無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『あなた』が我が子に向けた歌であるという"種明かし"が早い段階で有ったのは未だに疑問だが、それ以上の違和感といえば、もうこの歌の存在そのものかもしれない、息子を「あなた」という二人称で呼ぶ事だ。

いや、別に「君」でも「you」でも「そなた」でも「うぬ」でも何でもいい、我が子に対して一人称と二人称の存在である事自体に違和感がある。

それはちょっとした偏見かもしれない。シンプルに親父(しんぷ)の存在が感じられないのだ。

Yes, yes. 今時シングルマザーなんぞ珍しくもない。未婚の母とか紙切れ一枚の呼び名である。それについて何かを語ろうとは思わない。人数ではなく、"家族感"(家族"観"じゃないよ)の希薄さが気になるのだ。

母と子は家族である。つまり、そこに父とか兄とか姉とか妹とか弟とか、場合によっては祖父や祖母、叔父や叔母(タラちゃんにとってのカツオやワカメだな)も居たりするかもしれない。いや、血の繋がりのない居候さんも居るかもしれない。そうやって何人も(2人でも3人でも4人でも…)を抱え込める、迎え入れられる感覚、それが"家族感"である。

それこそ、私の家族"感"が間違っているかもしれない。『あなた』に感じるのはそういった三人称的な広がりの無い、一人称と二人称だけの世界だ。父親に限らない。なんだかここには純子さんも照實さんも入り込めない、いや、居ないと言っていい。

もっとシンプルに行こう。二人目を生んだ後、『あなた』はどんな響きになるのか。兄を差し置いてまた「二人だけの世界」を作るの? 幼児退行しちゃうよ? いやそれはいいんだけど、『あなた』を通じてそのまままるで恋愛関係があるかのような歌詞を書き歌うのは、『真夏の通り雨』並みの挑戦では、ある─で、あるからして、その危うさも気にかかる。『真夏の通り雨』に登場する中年女性と若い男性(これが若い女性だったら『二時間だけのバカンス』が女教師と女生徒の百合だという説が力づけられるのだがなぁ)というのは、幾らなんでも架空だろう。『あなた』の"男女"もまた架空だろうから、これは杞憂に過ぎないのだろうけれど、やはり、繰り返すが、二人目を生んだ後にもう一度この歌を聴き直してみたい。何がしっくりきていないのか、まだまだ自分でもよく判らない段階なので。

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20周年は盛大に祝うんだろうけど19周年ていうのは全く話題にならないもんだね。うちら的には19の文字をみると反応し119を確認すると色めき立つというのに。いやそれとこれとは関係ない。

今年の12月からあらゆる20周年が展開される。デビュー20周年、むびのん20周年、初恋アルバム20周年、LuvLIVE20周年…どう祝っていけばいいかわからない位だ。このどこかにツアーが挟まれていくというのだから来年の今頃はお祭り状態ですわな。今の静けさが嘘みたいに。過ぎればまた、あのお祭り騒ぎは何だったのか、今ではもう嘘みたいだ、と呟くんでしょうけど。

アーティストの性質上仕方がないが、贅沢なこちらの希望は「宇多田ヒカルの居る日常」であって、突発的なお祭り騒ぎに一喜一憂する事は、嬉しくない訳ではないのは当然としても、やっぱりちょっと勿体無い。大抵そのテンションの高さについていけないから。特にツアーになると、「普段何してたの?」という位に人が湧いてくる。いやそりゃこちらの勝手な見当なんだが、ライブコンサートの魔力って凄いなと毎年改めて思う。そしてツアーが終わればまた静かな日々が戻ってくるのだ。

こちらにはメリハリなんてない。ずっと同じである。ツアーが始まったからといってヒカルに対する熱量が変わるかといえばあんまり、いや殆ど、いやさ全然変わらない訳で。ツアーの盛り上がりで高揚した人たちは、ツアーが終わればテンションが下がる。こちらはそれをただ眺めているだけだ。良いも悪いもない。ただそれがひたすら事実なだけで。

まぁ、贅沢なのはこちらなのだとわかりきった上での「ポカーン」なので、似たようなものかもしれないな。それでまた新しい日常を手に入れる人が現れるのだろうから、そうなったらまたその時振る舞おう。それだけの事なんデス。

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