三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

青草民人「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」

2016年05月11日 | 青草民人のコラム

親鸞聖人は、『唯信鈔文意』において「屠沽の下類」(とこのげるい)といわれた当時さげすまされていた猟師や商人のような庶民階級層に対して、「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と呼びかけておられます。いし、かわら、つぶてとは、取るに足りないものという意味であり、親鸞聖人はこうした人々と共に歩むものとして、「われらなり」という宣言をされています。

『唯信鈔文意』のこの件は、「能令瓦礫変成金」と書かれた部分で、こうした、いし、かわら、つぶてのように扱われている人々であっても、阿弥陀仏の本願によって、念仏申せば、仏になれるということを、金に例えて、いし、かわら、つぶてを金に変えるおはたらきが、阿弥陀仏の本願なのだと説明している部分です。

さて、今回この「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」という言葉を引用したのは、阿弥陀仏の本願の功徳を説くためではありません。どちらかというと、親鸞聖人がこうした人々のことを「われらなり」とお呼びになられたことを取り上げたかったのです。

長年同じ仕事をしてきて、ある程度の年齢になると、職歴もあり、また、職務上の地位や高額な報酬も得られるようになるかもしれません。しかし、
一人の人間としての自分の評価が高まったかというと、必ずしもそうだとは言えません。部下や同僚は、その職階による上下関係や利害関係で、従ったり、敬ったりしているだけなのかもしれません。

しかし、うっかりするとそのことに気づかず、自分が偉い人間なのだと勘違いしてしまうことがあります。人が傅くのは、役職であって、その人物だとは限りません。

一休さんの話に、次のような話があります。
あるお金持ちの家で法事を頼まれたとき、経を読みに行った一休さんは、汚れた黒衣で訪れたら門前で追い返され、高価な衣で来たら丁重に迎えられたので、用事があるのは私ではなく、この衣ですねと言って、その衣を脱いで帰ったという話です。

私たちは、知らず知らずのうちに、調子に乗って、何枚もの衣を着て、人を色眼鏡で見るようになってしまいます。しかし、その衣を失えば、だれしも、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなのです。そして、そんなわれらにも阿弥陀仏の光が当てられています。

子どもにかかわる仕事をしていると、いろいろな事情を抱えたご家庭に出会います。子どもの目線に立って、朋に出遭う自分でありたいと思います。とても難しいことですが。

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