ジューダス・プリーストの新譜を聴きながら、「彼らの新作をリアルタイムで聴けるのもあと何回あるか」と溜め息を吐く。特に、音楽的ブレインであるギタリストのグレン・ティプトンが自らをパーキンソン病が蝕んでいると好評した直後のタイミング。内容が力作なだけに、惜しい気持ちが…
…うーん、大してないんだなぁ。
逆なのだ。バンドデビューから44年が経ったとかメンバーが病気にかかったとか、活動が途切れる可能性を高める事象は確かにある。しかし、可能性とか確率なんて大数の都合でしかない。個々に目を向ければ途切れるか途切れないかのどちらかでしかない。そこに確率の入り込む余地はない。若者でもある日突然死ぬ。さっきまでギターかき鳴らして元気に歌っていたじゃないか、と思っていても死ぬ。誰もがいつかは死ぬし、それがいつかは予測できない。今にも死にそうになりながらずっと生き残る人も居る。
何当たり前の事言ってんだか。やれやれ。
だから誰の新作を聴く時も「これが最後かもしれない」と思いながら聴く。すると…ただただそれが普通になっていくだけ、だった。変わらないのだ、結局。同じ事である。ただ一点、途切れた時に「そういうこともある」と言えるようにはなった。それ位の違いしかない。そうこうしてるうちに自分の耳の健康が害される可能性とかも目に入ってくる。油断も隙もない。
音が鳴らされて、届いた。もうそれで十分なのだ。それ以上は贅沢や幸運である。ひとの人生、左右できる訳ではない。過ぎた過ぎてない希望(願いが過剰なまだ訪れていない希望)を持ちすぎず、しかし鳴らされた音は素直に存分に享受すればいい。
そうすると肩の力が抜ける。得ていないのに得られたはずの何かが結局得られないと知って悲嘆に暮れるのは、何だろう、滑稽かもしれない、それもまたおかしみでいとおしいかもしれないが。
だから、ライブもレコードも変わらない。次があればまたアクセスすればいいし、一回こっきりならそれまでだ。不思議と、何千回も同じトラックを聴くのも一夜限りのスペシャル・バージョンを聴くのも同じ一回なのだと思える。真心に会えるかどうかだけなのだ。
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