無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そして今日は『光』発売記念日か。キングダムハーツの発売日も付近だったかな。ゲーム業界の発表のサイクルやタイミングは把握していないのでどういったアプローチがあるかは知らないけれど、今週中に『誓い』&『Don't Think Twice』の続報があればと願う次第だ。

『光』は自分の名前を冠しながらも当時の婚約相手との事を歌っているのでついつい「色々歌ってるけど、でも、離婚したよね」と思ってしまう。それに対する反論も難しい。歌にすると残るのは宿命だ。残す為に歌うのでもあるのだから。

ならばこの『誓い』で、上書きを果たせれば過去も昇華出来るかな。16年前の歌に今更昇華も何もないのだが、寧ろ歌うヒカルの方が気になるかもしれない。聴いてる方は大概無責任だからな。こちらとしても祝福した手前、という感情が…いや、あんまり残ってないんだけど(笑)、ライブで『光』を聴いた時の感情みたいなもの、つまり、『Utada United 2006』で聴いた『光』は『ヒカルの5』で聴いた『光』とは少し違っていたし、『WILD LIFE』での『光』は、「あ、躊躇わずに歌うんだ」と安堵してた覚えがある。こちらが気にするというより、ヒカルが気にしていないか気になっていた、というのが実際だった。ヒカルが気にしていないのなら、珠玉の名曲、これからもバンバン歌って貰わないと。キングダムハーツのみならず、宇多田ヒカルのテーマソングなんだし。

なので『誓い』による上書きというのは、主にライブコンサートでの効果を考慮したものだ。今生まれる名曲によって、過去の名曲をいい意味で過去のものとする、という一見禅問答のような役割を担えるだけの胆力をもっているのではないか、何度も強調してきたように、『光』と『Passion』の系譜を引き継ぐ力強さを(既に明らかに)持っているでしょう、という確信に満ちた期待がある。そうなれ。いや、そうなる。

ミュージシャンの印象はどうしても初期の名曲に縛られる。以後はどれだけクォリティーの高い曲をリリースしても同等程度だとまともに見向きもされない。まっさらに新曲と向き合って貰うには一旦忘れて貰う必要すらある。それは言い過ぎにしても、過去は偉大であればあるほど呪縛となる。16年経っても『光』の威光は強い。『誓い』がその眩い光でどれだけ押し返せるか、同じく光れるかでライブコンサートの色合い自体が変わってくるだろう。その意味で、責任重大なのである。

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歳をとってくると打率が落ちる。ピークの高さは昔と変わらないが、当たる回数、頻度が落ちてくる。これが創作系の傾向だ。

決まった手順で決まった結果を出すタイプの職人芸は恐らく60歳位までは平気で上達し続ける。しかし、新しいものを生み出す力は、頻度の減少や間隔の拡大などの局面で衰えをみせる。

ミュージシャンなら、歳をとるごとにアルバムのリリース間隔を大きくしていけばアルバムとしてのクォリティーは保てる。都合のいい事に、10年20年と第一線で活躍を続けていればベテランになる頃にはツアーが馬鹿長くなっている。世界的なミュージシャンやバンドともなればアルバムを一枚出して2年とか3年(ずっとではないにしても)くらいかけて世界中を回るものだから、オリジナルアルバムのリリース間隔は5年位になってくる。創作頻度が減退しても、ある意味困らない。それでいいともいえる。

10年前の『HEART STATION』の密度、打率の高さは異常である。これだけの曲をたった1人で2年足らずで揃えたというのは常軌を逸している。ザ・ビートルズなどは4人で(まぁ主に2人だけど)寄って集ってアルバムを作っていたから毎年名作をリリースできていたのだ。初期は半分カバーだしな。ヒカルはほぼ独力でフルアルバムを作るという行為を何度も、短期間で成し遂げてきている。まぁなんというか、3周まわって呆れるよ。

『Fantome』がどれくらいの期間で制作されたかは正確にはわからない。とどめの一撃である『桜流し』がかなり早いタイミングで作られている点も考慮に入れる必要がある。しかし、次のアルバムは少なくとも2016年10月以降に作り始めたというのは間違いないのだし、となると恐らく2年弱でフルアルバムの曲を揃えてくる事になる。それでもし『HEART STATION』や『Fantome』のような密度を達成しているとなると「宇多田ヒカルは老いない」のだと本気で考え始める必要がある。ちょっと、やっぱり考えられない。


週末にインスタグラムで英国の女性コーラスグループと写真に収まっているとの"通報"があった。ライトハウスファミリーやサムスミスらと仕事をしている子たちらしいが、写真をみて最初に疑問に思ったのは「一体いつ撮った写真なのだろう?」という点だった。キャプションや髪型、痩せ具合を詳細にみて「あぁつい最近の写真だな」という結論を出せはしたのだが、若い。一瞬見せられただけなら10年前の撮影だと言われても信じてしまうほど、若い。やっぱりヒカルは老いないのかと本気で考え始めている。イチローなどは完璧なメンテナンスを四半世紀続けてきていても顕著に衰えているのに、ヒカルは妊娠出産を経てもこれである。いや流石に老化が始まってもいい頃だし皺が増えたりしても私からみりゃ可愛さに味が出てきた程度にしか捉えず何らネガティブな事ではないのだが、ただひたすら事実として、若い。次作も若いままなのかな?

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『HEART STATION』アルバムから10年、か。もうこの歳になるとあっという間とか長かったとか短かったとかまだとかもうとか思う事すらない。まさにただの数字だわ。10年、ね。

まだまだ普及率はわからないが、昨年末から(Spotifyは今年初頭から)定額配信も始まった事だし、新しくファンになってくれてる皆さんもこのアルバムに触れれる機会が多いかもしれない。1時間弱12〜13曲収録のアルバムでここまで楽曲の密度が濃い作品は他にあるのやら。定額配信だと曲ごとにつまみぐいをするのが普通かもしれないが、せっかくなのでフルコースでフルアルバムを堪能してみて欲しい。

フルアルバムの意義が揺らぐ、というのは定額配信の普及に伴い言われてきた事であって特別な事は特にない。アルバムでのリリースをやめプレイリスト主体に新曲をプロモーションする人も居る。ヒカルに関してはファン層の推移からして相変わらずアルバム重視、しかもCD主体という最早前時代的というフォーマットでこれからも推移していくだろう。人はなかなか慣れ親しんだフォーマットを変えようとはしない。こちらからしたらCDだって昔は"新しいフォーマット"だったんだが。30年以上前の話だからね。


というのはいつも言ってる話だな。今後はCDでアルバムをリリースするのはある程度継続しつつ、定額配信内でどうやって存在感をアピールするかも重要になってくる。オフィシャルのプレイリストにどれだけ需要があるかは未知数だが、過去20年近い財産があるのだからそれに応じたプレイリストを作っていくのも面白い。

今の流れでいくとなりくんとどう絡めていくか、というのも課題の一つだろう。まだファンの温度感として彼を全面的に応援しよう、とはなっていないかな。4月のフルアルバムの出来次第、そして次々と出演する夏フェスの評判次第、か。押し付けがましい抱き合わせはなりくんの評判もヒカルの評判も落とすのでくれぐれも慎重に。

シングル曲のダウンロード配信販売ですら馴染めない層が一定数居る中でストリーミングオンリーをなりくんのみならずヒカルも始めないかという懸念はある。突然ダウンロード配信販売が無くなる事は考えられないが、例えばストリーミング先行程度ならあるかもしれない。特に『誓い』&『Don't Think Twice』に関してはゲームのプロモーションが世界規模である事からある程度公開方法に縛りがかかるかもしれない。いずれはCDアルバムに収録されるのだから、というのは真実としても、「いち早く」とか「一刻を争って」とかいう気持ちが強い向きは、Spotifyでもどこでもいいからまずは何かの定額配信サービスを試してみるのがよいだろう。

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TwitterやInstagramから毎日発信するのがスタンダードになっている昨今、筆無精ともいえるヒカルのペースは余りに泰然自若だ。ホイールだ非常口だタクシーだとほんの一言残してまた沈黙。まぁメッセのみの頃は常時平気で数ヶ月放置したりしていたので今は本当は饒舌なのだと言うべきなのかもしれないが、周りが煩くなった分ヒカルは相対的に静かにみえてくる。

期間限定だった筈のツイッターを続けていてくれて感謝しかないが、やはりそこは140字。宇多田ヒカルのリズムというよりはツイッターのリズムにやや合わせている感もある。

メッセには独特のリズムがあった。ヒカルの自由と責任の許に無制限で書かれるそれは、言わば歌の萌芽の宝庫であった。あの文体に慣れ親しむ事で宇多田ヒカルという人の思考や感情をすんなりと受け入れる事が出来ていたのだ。言葉の選び方と紡ぎ方。確かにメロディーはないのだけれど、時に跳ねるような、時にしっとりとした筆遣いは、いつも「あぁ、この人を好きになってよかった。」と思わされた。いや勿論総てが総て、とまでは言いませんが大抵概ね大概は。

今の様子だと金輪際『Message from Hikki』の更新はないのだろうなぁ。かつては、「メッセの更新が止まるのと新曲がリリースされなくなるのだったらどっちが辛い?」と訊かれたら真剣に悩んだものだ。あそこが有料サイトだったら幾ら払っていたかわからない。誰でも見れるからこその文体と内容だったので、その仮定に意味があるかはわからないが、今のHikkiのやり方は、考えた末での選択だろう。荒立てる気は全く無い。って、Hikkiって呼び名、今オフィシャルにどれだけ残ってるんだろう。

メッセのタイトルも『Message from Hikki』から『Message from Utada/Hikaru Utada』になったり戻ったりして元々永遠不変なイメージでもないんだし、どんな方法であれヒカルの生の声がリアルタイムで届くのならそれでもう、いいな、と思えてしまうのでこれはノスタルジーでしかない。だから遠慮無く言わせて貰うと、この点に関しては、「昔は、よかったなぁ。」と溜め息を吐きつつ呟くしかないのだった。今がよくないとは全然思わないけどな。

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人間の耳、聴覚というのは環境とそれに伴う学習で大きく左右される。習得する言語によって全く様子の違う事になる。翻訳すると同じ文章な筈なのに、それぞれ脳の異なる部位で解釈したりしているほどに。

そんなだから、「ありのまま」に音を聴くなんて無理だし、同じ音を聴いても一人一人違うように解釈している。感情のレベル以前の問題として、有り体に言ってしまえば皆違う音楽を聴いているに等しい。

例えば私の耳はデスメタルを聴き慣れているから「トマス・リンドベルクはいい声してるな」とか「アレックス・ウェブスターのプレイは切れ味抜群だ」とか聴き分けが出来るが、殆どの人にとってデスメタルはただの騒音・雑音でしかない。そんな人からみれば私の聴き分けは工事現場の音だけを聴いて職人の巧拙を論じているようなものだろう。

何度も同じ事を言うようだが、私は耳がよくない。すぐに聞き取れなくて「今なんつった?」と聴き返すなんてしょっちゅうだ。英語のヒアリングなんてさっぱりわからないし、日本語で歌われていても歌詞がまともに聞き出せない。ヒカルの新曲なんて毎回必ず「お前は何を言っているんだ」と思う歌詞パートがある。全くいい耳をもっていない。

ただ、たくさん聴いているから分類して語る事が出来る、というだけ。場合によっては、まともに聞き取れていないのに断片的な情報から頭の中で再構築したりもする。そこまでいくと不気味というか、「果たして俺の記憶は正しいんだろうか?」という疑問まで頭をもたげてくる。自分で捏造したのではないか、と。

そこまでいくと音楽って一体「何処」にあるの?となっていく。ならば、とそもそも正しいか否かの判断基準から検討し直されていかなくてはならないんだが、何だか話がややこしくなってきたので続きは又次回。

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『あなた』が我が子に向けた歌であるという"種明かし"が早い段階で有ったのは未だに疑問だが、それ以上の違和感といえば、もうこの歌の存在そのものかもしれない、息子を「あなた」という二人称で呼ぶ事だ。

いや、別に「君」でも「you」でも「そなた」でも「うぬ」でも何でもいい、我が子に対して一人称と二人称の存在である事自体に違和感がある。

それはちょっとした偏見かもしれない。シンプルに親父(しんぷ)の存在が感じられないのだ。

Yes, yes. 今時シングルマザーなんぞ珍しくもない。未婚の母とか紙切れ一枚の呼び名である。それについて何かを語ろうとは思わない。人数ではなく、"家族感"(家族"観"じゃないよ)の希薄さが気になるのだ。

母と子は家族である。つまり、そこに父とか兄とか姉とか妹とか弟とか、場合によっては祖父や祖母、叔父や叔母(タラちゃんにとってのカツオやワカメだな)も居たりするかもしれない。いや、血の繋がりのない居候さんも居るかもしれない。そうやって何人も(2人でも3人でも4人でも…)を抱え込める、迎え入れられる感覚、それが"家族感"である。

それこそ、私の家族"感"が間違っているかもしれない。『あなた』に感じるのはそういった三人称的な広がりの無い、一人称と二人称だけの世界だ。父親に限らない。なんだかここには純子さんも照實さんも入り込めない、いや、居ないと言っていい。

もっとシンプルに行こう。二人目を生んだ後、『あなた』はどんな響きになるのか。兄を差し置いてまた「二人だけの世界」を作るの? 幼児退行しちゃうよ? いやそれはいいんだけど、『あなた』を通じてそのまままるで恋愛関係があるかのような歌詞を書き歌うのは、『真夏の通り雨』並みの挑戦では、ある─で、あるからして、その危うさも気にかかる。『真夏の通り雨』に登場する中年女性と若い男性(これが若い女性だったら『二時間だけのバカンス』が女教師と女生徒の百合だという説が力づけられるのだがなぁ)というのは、幾らなんでも架空だろう。『あなた』の"男女"もまた架空だろうから、これは杞憂に過ぎないのだろうけれど、やはり、繰り返すが、二人目を生んだ後にもう一度この歌を聴き直してみたい。何がしっくりきていないのか、まだまだ自分でもよく判らない段階なので。

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20周年は盛大に祝うんだろうけど19周年ていうのは全く話題にならないもんだね。うちら的には19の文字をみると反応し119を確認すると色めき立つというのに。いやそれとこれとは関係ない。

今年の12月からあらゆる20周年が展開される。デビュー20周年、むびのん20周年、初恋アルバム20周年、LuvLIVE20周年…どう祝っていけばいいかわからない位だ。このどこかにツアーが挟まれていくというのだから来年の今頃はお祭り状態ですわな。今の静けさが嘘みたいに。過ぎればまた、あのお祭り騒ぎは何だったのか、今ではもう嘘みたいだ、と呟くんでしょうけど。

アーティストの性質上仕方がないが、贅沢なこちらの希望は「宇多田ヒカルの居る日常」であって、突発的なお祭り騒ぎに一喜一憂する事は、嬉しくない訳ではないのは当然としても、やっぱりちょっと勿体無い。大抵そのテンションの高さについていけないから。特にツアーになると、「普段何してたの?」という位に人が湧いてくる。いやそりゃこちらの勝手な見当なんだが、ライブコンサートの魔力って凄いなと毎年改めて思う。そしてツアーが終わればまた静かな日々が戻ってくるのだ。

こちらにはメリハリなんてない。ずっと同じである。ツアーが始まったからといってヒカルに対する熱量が変わるかといえばあんまり、いや殆ど、いやさ全然変わらない訳で。ツアーの盛り上がりで高揚した人たちは、ツアーが終わればテンションが下がる。こちらはそれをただ眺めているだけだ。良いも悪いもない。ただそれがひたすら事実なだけで。

まぁ、贅沢なのはこちらなのだとわかりきった上での「ポカーン」なので、似たようなものかもしれないな。それでまた新しい日常を手に入れる人が現れるのだろうから、そうなったらまたその時振る舞おう。それだけの事なんデス。

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「作家になった時のペンネームはもう考えてある」とか何とか、昔言ってたなぁ。つまり人生のどこかの時点で物書きになるつもりがあったんだな。さてそれはいつ実現するやら。2冊の編集はもうやったけど、あれを著作というかどうかは難しい。『点』と『線』ね。

『線』の方はもう続編は難しいが『点』の続きなら構わないか。『点2』?『点々』?『2点』?──どれもいいようなそうでもないような。『First Love 15th DX』のインタビューとかも再掲してくれればいいんでないの。2万人位しか読んでないよねあれ。

物書き…小説、物語でも書く? どんなストーリーになるだろうなぁ。どうせなら自分の書いた歌のサイドストーリーとかアナザーストーリーを…ちょっと心境として難しいか。『Automatic』〜『Movin' on without you』〜『First Love』3部作のストーリーを小説化したり…ってそういうのは作詞者本人じゃなく別の人がやった方がいいヤツか。コミックのノベライズみたいに。まぁたまに自分で小説化する人も居るだろうけど、単純に手間暇の問題で本人はやらんのだろうな。

毎度言ってる気がするが、『Fluximation』ってどうしてあれっきりだったんだろうね?『EXODUS』の収録曲にインスパイアされたクリエーターたちがショートミュージックビデオを制作するという。あれをフルコーラスでやってDVDアルバムリリースしたら面白そう。

そこから更に間口を広げる。映像のみならず絵画や彫刻、食事や服飾に至るまで幅広いクリエーターたちにヒカルの曲にインスパイアされた創作物を提供して貰ってツアーでミュージアムを開催すんの。楽しそう。その一環でノベライズ/小説化も絡んでくれば楽しそう。

1日の行動が総てヒカルのアルバムと繋がるような。ヒカルの曲に触発された衣服を身につけ、それに因んだ食事をとり、絵画を眺め小説を読み、そしてライブ・コンサートを体験する。そんな1日。夢のようだが、いつか実現するだろう。問題なのは、ヒカルがあれもこれも自分でやりたがりそうなところ。物理的に無理だってば。ヒカルは泰然自若、どんと構えて皆の仕事ぶりを眺めてればいいのんさ。ただ、小説化に関しては、昔からの夢であるならチャレンジしてみてくれた方がこちらとしても嬉しい。世界中にファンを持つ為翻訳という問題は残るが、早いうちに昔決めたその物書き用のペンネームが何であったかを知れれば嬉しいじゃん。

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『This Is The One』の発売から9年か。来年で10年だからといって記念盤等が発売される訳でもないのは『EXODUS』10周年がスルーされた事からも予想される。あん時ゃ『First Love』15周年だったから…と言えば体のいい言い訳になるが、発売日が半年空いてるんだからやろうと思えばやれただろう。そうならなかったのは単純にレコード会社サイドに思い入れがないからだ。人の作ったものである。人の気持ち次第だ。

にしても『First Love』から『EXODUS』まで5年半しかないのか…あらためて当時のスピード感に恐れ入る。それでも『EXODUS』については「随分待たされた」という印象が強く、『This Is The One』に関しては「矢継ぎ早」という印象が強かった。主に「日本語と英語のアルバム同時に作ってるようなもんだけど」というヒカルの一言が大きかったのだが。

『Fantome』や『Ray Of Hope』がiTunes Store USAチャートに入った時に幾つもWebに記事がアップされたが、私の知る限り『This Is The One』についてまともに触れたものはひとつもなかった。iTunes USA総合チャート16位付近、Popチャート2位、フィジカルのみでビルボード69位というラウドネス以来の好成績といった、Hikaruの全米での過去の実績を話すに及んでどう足掻いても外せない作品を皆がスルーしたのは、単純に忘れていた、或いは知らなかったからだろう。

何故忘れたり知らなかったりしたかというと、同時の日本のレコード会社が『This Is The One』のプロモーションに力を入れていなかったからだ。『EXODUS』の時ですら「NINTENDO DS」のCM等での注目を集めたのに、『This Is The One』では目立ったタイアップはなかった。これを日本の担当者の熱意の有無のせいにするのは容易い。それは兎も角、日本では有名でない作品になったのは事実である。

アメリカでは異なるだろう。『Come Back To Me』のスマッシュ・ヒットにキングダムハーツの『Sanctuary』のリリースまで重なり、結局これがアメリカでのファンベースを形作って『In The Flesh 2010』の成功に繋がる。その流れの上での『Fantome』と『Ray Of Hope』のチャートインだというのは普通に追っていれば自明に近い流れだったのだがその認識が共有されているとは言い難い。

でもまぁ、キングダムハーツさんのテーマソングをフィーチャーした次作がアメリカや他の国で成功するのは予想される事なので今更だ。しかし、その時にまた書かれる記事は再び総て的外れであろう事も予想される。生暖かい目で見てあげてくれれば幸いだ。

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『Fantome』を聴き返してみると(と言ってもいつもバックカタログを満遍なく味わっているので返すも何もないのだが)、やはり後半の神憑りぶりに戦かざるを得ない。こんな音出せる人他に居る?

凄味という点では過去最高だろう。しかし、それと同時に妙に隙が多く感じる部分もある。実際時々音圧が足りないというか、空間的にスカスカなアレンジになる時間帯があるが、そういったものも含めて「練り込み切れていない」という印象を受ける。完成度が高いなと感じるのは結局『桜流し』で、他の楽曲は「確固たるもの」を薄くしか感じさせない。

だから恐ろしいのだ。今自分が言っているような「完成度の低さ」みたいなものを携えた上で『Fantone』が今感じるような凄味を湛えているのだとすれば、完成度が上がり「確固たるもの」、即ち「もうこれ以上どの音も動かしたくない」と思えるレベルまで磨き上げる事が出来るとするなら、そこに現れるのは一体何になるのだろう? 人に作り出せるの? 何なの、もう。

『Fantome』はまだ、『人魚』は地味だとか『忘却』にKOHHは要らなかったんじゃないかとか色々言えた。それをもって「隙」と言ってもいいのだ。それが無くなったら、どうなるか。

とはいえ、それがすぐやってくると見做すのは早計だ。Hikaruならいつかやってくれるだろうが、まだまだ慌てるような時間じゃない。もっともっと周りを固める必要が出てくる。

LIVEの反応は重要である。『Utada United 2006』での経験を反映させて曲作りをしたのが名盤『HEART STATION』アルバムだった、という風な書き方をすれば伝わるだろうか。今、次に出るアルバムはツアー前にリリースされる。創作・制作周期を考えれば、ツアーの先にある、即ち次の次のアルバムはとんでもない事になるだろう、と。

別に『ULTRA BLUE』が『HEART STATION』に劣るとは思わない。しかし、『HEART STATION』の方が売れたのは事実だ。そこに至るにあたり、ヒカルが「ニーズに応える」姿勢をより強く出していったのは、直前のツアーでダイレクトなリアクションをたくさん貰ったからだ。皆も、コンサートに行ける事になったら、自分なりの方法でよいので、何らかのリアクションをとる事をお勧めする。何気ない貴方の一言が、新たな名作を生むかもしれないよ。

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人が小さい頃から「物語」を味わう場合、今だとまずアニメから入ってつぎにコミックやら絵本やら、更にそこから小説などの形態に進むのが大まかな流れだろう。絵の割合が徐々に減って字の割合が多くなっていく。基本的には字が多い方が理解・読解の難易度が高くなり年齢層も高くなっていくだろう。アニメをみるのがいちばんラクで、字を沢山読むのは苦痛だろう。

これが、例えば私の場合、歳をとったら逆になった。アニメをみるのがいちばん体力を使い、字だけを読んでいるのが何よりもラクである。アニメを見るのを疲れたから小説でも読もう、とは思っても逆はない。字を読んでいるのがいちばんストレスというか負荷が少なく、いちばん長く続けられる。まぁここらへんは人によるかな。

Apple Musicを使い始めて歌詞機能の便利さに感心している。オフラインでは使えないのが残念だけど、オンライン(このWi-Fiが基本のご時世にラインもないよなぁ…いやワイヤーって意味じゃなくてもいいのかこれ)でならかなりの確率で歌詞をすっと表示してくれる。いちいち検索しなくてよいのはとても便利だ。

となると、当然の事ながら歌詞を読みながら音楽を聴く、という態勢に入るのだが、これは鑑賞態度(作品の味わい方)として正しいのだろうか、これでいいのかな?とふと疑問に思ったのだった。

ここでは、「耳で言葉を聴く」のと「目で文字を読む」事が同時に行われている。いや、同時は不正確か。どちらかといえば、「耳で聴いた文を目で見て確かめる」というフローが近い。そして、耳では聞き取り切れなかった言葉を歌詞を読む事で補完できる。そこで『数式』なんて言葉使ってくるとは思わなかったよ…。

で、ここでもちょっとした逆転が起きている。本来こどもはまず耳で言葉を聞き取れるようになり、それを文字で読み書きできるようになるのはずっと後だ。しかし、歌を聴きながら歌詞を読む場合、読んで「確認や修正」を行うのだから、読む方がずっと信頼されている…もっと言えば、正確に読み取る方が容易で、正確に聞き取る方が難しい、という順序になるんでないか。

これは普遍的な事なのだろうか? 自分の場合歌詞がまともに聞き取れないなんてしょっちゅうだが、字を間違って読み取る確率はそれより遥かに低い。これは、聞くより読む方が遥かに負荷が少なくラクだからだ。聞く方はかなり集中しないとちゃんと聞き取れないのである。

歌詞を書く人はこの状況をどう感じるか。歌ってもらってる方よりも自分が書き起こした文字文の方が頼りにされている。奇妙なのか自然なのか。歌詞を読みながら歌を聴く人が増えてきた場合、この問題はもっと突っ込んで考えられていくかもしれない。歌われる歌詞と読まれる歌詞。双方を気にする時代がやって来たか。

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太陽も恒星のひとつなのでそれを星と呼ぶのは間違いではない。一方で「星になる」という表現は「人が死ぬ」事を意味するだろう。そこに元々母の事を太陽で比喩し続けてきた歴史があるから、「太陽が天翔る星になった」と歌われれば嗚呼それは母君が亡くなられたのだなと解釈する事になる。それが『大空で抱きしめて』だった。

デビュー曲の『time will tell』からして『太陽だって手で掴めるぐらい近くに感じられる』と歌っている。初めて日本語で書いた曲『Never Let Go』には『太陽に目が眩んでもその手を離さないで』という歌詞が出てくる。もう最初からヒカルの歌詞のモチーフには『太陽』が出てきていたのだ。

『Eclipse(Interlude)』という曲もあった。「蝕」である。日食や月食の。インスト曲の為当然歌詞がない。つまり、太陽が見えなくなると歌も失われるという比喩だったのかもしれない。ヒカルが歌う理由が太陽にあったのだとしたら、だが。

幾らでも穿てるし幾らでもこじつけられる。しかし、『サングラス』などもそうだが、太陽、空、雨を歌った歌が普通より多いんじゃないかという印象は確かにある。

ではこれからのヒカルは、もう自らが新しい太陽になる以外ないと思うのだが如何か。いや既に我々にとっては太陽そのものになっているんだが、本人の自覚は薄い。未だに(と言っても『大空で抱きしめて』からもう一年近く経つんだが)太陽を追い掛けて、星に祈っている。

勿論、いい加減にしろとかそんな事は毛頭思わん。本人からすれば母君は「決して追いつけない背中」と「決して超えられない壁」で出来ているのだろうから。それを責める訳もなく、その遠い背中を追ってるうちに自らが光を発し皆を照らすようになってくれればいい。実際、ダヌパにとっちゃ太陽そのものだろうしな。

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青い非常口、Blue Emergency Exit、か。歌詞になりそうだな。寧ろ今まで歌詞に非常口が出てきてないのが不思議な位? あったような気がするほどしっくりハマっている。

経年劣化はセピア色と相場は決まっているものだが褪せて青色とは風流な所に目をつけたものだ。ヒカルにとって青とはかつて恐怖の象徴だった青空の色。その色が「こちらに来れば安心ですよ」と口を開けて待ち構えているとくれば些か不気味な趣も立ち上がるか。奇しくもでも何でもないが今日は『COLORS』DVD発売記念日。光の色について考えてみるのも悪くないかもしれない。

『青い空が見えぬなら青い傘広げて』の歌詞は、しかし、もし仮に後の「青空の青は恐怖と嘲笑の象徴」なる発言を真に受ければ自らの手で恐怖を招き入れたいという意味にもとれる。勿論この歌詞を書いた時の青空は『time will tell』で歌われた『雨だって雲の上へ飛び出せば Always blue sky』の『blue sky』であり、"晴れやかな気持ち"や"希望"を示唆する象徴でもあるのだが、この時は『青空へ Take off !』とあるように、その為には空を飛ぶ力が無ければならなかった。随分思い切る。それが『COLORS』の時は傘さえ差せれば何とかなる、というレベルにまで落ち着いた。「雨を避け青空を仰ぐにはどうすればよいか」という問いに「雲の上まで飛べばいいじゃん」と言い放った15歳のヒカルと「青空を描いた傘を差せばいい」と答えたヒカル。これは素直に「大人になった」と言っていい、のかな。

そこから更に十数年を経て今度は『大空で抱きしめて』にて『空の見える場所へ』行きたいと『雲の中 飛んでいけたら』と夢想する。基本的には『time will tell』と変わらないが、それが夢であると明言しているのが異なる。更に『僕はまだあの頃のまま青空で待ち惚け』とくる。『time will tell』や『COLORS』では青空にまみえればそれでハッピーエンドだったのが、実はここで「せっかく青空に辿り着いたのに、肝心の、本当の本当に目的だった太陽にはまだ会えていなかった」事が判明する。それどころか、太陽は夜空の中で遠く遠くの天翔る星になってしまっていた―

これがヒカルにまつわる「青い空」の物語だが、ならば青が本当に持っていた恐怖と嘲笑とは、会えない怖さと、無駄な努力に対する嘲りだった事になる。これは悲恋だったのか。恐らくこれからもまだまだヒカルは青空について歌ってくれるだろう。

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「20代の半数以上が"最近の曲を知らない"と回答」って、なんか見出しを見た。記事は読んでないのでどんな調査方法から知らないが、「…そんなもんじゃないの?」というのが正直な感想だ。今も昔も、流行り歌を追いかけるような人がそうそう多いとは思えない。

ただ、テレビの現状はどうなの。ことゴールデンタイムにおいては、最新の流行歌が流れる番組より昔の懐メロに浸る番組の方がずっと多いのではないか。それに、その状態になってもう10年は経つのではないか。ならば今の20代がこの10年、流行り歌に殆ど触れる機会がないまま過ごしてきたという事で…あれ?半数近くが「今の流行り歌を知っている」か「わからない・どちらでもない」だとしたら、結構高いんじゃない?

まぁその結論はどちらでもいいか。この状況もまた、ヒカルに有利にはたらく。新曲も発表した瞬間に定番曲となるからである──と言うのは言い過ぎにしても、懐メロ番組でみかけた人が新曲出したの?というとっかかりは、ただの若いデビューしたてのバンドやミュージシャンたちからみれば驚くようなアドバンテージだ。これをどう巧く利用するか、も梶さんや隈部さんたちの腕の見せどころだろうね。

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ジューダス・プリーストの新譜を聴きながら、「彼らの新作をリアルタイムで聴けるのもあと何回あるか」と溜め息を吐く。特に、音楽的ブレインであるギタリストのグレン・ティプトンが自らをパーキンソン病が蝕んでいると好評した直後のタイミング。内容が力作なだけに、惜しい気持ちが…

…うーん、大してないんだなぁ。

逆なのだ。バンドデビューから44年が経ったとかメンバーが病気にかかったとか、活動が途切れる可能性を高める事象は確かにある。しかし、可能性とか確率なんて大数の都合でしかない。個々に目を向ければ途切れるか途切れないかのどちらかでしかない。そこに確率の入り込む余地はない。若者でもある日突然死ぬ。さっきまでギターかき鳴らして元気に歌っていたじゃないか、と思っていても死ぬ。誰もがいつかは死ぬし、それがいつかは予測できない。今にも死にそうになりながらずっと生き残る人も居る。

何当たり前の事言ってんだか。やれやれ。

だから誰の新作を聴く時も「これが最後かもしれない」と思いながら聴く。すると…ただただそれが普通になっていくだけ、だった。変わらないのだ、結局。同じ事である。ただ一点、途切れた時に「そういうこともある」と言えるようにはなった。それ位の違いしかない。そうこうしてるうちに自分の耳の健康が害される可能性とかも目に入ってくる。油断も隙もない。

音が鳴らされて、届いた。もうそれで十分なのだ。それ以上は贅沢や幸運である。ひとの人生、左右できる訳ではない。過ぎた過ぎてない希望(願いが過剰なまだ訪れていない希望)を持ちすぎず、しかし鳴らされた音は素直に存分に享受すればいい。

そうすると肩の力が抜ける。得ていないのに得られたはずの何かが結局得られないと知って悲嘆に暮れるのは、何だろう、滑稽かもしれない、それもまたおかしみでいとおしいかもしれないが。

だから、ライブもレコードも変わらない。次があればまたアクセスすればいいし、一回こっきりならそれまでだ。不思議と、何千回も同じトラックを聴くのも一夜限りのスペシャル・バージョンを聴くのも同じ一回なのだと思える。真心に会えるかどうかだけなのだ。

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