三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

青草民人「はからいは たのまじものを」

2014年11月22日 | 青草民人のコラム

今年の報恩講で、講師の伊藤元先生(日豊教区 徳蓮寺前住職)から「良いことをしたから、良いことがあるとは限らない」という話がありました。

たしかに「良いことをしよう」という心の底には、「良いことをすればきっと良いことが起きるにちがいない」という考えが浮かぶことが多々あります。

逆に、「悪いことをしたから、ばちがあたったんだ」という言い方もしますが、これも似たような意味かもしれません。悪いことをしたから必ずしも悪いことが起きるというわけでもないのでしょう。(道徳的には認められない考え方ですが)

私たちは、そんなつもりじゃないと思っていても、結果によって自分の行動を価値づけることがあります。また、結果を期待して自分の行動を方向づけることもあります。こうしたことは、「はからい」という人間の深層にある欲望の現れかもしれません。


伊藤先生は「これまでが、これからを決めるのではありません。これからがこれまでを決めるのです」とお話しされました。

人間は、過去の結果から未来を価値づけることが多い生き物です。因果応報的なものの見方、考え方をするものなのでしょう。
しかし、これからの新しき道を開く教えや人に出遭うことで、過去の自分自身を凌駕することができるのです。

浄土真宗は、厳しい修行に身を置き、精神を清浄にし、仏の悟りを得るといった仏道ではありません。ひたすら聞法することが、その行となります。人の話を聞くこと、聞法の場に身を置き、話を聞いて自分を省みるのです。

「はからい」は、独りよがりの自分勝手な解釈です。人の話を聞くということは、時に自分の浅はかさを否定されたり、自分の欲望をあからさまにされたりすることにつながります。
裸の自分をさらけ出すことで、もう一人の自分の存在に気づかされる瞬間があります。はたと気付くということが、誰しもあると思います。

世間の様子を見ていると、人の話を聞かない一部の人たちによって、「はからい」だらけの欲望の渦巻く社会が作られようとしているように思います。「これからが、これまでを決める」という教えは、人の話を聞くという行の上に成り立つものです。


目先の利益に目を奪われて、未来に禍根を残すようなことがたくさんあります。戦争や震災の経験が全く意に反されていない現実に、これからの日本に不安を抱くのは私だけでしょうか。時代に逆行するだけで、先に進めない日本の行く末がとても心配です。

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