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Sumo Decade - 北の湖逝去

2015-11-23 20:01:47 | メディア・芸能
北の湖敏満、北海道壮瞥町出身の横綱、のち日本相撲協会理事長で本名・小畑敏満(おばたとしみつ)。
この「敏満」という名が、図らずも彼の相撲を一言で表している。巨体ながら俊敏で、組んでよし、離れてよし、左四つに組んで右上手を取れば無類の強さを発揮するが、突っ張り合いでそのまま押し出してしまうことも。差し手の巻き替えが巧みで素早い。1974年の名古屋場所後、21歳2ヵ月の若さで横綱昇進。輪島、若乃花(二代目)らと好勝負を繰り広げ、連続出場・勝ち越し・二桁勝ち星を続け、「憎らしいほど強い」と称されるほど君臨したが、81年の夏巡業で膝を傷めてからは別人のように脆く、休場がちとなり、第一人者の座を千代の富士に譲り、両国に新国技館が落成して迎えた85年初場所を最後に引退。

優勝24回、歴代最多の横綱在位63場所、年間最多勝7回など、功績を称えて現役のシコ名のまま親方となれる一代年寄が贈られ、後年は相撲協会理事長として、協会の公益法人化や、八百長問題・暴行死事件などで低迷した大相撲の人気を回復させることに尽力した。在任中、九州場所中の11月20日に体調が急変し死去。62歳。




74年名古屋場所。琴桜と北の富士が相次いで引退し、一人横綱となった輪島は2敗、前場所優勝して勢いに乗る大関北の湖は1敗で迎えた千秋楽。結びの一番で左四つから得意の下手投げで輪島が勝ち(左ページ)、共に13勝での優勝決定戦も、北の湖が右外掛けに来たところを輪島が下手投げで破り逆転優勝(右ページの下側)。面目を果たすと共に、優勝を逃した北の湖も場所後横綱に推挙された。
北の湖理事長死去後、談話を求められた輪島は、思い出の対戦としてこの逆転優勝を挙げている




一門の総帥で、当時の理事長だった春日野親方(元横綱栃錦)の指導で、雲竜型の土俵入りを稽古




昭和28年生まれの関取衆は有望株揃いで「花のニッパチ」と称された。後列左より麒麟児、若三杉(のち二代目若乃花)、金城、前列左より大錦、北の湖




77年5月、二子岳の引退相撲で披露された輪湖三段構え。76年と77年、12場所のうち千秋楽に輪島と北の湖ともに優勝圏内で対決したのが7度、うち4度は相星決戦、優勝決定戦1度。76年は北の湖優勝3回で輪島2回、最多勝は輪島77勝。77年は輪島3回・北の湖2回、最多勝は80勝の北の湖と、この2年間は稀に見る実力伯仲




78年、輪島がやや衰えを見せ始めたが、大関若三杉が充実。夏場所14日目、全勝の北の湖に上手投げで土をつけた。千秋楽、1敗同士の決定戦では北の湖が雪辱したものの、場所後に横綱となり、若乃花を襲名。
北の湖理事長死去後の談話によると、14日目の若三杉は、北の湖に上手を許しては負けると考え、廻しを堅く締めたがゆえ、上手投げを打った際に肋骨を骨折していたという




81年初場所、1敗同士の優勝決定戦は、右四つからの上手投げで千代の富士が北の湖を下す。千代の富士は関脇で初優勝だったが、急速に台頭、新しい時代へ




新国技館の土俵を踏むまではと頑張った北の湖だが、初日、2日目と連敗、遂に白星を挙げることなく土俵を去った。引退相撲・断髪式で最後にハサミを入れるのは、北の湖と同期で、土俵入りの太刀持ちや優勝パレードの旗手を務めることが多く、自らも最後は大関に上がった増位山(二代目)の三保ヶ関親方。この引退相撲の直後に先代の三保ヶ関親方が北の湖の実父と1日違いで亡くなり、葬儀が重なったが、北の湖は「師匠は親以上の恩人」として、親戚中に手紙を出して父の葬儀を欠席し、師匠の葬儀へ出席した



画像はすべてベースボール・マガジン社の相撲・各年の総集号と、激動の昭和スポーツ史・相撲より。今では信じられない思いがするが、この頃の私は巨人ファンで北の湖ファンだったんですね。テレビでスポーツ観戦する時間が長かった。

相撲も79年くらいまでは欠かさず見ていたと思う。輪島との、あるいは若乃花との千秋楽、優勝を賭けた一番など、どれほどドキドキしたことか。
76~77年の輪湖は本当に実力伯仲していたし、均衡状態ということでは、79年と80年も、北の湖が3回優勝、輪島と若乃花と三重ノ海が1回ずつ優勝。ことし、白鳳が3回優勝して、照ノ富士と鶴竜と日馬富士が1回ずつ優勝したことを思い起こさずにはいられない。

あるいは初期の北の湖が優勝決定戦で4回続けて負けたのも併せ、若く、実力者の彼が、相撲界全体の繁栄を考え、敵役を買って出て、ガツガツと優勝をむさぼろうとせず、真剣勝負ではあるが、長い目で他の力士にも花を持たせた、広義の八百長に近い含みもあったろう。

彼は非常に記憶力に優れ、現役中の全取組と決まり手を記憶していたという。昔の自民党の政治家、例えば田中角栄のような清濁併せ呑む懐の深い人物だったのではないか。だからこそ、力が衰え、引き際を疑問視されてからも、84年夏場所で全勝優勝し、どうにか新国技館落成まで土俵に上がることを、相撲界の総意として許されたのだろうし、後年には異例の理事長再登板となったのも、その人望の表れといえよう。

白鳳は、もし帰化して一代年寄の資格を得たら、との問いに対し「北の湖理事長から受けたかった」と答えた。いま彼は前人未到の優勝回数に達し、奇手・猫だましを試みるなど、衰えてからの北の湖には許されなかった、余力をもって相撲の奥義を究めようとしているかのよう。これからの大相撲がどうなるかは分からないが、そのますますの繁栄を、北の湖の冥福と併せ祈りたい―

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