないとする主張は粟屋憲太郎氏によると、
「昭和天皇の開戦容認が不可避だった理由は、第一に、立憲君主であったから政府決定を承認せざるをえなかったという立憲君主論、第二は、内乱危機論で、開戦を拒否したら国民的憤慨・興奮を背景にクーデターが起きたからというものである」という二点である。

・立憲君主制の制約
開戦の決定を裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ない。
己の好むところは裁可し、好まざるところは裁可しないとすれば、専制君主と異なるところがない。

・内乱が起きるおそれ
私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろうと昭和天皇は語っている。
開戦の決定に対して拒否したら、国内は大内乱になり、周囲の者は殺され、天皇の生命も保証できない。
『昭和天皇独白録』英語版では「私は囚人同然で無力だった。私が開戦に反対しても、それが宮城外の人々に知られることは決してなかっただろう。ついには困難な戦争が展開され、私が何をしようと、その戦いを止めさせることは全くできないという始末になったであろう」となっている。
そして、天皇は何も知らされていなかった、つまり軍部の独断ということ。

こうした主張に対して、粟屋憲太郎氏は事実と異なっていると反論している。
第一点の昭和天皇は立憲君主制を守ろうとしたということ。
昭和天皇は必要な場面では国政や軍の作戦計画に深く関与していた。
木戸幸一は東京裁判に関する聴き取りにこう答えている。
「国政を総攬されるに当たって、天皇がその内閣の上奏事項に対して意見を異にされることは当然あり得ることであり、立前としては天皇は国務大臣の補弼によって国政をなさるのではあるが、ときには強い御意見を述べられることもある」
「陛下から御意見があった場合においても内閣が考え直すか、さもない場合でも何とか調整がつくのが通例であった」

第二点の昭和天皇が開戦に反対したら内乱が起きたかもしれないということ。
「天皇にまったく従順だった東条首相が陸相と内相を兼務しており、たとえクーデターが起きたとしても、軍と警察の手で鎮圧できたと思われる」
東京裁判によって、開戦に天皇の責任はないが、終戦は「陛下の御仁慈」によるものだという神話が作られたわけである。

塩野七生『ローマ人の物語ⅩⅤ ローマ世界の終焉』に、ユスティニアヌス大帝について書かれた中に次の文章がある。
「専制君主国では、君主は決定はするが責任はとらない。そして臣下は、決定権はないが、責任は取らされるのである。とくにキリスト教国家では、君主は神意を受けて地位に就いている存在であって、その君主に責任を問うということは、神に責任を問うことになってしまう。それはできない以上、君主も責任は問われないのだ」
天皇不謬論と同じ理屈です。

昭和天皇の日記があるそうだ。
11歳からきちんとつけた日記で、これが公開されるといいのだが、まあ百年ぐらいたったらひょっとしてという話でしょうね。

免責されたのは昭和天皇だけではなく、生物兵器(細菌)、化学兵器(毒ガス)についてもそうだ。
生物兵器はアメリカが最新の研究成果を入手するため、化学兵器は化学戦の実施を考えていたため、他国に知られたら今後の米軍の作戦計画をしばることになるから公表を控えたという。

検察の取調内容も『東京裁判への道』に詳しく書かれてある。
たとえば真崎甚三郎大将。
真崎甚三郎は2.26事件では反乱幇助の容疑で軍法会議にかけられたが、
「取り調べに対し真崎は、事件への関与を全面否定し、青年将校たちが勝手に思いちがいをして決起したのだと、容疑を否認しつづけた」
徳川義親の日記には、その時の真崎甚三郎の様子をこう記しているという。
「(小川関治郎裁判官が)真崎大将の取調中の態度の卑屈なりし事を話す。「閣下はさう思し召すかも知れませんが」といふ言葉。返答につまる時は珠数を出しておがむといふ。悉く責任を免れんとする態度」

真崎甚三郎は戦犯として逮捕されたが、尋問では2.26事件の時と同じように卑屈な態度で、法務官に「追従的といえるほどにみずからの親米主義を強調して」阿諛追従し、
「みずからの政敵に対して露骨な敵意を燃やして攻撃、告発」して責任転嫁に終始し、「逆に自己の責任についてはくどいほど弁明をくり返して」自己弁護している。
取調の際にこういう賛辞を真崎甚三郎は言っている。
「私は今、日本がみずから、天皇の力をもってさえ実現できなかったことが、米国の力によって達成されたことを実感しています」

笹川良一と児玉誉士夫については「検察局の笹川、児玉の関係資料ファイルを読んでみて、二人をめぐる実像と虚像のいちじるしい落差に驚いた」と粟屋憲太郎氏は言っている。
「検察局資料からにじみでてくる二人の実像は、むしろ恭順と自己弁明の姿勢をあらわにしたものだった」
この人たちに怒りを感じるけれども、しかし下手をすると起訴されて死刑の判決が下るかもしれない状況にあれば、検察に媚びへつらい、他の人をおとしめることで助かろうとする気持ちはわかる。
だからこそ、広田弘毅の人気が高いのだろう。

文官として死刑になった広田弘毅だが、城山三郎『落日燃ゆ』には、広田弘毅は尋問で「イエスかノー程度の最小限必要な返事しかしなかった」とあるが、これは事実に相違するそうである。
もっとも「広田が尋問で具体的に陳述した内容は、歴史的事実をねじまげたものではなく、おおむね正確であり、他人への露骨な責任転嫁もない」という。
取り調べでこういうやりとりをしている。
「問 そういえば、あなたはこの前も、責任を引き受けるつもりだと言っていましたね。
答 はい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取ります。(略)
問 ところで、何か思い出したこと、言いたいことがあれば、遠慮せずに言っていただきたい。それを記録に含めることに異存はありません。
答 しかし、今も言った通り、自分の刑罰を軽くするために説明するのは、ご免こうむりたい。そんなことは嫌いなのです」

「このような自己責任のありかたを述べたのは、他の戦犯容疑者にはいなかったのは確かだ。広田の誠実な性格をしめす応答であり、極めて印象的だ」
広田弘毅がまた好きになった。

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2 コメント

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Unknown (バッコス)
2014-07-25 13:26:58
この本に代表されるような東京裁判絡みの労作・秀作を読むと、後に「穏健派」や「平和主義者」と半ば神話化された人物やグループが、米国との絡みで如何に姑息に動いていたかがよく分かり、そこで責任を果たさなかった彼らの権力が持ち越されたこの国で、今度は「厳罰化」か……と思ってしまいます。
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コメントありがとうございます ()
2014-07-26 13:34:15
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』を読みますと、東京裁判にも昭和天皇は政治力を発揮しています。
「姑息に動いていた」という言葉は昭和天皇にも当てはまるように思います。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%CB%AD%B2%BC
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