信仰は体験によって強化される。
ずっと以前、夜行列車で創価大学の学生と一緒になり、あれこれと話をしたことがある。
その学生の一家はそろって創価学会の熱心な信者で、どうして創価学会の教えを信じているかと尋ねた。
すると、高校のころすごく悩んだことがあり、お兄さんが「自分もそういうことがあった。とにかく勤行してみろ」と言うので、一生懸命勤行していたら、何かに包まれている経験をした、だから創価学会を信じている、ということだった。
これは一種の神秘体験だが、ご利益体験というのもある。
私は身体が弱くて、ある人から「先祖を大切にしたら元気になる」と教えられ、こうやってお坊さんに来てもらうようにした、そのおかげか病気をしなくなりました、と話された人がいる。
真宗の教えを聞いている人だって体験には弱い。
別院で法座があったおり、近くに座っていたおばさんたちが「あの人はすごい。阿弥陀さんを見た」と尊敬するように話していた。
釈尊の悟りは神秘体験かどうか、釈尊は神秘体験をどう考えていたか、諸説あるが、私としては、釈尊は神秘体験自体を否定しないが、特別な価値があるとは考えていないと独断している。
問題は、いかにして神秘体験の呪縛から解放されるか、である。
亀井鑛『日暮らし正信偈』を読んでいたら、そのことについて書かれてあってうれしくなった。
このように前置きし、「そんな錯覚から事なく切り抜けられた方」を亀井さんは紹介されている。
その方が37、8歳のころ、農薬の薬害とストレスの鬱病が重なり、耳鳴り、めまい、ものが二重に見えるなどに苦しんだ。
近くの禅寺へ座禅に通って、何ヵ月かしたある春の朝、
神秘体験とご利益体験を合わせた体験である。
ところが、この喜びをある真宗寺院の住職に報告したら、「そげなもん、屁にもならん」と吐きすてるように言われた。
ご本人も「以来、たしかに耳鳴りめまいは消え、体調もよくなったけれど、あの光り輝く感動は、記憶だけで蘇らない、つづかない」と思った。
そして夏になって、真宗寺院の講習会で話を聞き、「あ、そうか。この〝屁にもならん〟ところに、念仏の生きた真の意味がひそんでいるのか」とうなずけたという。
体験したことを握りしめて絶対化すること、それはまさに執着そのもので、「屁にもならん」と知らされる、それが体験という呪縛を乗り越える道なんだと思う。
書店に行くと、確か新潮45別冊だったと思います。
タイトルは忘れたのですが、江原啓之絶賛本で、中身は、林真理子など著名人との対談。更に、がん患者の方との対談やホスピス訪問と盛りだくさん(読まずに見ただけです)
霊媒師が終末医療に関ってはいけないと言う事はないですが、なぜか気分の重い私です。終末医療に関わった体験のない私が言っても、門外漢は黙れと言われるだけですが・・・
この辺は、三昧発得の人であったとされる法然上人をどう扱うかという浄土教系の教学的問題になりますね。と、阿満利麿先生の『法然の衝撃』を読みかじったことを書き散らしてみました。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta-0t.htm
日々ずーっと読んでたことがありましてねぇ・・・
で、色々悩んで苦しんで信仰にたどり着いたのは
理解できたし、いいなぁって思ったんですが、、、、
最後はハンガーストライキで死んじゃうでしょう・・・
何故なのよって釈然としなかったのですが・・・
もともと思い込むタイプの人が、神秘体験しちゃったから、尚のこと現実把握力が弱くなったのかなと・・・
誰かが「屁にもならん」って言ってくれてら、
もっと違う視点で色んな活動が続けられたかもしれませんね。
その時はその時なりに意味のある体験でも、普遍化しちゃいけないし、固執しちゃいけないと・・・
今は今なんだよってのは、誰かに言ってもらわないと、なかなかピンとこないです。言われたって、
聞こえないフリしちゃうことも多々ありますし・・・
気を付けたいなと思います、ホント。
私としてはスピリチュアルを霊性などと訳さず、宗教心としたほうがすっきりします。
スピリチュアルケアは宗教的お世話、スピリチュアルペインは宗教的苦悩というふうに。
しかし、実際のところは宗教という言葉に違和感を感じる人のほうが多いんでしょうね。
スピリチュアルケアと江原啓之の言ってるスピリチュアリティとは全然違うと思います。
樫尾氏は、スピリチュアリティはスピリチュアリズム(心霊主義)とは別だと言っておられます。
江原啓之は霊媒ですから、死後も霊魂が存続し、霊魂と交信できるというスピリチュアリズムです。
「死んだらどうなるのだろうか」という悩みもスピリチュアルペインの一つですから、死んだらこうなりますよと言う江原啓之のもっともらしい話で楽になる人もそりゃいるでしょう。
私は江原啓之の死後観じゃ邪道で、人を迷わせることになると思いますけど。
>tenjin95さん
「大乗仏典 法然・一遍」の解説(大橋俊雄)にこう書かれています。
「法然上人の伝記を語る時、しばしば「三昧発得」ということが問題になる。もしこれが、確かな本願の大地に立った信仰のよろこびから発する、感謝の念仏の内景であるとすれば、自分に関係ある人々や回りの自然を通して浄土の荘厳が見えてくるということは、信仰の証果として十分に有り得ることである。しかし、これを努力の念仏の果として見るとすれば、それは一時的な心理現象ないし幻想ということに終わる危険がある」
しかし、三昧発得が救われたことの現証とされているようでもあります。
コメントをいただき、法然伝などを読んで勉強させてもらおうと思いました。
>モンチさん
その「信仰」とは真宗の言葉で言うと「自力の執心」でしょうか。
>おまつさん
>最後はハンガーストライキで死んじゃうでしょう・・・
自ら飢え死にするというのはすさまじいというか。
まさか死ぬとは思っていなかったのかも。
子どもの自殺が毎日のように報道されています。
連鎖反応ということもあるのでしょうが、「なぜ」と思います。
生よりも死のほうが親しいのでしょうか。