無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ライブコンサートを少なからず(という程多くもないのだけれど)観てきた身として、結局私を喜ばせるのは、たった今演奏している曲に演者がどれだけ集中しているか、だ。思い入れや拘りと言ってもよく、もっと言えばその歌を愛しているかどうか。それに尽きる。

今はZEPP TOKYOでのPumpkins United公演の帰り。今日3月23日が命日になるんじゃないかと思わせる程私を殺しにかかった名曲オンパレードのコンサートで、聴衆を圧倒したのはやはりマイケル・キスク(ミヒャエル・キスケ、だけどなメンバー紹介だと)の歌唱力。まぁとんでもない。今まで生で観た歌手の中でもいちばん上手い。声の制御技術が完全に人外だった。

なのだが、やはり醒める。選曲は最高、演奏もサウンドも絶好調、歌唱力には何の問題もなしなのだが、如何せんキスケはHELLOWEENの曲にさして思い入れがない。感情が籠もってないとかより、単純にそこまで好きな曲でもないのだろう。端々節々にそれを感じて私は醒める。一方で周りからみればあの人全曲歌ってはしゃいで楽しそうだなと見られるような振る舞いをしているのだから我ながら器用というか奇妙というか。両方本音なので何の問題もない。醒めてる私も本音、はしゃいでる私も本音。

歌っている人が今歌ってる歌に思い入れがあるかないかなんて事を気にしながらライブを観ても楽しめない、というのは真実なのだが、気になるものは仕方がないでせうに。寧ろ、私はそれを観に来ている。今歌ってる歌の何処が好きなのか愛情たっぷりに表現してくれた時、私は満足する。他の人の事は取り敢えず知らない。

シンガーソングライターはその点で圧倒的な強みを持つ…筈なのだ。自分の好きになる歌を自分の好きなように作って好きなように歌える。他人の曲を歌わなければならないバンドやアイドルにはない圧倒的なアドバンテージ。ヒカルさんはそれを活かしているのか。

ここが難しい。ヒカルさんは完成した曲を聴く習慣がない。だからといって愛情を注いで曲を書いていない訳でもない。私なんかは自分で何かを作ったらそれを使うのが目的なんでないのと素朴に思うものだが、日曜大工が趣味の人が作った家具を次の週から生活に組み入れるのか、作れた事に満足してとっとと友達にあげてしまうのか、確かにその違いはあるだろう。ヒカルさんは完全に後者。

だがライブコンサートはその作った家具をもう一度かき集めて部屋を仕立てる作業みたいなもの。普段から生活に組み込んでいる人はもう今すぐただ部屋に案内するだけでよい。ヒカルさんは、まず他人のモノになっている自分の作った家具たちを返して貰うところから始めないといけない。だからヒカルはいきなりライブをする事ができない。入念にリハーサルを重ねよう。

そ、こ、で。返して貰った家具を「やっぱ好きだー」と言えるかどうかが勝負の分かれ目である。ライブやるつもりだったら最初っから自分用に家具を作って使っときゃいいのに、と思うものの、仕立てた部屋は皆で使うもの、或いは皆で眺めるものだ。となると、人にあげる為に作った家具の方が都合のいい場合もある。ここらへんの塩梅が、確かに難しい。

そこをかいくぐって自分も他人も絶賛する部屋を仕立てられるかどうか。私はまず、ヒカルがたった今歌ってる歌に思い入れや拘り、何より愛があるかどうかを聴く。自然に気になってしまうだろう。ただ巧く歌うだけだと無意識日記は絶賛しない。どれだけ甚だしい愛を感じさせてくれるか、そこを大きく期待してツアーを待たせてもらおう。全曲で『ぼくはくま』みたいに楽しそうに歌えればいいんだよ。簡単な事…でしょ?

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まだこのネタで引っ張るんかい。

Mステに出た時に退出限界時刻に挑戦してた身からすれば「立ち去るのが早い」と思われるのは織り込み済みだと捉えてたのだが、この、『そう思われないには』の一言が出てきたからにはそれじゃまずいと考えるようになった分変化があったとするべきか。

次から気をつけて3秒数えるようになってたら笑えるのだが、要するに「後ろ髪引かれる想い」とか「ずっと話してたい」とかの感情が無いんだわね。それはそれで仕方がない。ヒカルの相手の方が「折角会えたのに素っ気ない」「もっと話そう」と思ってるから余計「…早いなっ!?」と感じてるだけで、ヒカル自身は実は全然普通だったというのも有り得る。万国共通に愛される女宇多田ヒカル。これなら纏め方として綺麗だな。

ツイッターのお陰で「会話のキャッチボール」が可視化されて、メッセ&メールの時代より色々わかりやすくなった。これだけの返信を総て読む事は出来ないが、どんな人たちがヒカルをフォローしているのかというのがみれるのは有り難い。殆どの場合こういったケースを参考に普段何気なく書いてる「ライトファン」とか「顧客層」といったイメージを固めていく。いやイメージは固定化するもんじゃないけどな。

結局は人数や回数が嵩んでくると「本人の写し鏡」になっていく、というのが理想なんだがそれをするにはちょっとツイッターのリプライ欄は範囲が広すぎるか。一言呟くだけですぐWeb記事がアップされる立場、それはもうすぐに「別にファンでも何でもない人」が寄ってくる。そして、そちらにまでアピールできてこその大衆歌手ではある。

なりくんがインタビューでヒカルを「芸術家肌で自分の拘りを貫く」的な事を言っていたが、ヒカルの場合その拘りぶりが欲張り極まりないせいで様々なタイプの人間に受け入れられたい欲求まで叶えようとする為結局ポピュラーミュージックになるという構造が在る事にまでは言及していなかった。なりくんは気づいていないのか或いは自らのインタビューに関係ない領域だと判断したのか定かではないが、レーベル運営からソロミュージシャンという"逆行"を果たしている身としては学びの順序も逆なのかもわからない。

ヒカルも様々な順序が逆だったが、『In The Flesh 2010』を行った事でそこらへんはしっかりリセットされた気がしている。もうビッグである事、売れる事に躊躇がないというか。その躊躇いの無さが『思われないには』に繋がったのだとすれば辻褄が合うかもしれない。もっとも、ツイートを推敲する過程で間違って「為」を消しちゃったのだとすると(何故か私にはそう見えている)、ヒカルもまだまだ役割を演じている訳なので、お母さんへの憧れが薄れる事にはなってなさそうだ。まだまだ果てしない旅路だねぇ。

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