角川文庫の『倒錯の森』(鈴木武樹訳1970年刊)を何十年ぶりかで再読しました。
意味がわからない文章があちこちにあり、どういう意味なのにか知るために、「ブルー・メロディ」(『倒錯の森』所収)の訳を、渥美昭夫訳(『サリンジャー選集3』荒地出版社1968年刊)で読み比べました。
鈴木「その師団を指揮するのは、わたしが偶然、知ったところでは、ある准将で、彼は、司令車に乗るときはたいてい、《ルーガー》のピストルとカメラマンとをそれぞれ両脇に控えさせているとのことだった」
渥美「偶然に知ったことだが、その師団はある准将の指揮下にあり、その准将というのが司令官専用自動車にのるときは、きまってドイツ製のピストルと写真部員とを彼の両脇にしたがえているとのことだった」
鈴木「そのあとには、数年の期間にわたって、一連の、まったくよく当たった叢書が続くわけだが、これらはいずれも、まったく読めない教科書ばかりで―今日でも、きわめて広範囲に―『よくできるアメリカの高校生のための知識叢書』として知られているものである」
渥美「その後、数年間にわたって、とても読むに堪えないのだが実によく売れた教科書のシリーズが続々刊行された。それらは今日でもなお「米国高校生用高等百科シリーズ」として、あまりにもよく知られているものである」(ラドフォードの父親の出版社が出している本のこと)
鈴木「ラドフォドの少年時代には、大切な脚注が二つ、付いていた。それは彼の父親の本には載っていなかったが、いずれもずいぶん近しいもので、いったん事が起これば、たちまち、ちょっとした意味を一つ、持つようになるのだった」
渥美「ラドフォードの少年時代には二つの重要な注釈を加えなければならない。それらは父の本にはのっていなかったが、いざというときにすぐ頭にうかぶほど身近な意味をもつものであった」
鈴木「彼が彼女について気づいていたことといえば、だいたい、彼女は書き取り会ではいつもいちばん先に外に出される、ということくらいのものだった」
渥美「彼はその子にあまり注意をはらわなかった。ただ、綴り字(スペリング)競争では彼女がいつも真っ先に落伍するということに気がついていただけだった」(ペギーについて)
鈴木「彼は日が暮れたあとのブラック・チャールズの店には付きものの、あの騒音と煙と跳躍とにはあずかれなかったが、午後には午後で、同じくらい、あるいはもっと嬉しいものがあった」
渥美「日が暮れると、彼はブラック・チャールズの店の騒音やけむりや踊りをなつかしく思った。しかし彼は午後のあいだにそれと同じか、あるいはもっといいものを手に入れたのである」
鈴木「そのあと、うちへ歩いて帰るときのその歩きぶりが―口はきかず、ただときおり、石かブリキの罐を蹴とばしたり、あるいは、葉巻きの吸い殻をつくづくと踵で二つに切ったりするだけなのだ。彼女はおあつらえむきな女の子だったのである」
渥美「その後で歩いて家へ帰る道すがら、彼女が話しもしないで時々、石ころや空きかんを蹴とばしたり、靴のかかとでタバコのすいがらを二つに切ったりするのも好きだった。要するに彼女は申し分がなかった」
鈴木「ラドフォドとペギィはまた歩きはじめた。考えこんだ様子で、永遠の変貌をとげて。この午後は、その後どうなったかはわからなかったが、いまでは永久に、赤・金まだらの木を一本と、消防夫の帽子をひとつと、とび方をほんとうに知っている猫を一匹、含むことになったのだ」
渥美「ラドフォードとペギーは先へ歩きつづけたが、すっかり考えこんでしまい、以前とはちがった気分になっていた。つかのまの出来事ではあったが、この猫のおかげで、この日の午後はなにか永遠のものとなった。―赤と金色の木。消防夫の帽子。ほんとうに上手に跳ぶことのできる猫」
鈴木「ブラック・チャールズは、おもわず見とれるようなナイフで、すてきな様子をした箱の紐をみな切った。ペギィは冷たい豚のあばらの専門家だった」
渥美「ブラック・チャールズはすばらしいものの入っていそうな箱のひもを、見ていて気持のいいようにナイフで片はしから切って行った。ペギーは冷たい豚の肋肉(スペアリブ)ばかり食べていた」
鈴木「カジノをしはじめた」
渥美「トランプをはじめた」
鈴木「虫垂突起だよ」
渥美「盲腸だ」
鈴木「ジョウンズ夫人は車まで行く途中でこの荷物のはしを下に落としてしまった」
渥美「ジョーンズ夫人は自動車まで運ぶ途中で、かかえていたリーダの足を落としてしまった」(腹痛に苦しむリータを運ぶ場面)
鈴木「白いアヒル服を着た付添い人で」
渥美「ズックの洋服をきた看護人だった」
おそらく、サリンジャーの文章は長く、しかもこみ入ってて、翻訳しにくいと思います。
鈴木武樹訳と渥美昭夫訳のどっちがより正しいのか、英語がさっぱりの私にはわかりませんが、渥美昭夫訳は何が書かれているかわかります。
逐語訳と意訳とどちらがいいかは難しい問題で、以前は外国小説を大学の先生が訳翻訳することが多く、堅苦しい直訳がありました。
鈴木武樹訳はその典型かもしれません。
ユーモア作家ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』はどうも笑えなかったのですが、これも鈴木武樹さんの訳でした。
『フラニーとズーイ』も鈴木武樹訳で読みましたが、つまらなかった記憶があります。
村上春樹訳と比較したら面白そうですが、面倒なのでやめときましょう。
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