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日本幻景 #32 — 軍国主義と朝日新聞

2022-01-28 19:46:59 | メディア・芸能
1918年8月26日、大阪朝日新聞(タ刊。以下「朝日新聞」で統一)は〈寺内内閣の暴政を責め 猛然として弾劾を決議した関西記者大会の痛切なる攻撃〉という見出しの記事を掲載した(一部現代表記にあらためた)。この記事のうち、寺内正毅内閣は以下の記述を問題視したのだ。

〈我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判(さばき)の日に近づいてゐるのではなからうか、『白虹日を貫けり』と昔の人が咳いた不吉な兆(きざし)が黙々として肉叉(フォーク)を動かしてゐる人々の頭に雷(いなづま)のやうに閃く〉

当時の日本は米騒動で紛糾しており、寺内内閣は朝日新聞からの糾弾を恐れていた。政権は朝日新聞を攻撃する材料を探していたわけだが、そこに先の記事が出た。(白虹日を貫けり〉とは中国の古典からの引用であり、「国に内乱が起きる」という意味だ。寺内内閣は「日は天子=天皇を意味する」と難癖をつけ、記者を新聞紙法の「朝憲素乱(ちょうけんびんらん)」違反で起訴した。「朝日新聞は天皇の暗殺をそそのかしている」と言いがかりをつけたのだ。 

朝日新聞が発行禁止までされることはなかったが、当時の村山龍平社長は辞任し、鳥居素川(そせん)編集局長と長谷川如是閑(にょぜかん)社会部長は退社に追いこまれた。記事を書いた記者や編集発行人は、2カ月の禁固刑を下されている(朝日新聞99年1月25日付、05年10月21日付より)。

白虹事件は、戦前の日本のジャーナリズムの中で非常にインパクトが大きい事件となった。大正時代の人たちは古典の教育を受けているため、記事中に中国の古典を援用する。その言葉の揚げ足を取り、記者に刑事罰を科したり仕事をできなくさせたりしたのだ。特別報道部から弾き出された依光隆明記者たち(注:吉田調書報道取り消しの当事者)を見ていると、私は「まるで長谷川如是閑のようだな。これでは平成の白虹事件ではないか」と慄然とする。

ちなみに、長谷川如是閑をはじめ朝日新聞を辞めさせられた記者は、このとき読売新聞に移籍した。それを見た日本の財閥は恐ろしくなり、内務省で警視庁警務部長まで務めた正力松太郎氏に「キミ、新聞を買わないか」と声をかける。
正力氏は内務省時代、思想警察を指揮して共産党を弾圧していた人物だ。この人物が財界の応援を受け、1924年に読売新聞を買収して社長に就任した。すると長谷川如是閑ら政権に都合の悪いジャーナリストは、読売新聞から追放されてしまった。

「白虹事件」は、政府への批判的報道を潰した第一歩だった。骨のあるジャーナリストを追放した戦前の朝日新聞では政府への批判的な報道が少なくなり、大本営発表を垂れ流す新聞へと成り下がっていく。そして日本全体が軍国主義的傾向を強めていった。

翻って現在の朝日新聞を見ると、14年9月11日の「吉田調書」報道取り消し以降、紙面からは調査報道らしい調査報道がほとんどなくなってしまった。調査報道の牙城が崩れ、政権へのカウンターがジャーナリズムから放たれなくなってしまったのだとすれば、まさに「平成の白虹事件」ではないかと私は危惧を強める。 ─(マーティン・ファクラー/安倍政権にひれ伏す日本のメディア/双葉社2016)



③昭和17年8月1日朝刊の企画記事「戦う日本」で紹介された東條英機首相。対米英開戦直前の16年10月から19年7月まで首相を務め、陸軍大臣・軍需大臣も兼任、23年末にA級戦犯として絞首刑に処された。朝日新聞は、まめに国民生活を視察する東條首相を好意的に報じたが、唯一、東條に批判的だった衆院議員・中野正剛の論文「戦時宰相論」が東條の逆鱗に触れ、同紙面は発禁、憲兵によって軟禁状態に置かれた中野は割腹自殺。



④細川隆元(たかもと)ブエノスアイレス特派員の署名記事が外報面に頻繁に掲載され、米国の政治・文化が堕落し、戦争でも日本に押されている様子を大げさに伝えた。戦後は日曜朝のテレビ番組『時事放談』などで政財界のご意見番として活躍。



⑤昭和18年3月7日朝刊、「撃ちてし止まむ」企画11回目として千葉県の女たちが竹槍訓練に励む様子を伝える。



⑥1940・昭和15年の紀元2600年(後世の創作)を記念し、ベルリン大会に続く東京オリンピック開催、万国博覧会、5000人収容の武道館建設などが計画されたものの、泥沼化する日中戦争の戦費は膨張し、一大プロジェクトは計画倒れに。左:奉祝演奏会のためリヒャルト・シュトラウス、ジャック・イベールら高名な作曲家が楽曲を献呈。右:万博の東京会場の計画。 ─(この項のみ朝日歴史写真ライブラリー『戦争と庶民①大政翼賛から日米開戦』より)


当時の日本人当局者は文民・軍人を問わず、広告というものを批判的な目で見ていたのに加え、広告業界全体を品のないものとみなしていた理由は理解しやすい。生理用品や青年の性的好奇心を刺激する機器等に関する露骨な広告が掲載される度に、日本社会は広告業界を非難していた。しかし、政府は広告業を営む専門家が、戦時下プロパガンダの制作に加担することをどうしても必要としていたため、一種のジレンマに陥っていた。言うまでもなく「宣伝製品」、すなわちプロパガンダ製品は、専門家により意図的に制作される必要があった。政府と民間プロパガンダ組織は、いずれも日本国内、および、さらに重要なこととして、海外で消費される多様なプロパガンダの創作と執筆、生成と出版を行える才能を持った人々を必要としていた。

他方で、広告会社の幹部や業界全体の視点に立つと、この政府の戦争遂行に便乗することで、広告業界の社会的地位を向上させることができると考えていた。この日和見主義と増収益への欲求は、熱狂的な愛国心を求める当時の雰囲気とうまく噛み合うことになった。軍や政府が所有するのではない小規模広告会社も、多くの場合政府広告や観光ポスター、その他関連製品のプロパガンダを制作している。これらの企業は、日本は近代的で効率的、さらに衛生的であるため、アジアを牽引するのにふさわしい国である、というアイディアをその広告にプロパガンダとして組み込んでいる。

(中略)1930年代前半になると、広告に関する研究会が早稲田・慶應・立教・明治といった一流大学で結成され始めていた。広告を研究していた人々の大部分が慶應大学に所属していたが、早稲田大学も一定の勢力を誇っており、『早稲田広告学研究』という雑誌を出版している。また、早稲田は山名文夫の報道技術研究会のような団体を生み出すには至らなかったが、『早稲田広告学研究』は中国における戦争や広告に関する学術会議の内容を掲載していた。本誌に掲載されている一般向け討論会では、コロムビア・レコードの幹部が他の参加者に対し、経済的な規制が強まっているこの時代には、広告はもう必要ないのではないか、という質間を投げかけている。この問いかけに対する回答の多くは、広告の将来について悲観的な見方を隠し切れないものが多かった。しかし、参加者の多くは、広告が無くなることはないだろうが、その見た目や中身は変えていく必要があるという意見に賛同している。討論参加者の多くが、広告は時代に適応していかなければ、戦時インフレと低下する可処分所得により絶命の危機に瀕するだろうと結論付けている。 ─(バラク・クシュナー/思想戦 大日本帝国のプロパガンダ/明石書店2016)




10億円の国有地を1億円で、という森友問題が明るみに出る前、安倍晋三・昭恵の側近や、大阪維新の議員・関係者が深く関与していたことについて、朝日新聞はつかんでいながらあえて報道しなかったという疑惑。安倍側近と大阪維新がつながっているというのは、大阪の自民党や府市民にとっては裏切り行為に等しい大問題である。

朝日新聞はあえて「反日パヨクの総本山」として叩かれ役を演じる一方、テレビ朝日や傘下のアベマTVを通じて安倍・維新・ネトウヨ寄りの日和見的な態度をとることで、自分たちさえ存続できればいいという戦時中と同じ過ちを繰り返しているのだろう。この保身は朝日に限ったことではないから日本は短期間でオワコン化してしまったのだ。
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