無意識日記
宇多田光 word:i_
 



太陽も恒星のひとつなのでそれを星と呼ぶのは間違いではない。一方で「星になる」という表現は「人が死ぬ」事を意味するだろう。そこに元々母の事を太陽で比喩し続けてきた歴史があるから、「太陽が天翔る星になった」と歌われれば嗚呼それは母君が亡くなられたのだなと解釈する事になる。それが『大空で抱きしめて』だった。

デビュー曲の『time will tell』からして『太陽だって手で掴めるぐらい近くに感じられる』と歌っている。初めて日本語で書いた曲『Never Let Go』には『太陽に目が眩んでもその手を離さないで』という歌詞が出てくる。もう最初からヒカルの歌詞のモチーフには『太陽』が出てきていたのだ。

『Eclipse(Interlude)』という曲もあった。「蝕」である。日食や月食の。インスト曲の為当然歌詞がない。つまり、太陽が見えなくなると歌も失われるという比喩だったのかもしれない。ヒカルが歌う理由が太陽にあったのだとしたら、だが。

幾らでも穿てるし幾らでもこじつけられる。しかし、『サングラス』などもそうだが、太陽、空、雨を歌った歌が普通より多いんじゃないかという印象は確かにある。

ではこれからのヒカルは、もう自らが新しい太陽になる以外ないと思うのだが如何か。いや既に我々にとっては太陽そのものになっているんだが、本人の自覚は薄い。未だに(と言っても『大空で抱きしめて』からもう一年近く経つんだが)太陽を追い掛けて、星に祈っている。

勿論、いい加減にしろとかそんな事は毛頭思わん。本人からすれば母君は「決して追いつけない背中」と「決して超えられない壁」で出来ているのだろうから。それを責める訳もなく、その遠い背中を追ってるうちに自らが光を発し皆を照らすようになってくれればいい。実際、ダヌパにとっちゃ太陽そのものだろうしな。

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青い非常口、Blue Emergency Exit、か。歌詞になりそうだな。寧ろ今まで歌詞に非常口が出てきてないのが不思議な位? あったような気がするほどしっくりハマっている。

経年劣化はセピア色と相場は決まっているものだが褪せて青色とは風流な所に目をつけたものだ。ヒカルにとって青とはかつて恐怖の象徴だった青空の色。その色が「こちらに来れば安心ですよ」と口を開けて待ち構えているとくれば些か不気味な趣も立ち上がるか。奇しくもでも何でもないが今日は『COLORS』DVD発売記念日。光の色について考えてみるのも悪くないかもしれない。

『青い空が見えぬなら青い傘広げて』の歌詞は、しかし、もし仮に後の「青空の青は恐怖と嘲笑の象徴」なる発言を真に受ければ自らの手で恐怖を招き入れたいという意味にもとれる。勿論この歌詞を書いた時の青空は『time will tell』で歌われた『雨だって雲の上へ飛び出せば Always blue sky』の『blue sky』であり、"晴れやかな気持ち"や"希望"を示唆する象徴でもあるのだが、この時は『青空へ Take off !』とあるように、その為には空を飛ぶ力が無ければならなかった。随分思い切る。それが『COLORS』の時は傘さえ差せれば何とかなる、というレベルにまで落ち着いた。「雨を避け青空を仰ぐにはどうすればよいか」という問いに「雲の上まで飛べばいいじゃん」と言い放った15歳のヒカルと「青空を描いた傘を差せばいい」と答えたヒカル。これは素直に「大人になった」と言っていい、のかな。

そこから更に十数年を経て今度は『大空で抱きしめて』にて『空の見える場所へ』行きたいと『雲の中 飛んでいけたら』と夢想する。基本的には『time will tell』と変わらないが、それが夢であると明言しているのが異なる。更に『僕はまだあの頃のまま青空で待ち惚け』とくる。『time will tell』や『COLORS』では青空にまみえればそれでハッピーエンドだったのが、実はここで「せっかく青空に辿り着いたのに、肝心の、本当の本当に目的だった太陽にはまだ会えていなかった」事が判明する。それどころか、太陽は夜空の中で遠く遠くの天翔る星になってしまっていた―

これがヒカルにまつわる「青い空」の物語だが、ならば青が本当に持っていた恐怖と嘲笑とは、会えない怖さと、無駄な努力に対する嘲りだった事になる。これは悲恋だったのか。恐らくこれからもまだまだヒカルは青空について歌ってくれるだろう。

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