無意識日記
宇多田光 word:i_
 



対話の時代、と書いて思い出したのはピンク・フロイドの1994年作「THE DIVISION BELL」だ。邦題を、その独特なアートワークから「対-tsui-」という。1995年頃からインターネットの時代が始まった事を考えると"Keep Talking"と訴える本作はまさに先見の明だった。あれから20年経って本作のアウトテイク集「永遠-towa-」が発売されこの20世紀最も偉大なバンドは静かに終焉を迎えた訳だが、なんだかつまりこの20年はただ技術の発達を待っていただけで、思想的には殆ど進歩していないのではないかと思わせた。

この国に居るから「停滞の20年」と感じていたのかなと思っていたが、どうやらこれは世界的な潮流らしい―そんな根拠もない事を考えてしまうのはピンクフロイドの偉大さ故だ。

フロイド無き後、ロックの世界で知性を司るのは誰なのか。未だに思い浮かばない。それはそれでいいのかもしれない。プログレッシヴ・ロックの歴史が終わったと考えればよいのだ。ロックは深く考えてたって仕方がない。チャック・ベリーをみればよくわかる。


ちと無駄話が過ぎたかな。Hikaruの知性は折り紙付きだが、今その受け皿となる思想は彼女にあるのだろうか。日常生活の送り方でも、音楽創作に対する態度でも、何か、あの頭の回転の早さに見合った思想的背景を携えているのだろうか。

私はたぶん、「音楽を作るのに考えてちゃあいけない。意義なんてない。ただ生むのみ。」と考えている。音楽家として進むなら、ただいい音楽を作る事だけだ。「ジャンル分けについてどう思うかって?世の中に音楽は2種類しかない。いい音楽とそれ以外だ。」と最初に答えたのは誰だったか。本当にそれだけだと思う。料理人がただ美味しい料理を作るように、音楽家もただいい音楽を作ればいい。いや、(貶めるつもりはないが敢えて例を出せば)「美味しんぼ」みたいに人を説得したり立ち直らせたり問題を解決したりといった"付随するもの"をメインに考え始めると倒錯になるのだ。もっと集中してしまえばいい。そして、それもまた生き方の表明であるから思想信条といえるだろう。

ヒカルも、自分の音楽が何かの役に立つのをこの上なく喜ぶ。リスクの時だったか、ラジオでヒカルが自分の曲が役に立った事を大層喜んでいた。また今度探しとこ。いつだったかな。チャリティーなどに加担できるとなれば、断る理由はないだろう。99年の武道館から嵐の女神に至るまで、そういった加担はヒカルを非常に勇気付けてきた。

しかしそれはメインではない。本当に世の恵まれない人たち(他にいい言い方ないかなー)に本気で報いようとするなら、歌なんか歌ってる場合じゃない。医者になるとか農業技術者になるとか軍隊を率いるとか、もっと直接的に影響を与えられる手段は山ほどある。歌は本当に、遠回り、回り道だ。

ヒカルがそこまであっさり考えられるだろうか。32歳とかになってきたら、もう、何というか、自分の中で決着がついてる筈だ、と希望的観測を交えながら思う。この20年思想的に停滞していたとしても、ヒカルは名曲を書き続けてきた。それでいいと思う。これからも、それがいいと思う。

ただ、ヒカルは才能に溢れている。ただ音楽家で居る必要もない。他にもいろんな事をやって才能を開花させたらええ。でも、そうはいうけれども、人生はただいい音楽を追い求めるだけの為だとしても、短すぎるように思うのだ。一方でヒカルは今年の誕生日に『人生ってけっこう長ぇな…』とも呟いている。「まだあるのかー」という感じなのかな。だとするとここからは『暇潰し』だ。遠慮無くいい音楽を追い求めればいい。きっと、永遠の生命(とわのいのち)をもってしても永遠に追いつけないさ。

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で、ヒカルの場合創作における他者との関わり方は、Pop Musicianである以上想像力に頼るしかない。今は昔と較べてインターネットの発達によりファンからのリアクションの量が激増しているからより密度の濃いコミュニケーションが可能になっているが一方で歌でメッセージを出すという枠組み自体の価値が下落している。皮肉といえば皮肉なものだ。

それに、リリースまでのスパンが長い。未だにCDリリース曲に関しては5週間の間隔が必要だ。ビッグ・プロジェクトならそれでもいいが、出来たらすぐにアップロードしてその日のうちにアクセスランキングに反映されるようなネットのサイクルと較べれば、随分のんびりしたものである。

宇多田ヒカルは"図体がでかい"為、情報を遮断してぐぐっと溜め込んで一気に敷衍して、というサイズの話になっている。ある意味市場との対話が旧時代的なので、昔からのファンは安心だ。そういう意味ではこのままアナクロに突き進むのもいいかもしれない。

一方、あっさりと若い世代とのコラボレーションに走る、という手もある。評判はよくないだろうが、結果さえ出せば大丈夫だろう。もうそんなに若くないけれど(失礼だな)tofubeats世代とならリアリティがあるか。ヒカルならあっさり方法論を吸収してしまえるだろう。"使える"かどうかは別にして。

更に若い世代相手は本当に難しい。スマートフォンによる無料文化…動画や音楽といった細かい分野があらためて"地上波テレビ化"した訳だ。地上波テレビが普及した頃、旅芸人や劇団や映画界や、兎に角多くの娯楽産業従事者達が多大な影響を受けた訳だが、それと同じ事がインターネットで起こっている。この10年、マネタイズを合い言葉に何とかコンテンツが商売にならないかと悪戦苦闘が続いているが、通販と競売の規模には全く及ばない。地上波テレビが15秒CMという手法で、本来の本質である通販の規模を押さえ込んできた(実際は通販番組の割合に規制があるらしいが、現状ではその上限よりずっと下だろう)ように、インターネットでもコンテンツを無料で提供するシステムに"市場"をなんとか紛れ込ませる必要が出てきている。YoutubeにCMが入るようになったここ数年の話である。

HikaruはUMGという"旧世代の遺物"の象徴みたいな会社と契約を結んでいる。ある意味、我々旧世代を相手にしながら漸減していく総数を一人あたりの単価を上げていく事でカバーするフェイズに差し掛かっている。FL15企画などはその先鞭・先遣隊だったが、その結果はどうだったか。また、宇多うたアルバムは各世代との関わり合いの中で宇多田ヒカルがどういう位置付けなのかを測れる企画でもあった。井上陽水からtofubeatsまで約二世代分くらいの"見方の違い"の展覧会だった。それもまた、チームには参考になっただろう。

事態は刻一刻変化している。去年企図した戦略が今年通用するとは限らない。こうやって毎年様子を見ながら「今復帰するならどうするか」を考え続けねばならない。本格的な対話の時代の到来、なんだろうなきっと。

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前にレッド・ツェッペリンのセクシーさについて書いたが、彼らの何が突出しているって4人全員の"息が合う"ところだ。あれだけの才能が集まって誰がイニシアチブを握り切る事なく音が"バンド・サウンド"に収束していく様はまさに奇跡としか言いようがない。

何をやるかが予め決まっているていうのなら、みっちり練習して息を合わせていく事も可能かもしれないが、ツェッペリンの真骨頂はライブでの即興演奏にある。お互いが次に何をしてくるかが完全にはわからない中でステージにおいて4人の"息を合わせる"のがどれだけ難しいか。想像を絶するレベルである。まぁ20世紀最高のライブ・バンドなんだから当たり前だけど。

その為、ステージ上では4人が4人ともお互いの演奏を切れ目なく聴き続けている。息を合わせるにはそれしかなく、従ってそこから出てくるサウンドはまさに"LIVE"、"今ココ"にしか生まれ得ないグルーヴに満ちている。バンド全体がまるで一つの生き物であるかのように統一されて躍動する。そこに息づく"呼吸"のダイナミズムこそが彼らのセクシーさの正体だ。

そのダイナミズムは、例えばオーケストラのようにコンダクター(指揮者)を中心とした一体感、というのとは様子が違う。あクマでその場で1人々々が他のメンバーの出音に耳を傾け合った上で紡がれていくものであり、そこに"中心人物"は存在しない。

クラシックの作曲家は基本的に1人で、指揮者は作曲者の代弁者、或いはその世界への仲介者役である。一方、ツェッペリンの場合、各パートの演奏者たちがそれぞれのパートにおいて自分の演奏をする事で楽曲が形成されていく。即ち、ロック・バンドの演奏形態とは複数の作曲者・創造者によって作曲を遂行するスタイルであり、創造の過程において既に"他者との関わり合い"を含んでいる点が独特なのである。多分、ジャズも同じ…というか元々その形態を生み出したのはジャズの方で、そちらが20世紀の大体前半、ロックが大体後半に勃興した、という構図だな。

そうやって、誰か1人の理想を大人数で体現する様式ではなく、絶え間ない対話の中から数人の創造力を合体させるスタイルが生まれたのは様々な歴史的な必然だったともいえるが、ここでのポイントは、ジャズとロックのスタイルが、"作品の完成以前"の時点で他者との関わり合いを実際に持つ事である。

クラシックはパトロンの、ポップ・ミュージックは大衆の、それぞれ"反応を想像"しながら曲を書き上げてきた。つまり、実際に聞かせてみれるまで、作品が完成するまで他者との実際の対話はないのである。そこがロックやジャズと異なる点だ。

渋谷陽一はポップミュージックを「他者の音楽」と形容したが、それは創造の過程においては"架空の"他者を"想定"されたものであった。私はこれと対比してジャズやロックの類いの音楽を「他者との音楽」と形容したいと思う。数人のバンドメンバーと万単位の大衆が必ずしも同じ反応を返すとは限らないが、創造自体に他者との関係性を実際に持ち込む手法は、それだけで大衆との繋がりを持てる可能性をより大きく持つだろう。その意味で、アーティスティックな意義と大衆性を両立させる手法としてはより有用であるように思われるのだ。つづく。

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くまちゃんという人格(熊格)をどうするか、というのも今後の課題である。勿論最良の解答は「今まで通り」一択なのだが、余計な心配をすると、30代にもなってぬいぐるみと戯れているのはどうなのかとかいう雑音はどうしようかとなる。

それを(我々にとってはあまり意味がないが、社会的に)はねのけるには、やはりこどもを育て始めるのがいちばんだろう。こどもも交えてくまちゃんと会話を繰り広げればグンと幅が広がる。彼なり彼女なりがノリのいいガキである事が条件だが。その前にキコがこのノリについてこられているかどうかの方が心配か!?

時期的にみても、くまちゃんと出会ったのは大体前の結婚の関係が冷えていた頃になるだろうから、そこに現れた救世主だったという見方がオーソドックスだ。実際は自己救済だが、古びた表現を用いればそれは"イノベーション"だったという事だ。"発明・発見"でええやんな。

ならば新しい家族が出来て埋め合わされた空虚はもう…と、なろう筈がないので、くまちゃんはずっとこのまま家族の一員だろう。ただ、くまちゃんの言葉の代弁者としてヒカル以外が出てくると話がややこしくなる。くまちゃん多重人格化である。

それはそれでいいような。こどもがくまちゃんをいたく気に入って独占した時ヒカルお母さんはどんな反応をするだろうか。優しく見守っているのかムキになって奪い返しにいくのか。おとなげねぇな。幼いこどもは扱いが粗いので、タイミング次第だろうかな。こどもの成長は早いのだ。

くまちゃんのおうた第2弾に期待するのは贅沢だろうか。次は「くまちゃんの子守歌」。私の中ではニーズ爆発なのだが、今幼子を育てている人やこれから生む人にとっては爆発どころの騒ぎではないだろう。ある日突然しれっと"みんなのうた"から流れ始めたりしたらさりげなすぎる復帰劇になるけれど、流石にそれはレコード会社としては得策ではないだろうな。世界契約をもつトップ・アーティストなのだから。なんだか、勿体無いねぇ…。

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多分、いろんな人に「よくそんだけネタが続くねぇ」と「毎日おんなじようなことダラダラ書いてて飽きない?」の両方を思われている気がするが、今、7つくらいネタが思い浮かんでどれについて書くか悩んでいるところだ。

こういう時は、その7つを全部一旦捨てて(また来週以降拾う予定)たった今から新しいネタを捻り出すのがいちばんいい。

さて。(この間約6分)…整いました。(ねづっちか)

昔、らくごのごというテレビ番組があった。観客からお題を3つ貰い、そのお題(キーワード)を盛り込んでその場で幾らか時間を貰い即興で落語を披露するという脳味噌が磨り減りそうな内容である。かの蘊蓄王決定戦もそうだが、テレビ朝日は頭脳を何だと思っているのか。

同じ事を歌で出来ないか、と昔提案した事がある。ニコニコ生放送をイメージしよう。コメントでお題を募りヒカルがそれを3つ拾って即興で歌詞とメロディーを作って歌う、というものだ。まぁ出来て数十秒だろうが、著作権に配慮しなければならないカバー等よりはよほど現実味のある案だったんじゃないかと思われる。その場で作ったものだから、ややこしい話は無しになるだろう。

で。どうせならそこから続きがあってもいいんじゃないか。その数十秒の歌詞とメロディーを元に、今度はリスナーの方がフルコーラスの構成を考えるのだ。それをYoutubeに上げるなりボーカロイドに歌わせるなりして皆或いはヒカルにだけ見て貰う。で、その中でヒカルが気に入ったものがあれば(恐らく、ヒカルが幾らか手直しをして)ヒカルにまた歌って貰える、というのはどうか。別にフルコーラスでなくとも、ヒカルが気に入ったところだけ歌ってくれればよい。何だかアーティストとファンの間で双方向のクリエイティブが生まれて、いい感じなんじゃないの。なお著作権は基本的にヒカル側に、という事になるが(でないときっと楽しくない)。

勿論、実現は難しいだろうねぇ。ヒカルがまずたぶん"即興"というものに弱い。さっき作った歌を鍵盤を弾きながら歌うとか結構難易度高い。WILD LIFEを見る限り、弾き語りスキル自体は随分と上がった気がするが。更に、「こういうのは性に合わない」と言う可能性が大だ。確かに、ヒカルでなくてもよい企画ではある。

ではもう一押し。こういうのはどうか。くまちゃんに歌って貰うのだ。声の出演:宇多田ヒカルで。ギガントを着てしまうと歌えないだろうから、ヒカルが黒子になりながらでも何でもいいからくまちゃんに踊ってもらって。歩けないけど踊れるんだから。歌うくまちゃん。新機軸な事この上ない。

「くまちゃんとラジオ」という企画にまでいってしまうと若干イタイか。やる事がやる事なのでライバルはいっこく堂になってしまうが、ヒカルがノリノリになりかねない企画としては秀逸かもしれない。なんだか昔懐かしい教育テレビ(今ETU)のノリである。そういえばテレビ朝日も昔は教育テレビだったなぁ。今は見る影もないが。

ヒカルとくまちゃんが会話する絵にするか、くまちゃんだけが出ずっぱりで出る図にするかでも大きく違う。前者はかなりイタイが、後者は立派な芸である。しかし、ファンとしてはくまちゃんよりヒカルを見たいだろうから前者の方が人気がありそうだな…。

ここまでくれば「歌:くまちゃん」でデビューしてしまってもいいかもしれない。…デビュー何度目だあんた。(笑)

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次のニュースの待ち方が難しい。例えばHikaruの復帰がEVAと連動したりしている予定だったとしたら、先方の都合次第で年単位で時期がズレたりするかもしれない。となると、レーベルとしては何か間を埋めるリリースを考えたくなってくるところだが、宇多うたアルバムの後は何を発表してもファンから"がっかり"される可能性が、そろそろ出てきた。もう本人が出てくるだろうと思ってたのに、という心境だ。

動きづれぇ。そう思う。とはいえ、もともとアーティスト活動休止は"無期限"の約束なのだから5年だろうと6年だろうと本来なら構わない。なのに三宅さんや照實さんが余計な事を言うから…と思ってるのは、彼らの発言をチェックして覚えている極一部のファンだけ、だったらよいのだが…。

そういう意味では、世間で忘れ去られていく状況というのは、悪くないかもしれない。期待も何もない状況でいきなり宇多田ヒカルが現れたら"儲けもの"だろうからだ。「そういえばコイツが居たじゃないか!」という具合。そういう意味では、更にもっと何もせずに休止していた方がいい、かもしれない。

一方で、機運とか雰囲気とかいうものもある。周りをあたためておいてから満をじして、という具合。あたためる、というのに本人を巻き込むか否かは難しいところで、それはその時の状況によるとしかいえないが。

プロモーション・スタッフの方は、この5年間もずっと現役のA&Rをやってきているのだから、シーンの風向きみたいなものはよくよく知っている筈だ。あとはファンの世代交代をどこまで読むかだろう。

結構なパズルである。タイアップがあって、そちらの予定が未定なら尚更だ。多分、今は何も手を出していないのではないか。現時点では動くだけ無駄考えるだけ無駄、というのが最善の判断たりえる。我々には状況把握など及びもつかないから、推測しておくしかできないが。


いっそのこと、あと2年くらい音沙汰無しの方が色んな問題がシンプルになっていて楽かもしれないな、とも思う。多分、復帰後は色々なライターさんたちが「宇多田ヒカルの空白期間の長さ」について"時代的必然性"を持ち出して語るだろうからそれはその時の楽しみにとっておくとして、今の私は今ここから見えている風景を書き留めておこう。渦中において海の全景を眺めるのは無理難題なのだから。いやまぁ、今が渦の中かというと、別にそんなことはないのですけれども。

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『ジャズのスタンダード・ナンバーを覚えてバーのラウンジとかで歌ってみたい』というHikaruの台詞を思い出す度に、嗚呼、他人と順序が違う人なんだなぁと思わずにはいられない。一生バーのラウンジで歌い続ける人も世の中にはきっと居て、その人はもしかしたらずっと「もっと大きなステージで」とそこを抜け出そうと頑張り続けて叶わなかった結果そうなったのかもしれないし、或いは誇りとやりがいをもってそこで心底幸せに歌い続けたのかもしれない。憧れるのもやるせないのも、どれも歌手の人生である。

聴衆の人数とか場所とかは、間接的には意味があるけれども直接的にはあまり意味がない。人数にかかわらず、歌に耳を傾けてくれるか、歌を愛してくれているかが重要だ。ファンであるあまり、どんな歌を、えぇっと、どんな酷い歌を聴かせても喜んでくれる人も居るかもしれない。歌が心底気に入らなくても、雰囲気を壊すまいと暖かく拍手してくれる人も居るかもしれない。本当に、色んな人が居る。どんな聴衆が望ましいかは歌い手1人々々にとって異なるし、しばしば何が望ましいかを理解できてもいないかもしれない。

Hikaruは上記の"夢"を叶えたのだろうか。誰もHikaruの事を知らない国で、ピアニストと組んで歌を聴かせて、誰かを振り向かせる事が出来ただろうか。Hikaruを知らない人はHikaruも知らない。つまり、どんな聴衆かは皆目見当がつかない。そもそもまともに聴いてくれていないかもしれないし、笑顔の拍手は「やっと終わってくれたか」という皮肉かもしれない。それヤだなー。こういうのは一ヶ所で一度だけでいいとも限らず、常連さんに覚えてもらって初めて勝負が出来る状況になったりする。ファンが居ないというのは過酷である。

場所は選ぶ。パンクを聴きたい人ばかりのところでジャズを歌っても仕方がない。ブーイングされるだけだろう。真にパワフルならもしかしたら聴き入ってくれるかもしれないが、そういうチャレンジはやはり無茶だ。ファンクラブ主催のライブなら(Hikaruには無いけれども)、皆振り向かせるまでもなく既にこちらを見てくれていて、どんなつまらない冗談でも大笑いしてくれる。いやはやぬるま湯である。

その間のどこかだ。いちばん“ちょうどいい”聴衆の居るところで歌ってこそ"いい勝負"が出来る。スポーツであれば、自分と大体同じレベルの相手、つまり自分よりちょっとだけ強いから何かひとつ特別な事をしないと勝てない相手や、自分よりちょっと弱いから少しでも気を抜くと途端に足元を掬われるような相手と勝負する事が自分にとって最もよい。成長の契機の機微はそこらへんを探る事で見いだせる。

ありていに言えば、フェスティバルに出てみればという事になる。ヘッドライナーを務めるのがいちばん素晴らしいが、少しだけ毛色の違う場所、違う聴衆を相手に歌うのだ。今更ワールドワイドのメジャー契約を持つ歌手がバーのラウンジという訳にもいかないかもしれないんだし、そっちの方がよっぽど現実的である。

そりゃもう様々な組み合わせがある。ロック系のイベントとソウル系のイベントでは選曲から変えていかねばならないだろう。少しアウェイとか、少しホームくらいがちょうどいい。アウェイ過ぎてもライブが辛いものになるだけだし、ホーム過ぎても学べる事が少ない。そこを選曲のアプローチで微調整して様々なジャンルの音楽祭に対してアジャストできるのがノンジャンル・アーティストたるUtada Hikaruの面目躍如である。自分の資質を最大限活かすチャンスである。

残念ながら日本では、ヘッドライナー以外は務められない。人気はどうなっているかわからないが、客の反応の前に、Hikaruの後に出てきて歌うのを他のミュージシャンが躊躇うんじゃないかというのがその理由である。皆して井上陽水状態になる訳だ。「そんな、畏れ多い」と。まぁサマソニやフジロックで後ろにメアリーJ.ブライジが控えているなら大丈夫だけど、日本人・邦楽のフェスティバルだと…誰か居るかねぇ。


ま、その前にHikaruなら「私フェスとかいうガラじゃないでしょ」って言っちゃいそうな気がしますけどね~。いやはや、それがいちばんリアルな反応だろうな。ま、仕方が無いか。望みを捨てる事は、ないけれど。

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集中力とは対話の密度であるから、Pop Musicへの集中力は市場の充実に左右される。Art Musicはほぼ自己の感性と出音との対話だから本人の情熱がそのまま集中力になりえるが、市場が失われてしまっては如何にPop Musicianに情熱があろうとどうにもならない。作品がPopsとして成立する保証が限りなく低くなるからだ。

市場さえしっかりしてしまえば、作り手には「手応え」というものが生まれ得る。それが期待出来なくなっているのを痛感した、というのはここで半年前に椎名林檎とテイラー・スウィフトの話をした時に述べたが、そこから、では、どうしたいのかというのが昔からのPop Musicianの課題だろう。

若い世代については私もよくわからない。無料文化とライブ活動の二極化、という風に遠くからは見えている。興業規模は2015年になっても衰える気配がない。そこにアニメ&ゲーム業界もアイドルも興業に来るものだから、充実の感触は計り知れない。いや、いちばん規模が大きいのは場合によってはアイドル業界のようにもみえるが…。

要は、音楽というものがあまり主役になっていない風なのだ。アイドルもそうだが、イベントやイベントに参加する人間が主役であって、それこそ中身は別にジャンケンでも構わないという勢いになっている。それは極端だけれども、若い世代がクラウド・ファンディングに手が届く時期になっても、全体構造自体は変わらないだろう。

さて。宇多田ヒカルのような"旧世代"はどうしたものか。寧ろ、小さくはあっても(いやかなり大きいけどね)確かなファンベースを築いている椎名林檎とは違って、"音楽主体の本格派なのにファンベースがマスメディア依存"のヒカルは、かなり難儀な状況になっているといわざるを得ない。

周りのスタッフの優秀さは、宇多うたアルバムで痛感した。プロモーション期間後半にぐぃっとギアを上げて、最終的に品切れのお詫び文までリリースする羽目になったのだから見事なものだ。もっとも、更にもう一段優秀なら品切れ自体起こさせなかっただろうけどそれは過ぎた要求というものだろう。

本人復帰ともなれば、その10倍のリソースと迫力でプロモーションが行われるだろう。手腕は大いに楽しみだとしかいえないが、果たしてそこに市場はあるのか。「宇多田の新しいのが出るのか。聴いてみようかな。買おうかどうしようか。」と興味を持ってくれる主体の集合が市場である。そんな人たちが、どれくらい残っているのか。それこそ、手応えがない。

"彼ら"が今人生のどんな位置に居て、音楽はその生活の中でどんな価値をもつのか。理想をいうなら、何もない所に宇多田ヒカルをねじ込める位のパワーがどこかから供給されればよいのだけれど、マスメディアってそんな力が今あるのか。そもそも、宇多田にどれ位興味を持ってもらえるのか。不透明感は日々強まるばかりなのだった。

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最近、「コイツ(ら)はセクシーだなぁ」と感嘆した人(たち)が2組居まして。片方がLED ZEPPELIN、もう1人が伊藤美誠で。

ツェッペリンの方は、知っている人にとっては言うまでもないだろう。特に全盛期の(72年位までの)ロバート・プラントのライブ・パフォーマンスはセクシーの一言に尽きる。男性が女性的だったり、女性が男性的だったりする事はあるし、中性的だったり非性的だったりというケースも少なくはないが、単独のパフォーマンスで"両性的"といえる魅力を放てるのは彼くらいではないか。男性的な雄々しさ、力強さ、品格。女性的なしなやかさや妖しさ、繊細さの両方を常に併せもっている。ジャニス・ジョプリンのようでもあるし、イアン・ギランのようでもある。テクニックという点ではポール・ロジャースに軍配が上がるがパワフルかつセクシーとなると若かりし頃のロバートプラントの右に出る者は居ない。

ツェッペリンの恐ろしいのは、そのプラントの両性的な、力強く且つ妖艶で繊細なタッチを、その集中力を維持したまま楽器陣の3人が引き継げる事である。彼らはブラック・サバスのようにヘヴィにまなれれば、ジョニ・ミッチェルのようにフォーキーにもなれる。信じられない振り幅の広さを、時には黒人やアジア人にもアイデンティティのレベルで共鳴できるサウンドとして出して来れる。今更ながらやはり20世紀最強のライブ・バンドである。本当今更だが。

そのセクシーさの源泉は、集中力の高さと、その力の入れ具合の絶妙さにある。プラントの"呼吸"と同レベルでギター・ベース・ドラムという最小編成の3人が即興演奏に突入できる。時にはプラント自らスキャットで参戦しながらそのスリルと集中力を共有する。その、集中力を"今出している音"の一点において表現できる技術とセンスがレッド・ツェッペリンを史上最も特別な存在に押し上げている。力が余計な所に分散せず、常に針のような鋭さで曲線を描いているのだ。

同じような集中力を、伊藤美誠にも感じるのだ。14歳の女性に対して大変失礼だが、彼女のルックスは典型的なおかめ顔で如何にも和風、田舎から出てきたばかりですみたいな平和なルックスを普段からしている。しかしプレイに入るとそれが一変する。全身から力みという力みがとれ、常に打球のインパクトの瞬間に力を集中できる体勢が出来上がる。その為、打球していない時の彼女の振る舞い方はまるでやる気がないのかというくらいに気だるく力が抜けている。しかし、それは常に意識を集中させる前段階の状態であり、インプレイになった後も、常に最短経路と最大効率でインパクトの瞬間に力を集中させる事が出来る。その分、他に力が分散していない。身体的にも、精神的にも余計な力みがなく、打球の瞬間を中心として急峻なデルタ関数(そこだけにパワーが集中していて他は殆どゼロ)を描く。その為、その立ち居振る舞いは独特のセクシーさを醸し出している。女性として、というより、プレイを中心とした試合中の立ち居振る舞いの一連が、私にはセクシーに映るのだ
った。

そういえば福原愛がいちばん強いのも、力みがとれて気だるそうにしている時だな。今回みたいに気負っていると、セクシーじゃあない。


ヒカルの過去のライブパフォーマンスを並べて見ていて、いちばんセクシーだと感じたのはやはりWILD LIFEだ。UTADA UNITED 2006にセクシーさを余り感じないのは、総ての場所に全力をぶち込もうとしているからだ。心身ともに力みまくっていて、集中力が分散してしまっている。というのも、当時の彼女はライブパフォーマンスの中でどこに心身の力を集中すればいいのかわかっていなかったからだ。その余裕のなさがガチガチだったりギリギリだったりの雰囲気を生んで、セクシーじゃない。

WILD LIFEは、In The Flesh 2010を経て、2時間のうちでのベース配分を完全に理解したのが大きい。ベースというと誤解を生むかな。2時間歌い続けても大丈夫な力の入れ具合、つまり、余計な所に力を入れずにいける方法論を学び、集中すべきポイントに心身のリソースを集められるようになった為、適度に力が抜け、針のような鋭さを保ったまましなやかな曲線を描けるようになったのである。年齢的な面も勿論なくはないが、やはりそのしなやかな力強さに私は「セクシーだなぁ」と感嘆せざるを得ないのだ。

次の段階のヒカルは、たぶん気だるいまでに力の抜けた状態でステージに上がり、最高の集中力で歌を聞かせてくれる存在になっているだろう。多分ナマでそれを見てしまうと、私なんかはそのセクシーさに卒倒しかねない。集中力さえ高ければ、セクシーさに年齢や性別は関係ないのだわ。

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母方の実家が兵庫だったから、という訳ではないが95年からのオリックスの試合はずっとテレビ観戦していた。グリーンスタジアムに行った事もある。勿論お目当てはイチローだった。あれから20年。未だに彼は現役のメジャーリーガーだ。

これがどれ位凄い事かというと。95年96年といえば伊達公子の絶頂期で世界ランク4位まで上り詰めていた頃だ。その後彼女は引退し、13年のブランクの後現役復帰、まもなくこのセカンドキャリアはファーストキャリアの期間の長さを上回る事になる。なお、最近の彼女の様子はあまり記事として取り上げられていないだろうから補足しておくと、怪我により前年までのランキングポイントを次々失い、現在国内の国際下部大会に出場して時期を窺っている。まだまだ闘志は衰えていないようだ。相変わらずギリギリの戦いを強いられているようだけど。

兎に角、イチローは、世界テニス史上に残る"鉄人"がプレイをしていた時もプレイをしていなかった時もまた戻ってきた時もずーっとプレイをし続けていた。数々の記録をもつ彼だが、やはり最も偉大なのは、胃潰瘍以外で全く怪我で欠場せず、かつメジャーリーガーとしてのクォリティーを保ってプレイし続けてきた事だと、ずっと見てきていた私は思うのだ。

後世の人は、この"超鉄人"の記録を数字だけ見た後に彼の容姿を動画で確認してそのあまりの華奢さに驚愕するだろう。メジャーリーガーのレベルでいえば、全く身体的素養に恵まれていなかったこの伝説的なプレイヤーが如何にたゆまぬ努力で心身のケアを行ってきたか、想像を絶する。

私は、スポーツなんてたかが貴族の暇潰し、だからこそ人生を賭ける意味がある、と思っているが、だからこそ本来の基本である「心身の健康の為に」という最重要点を無視してはならないと思う。多くのプロスポーツ選手が心身を疲弊させていくのをみるにつけ、常に心の中で突っ込むのだ。健康あってのスポーツでしょうが、と。

イチローは、つまり、1日も欠かさずその"スポーツの基本中の基本"に忠実であり続けてきた。それだけだ。そしてそれこそが最も偉大な彼の業績である。

ファンとしても、毎日試合に出てくれるというのは、本当に楽しい。毎日、今日は彼がヒットを打ったかな、打ったな、ああダメだったかこのピッチャー苦手だもんねぇ、とほんの2、3分の楽しみだが、毎日楽しみを提供してくれる。打てなくてガッカリするのもまた楽しみだ。相手ピッチャーのファンからしたらイチローを抑えた日という事で喜ばしいだろうし。

私がこうやって"コンスタントさ"にこだわるのも、イチローの与えてくれたこの"毎日の楽しみ"というのが大きい。たとえどんなにとるにたらない、つまらない事でも何かアウトプットを受け取れるのは"楽しい"事なのだ。だから、こうやって出来るだけ毎日何かを書いている。まぁ土日祝日は休んでいるけれども。

アーティストというのは本来予測不能なものだ。だから、Hikaruがこうやって年単位で作品を発表しない時期が続いても、全く、という訳ではないけれど、彼女に対して不満はない。その代わりに、穴埋めの為に、こうやって毎回彼女の話をしている。物足りないのは我ながら山々なのだが、何もしないよりマシと言い聞かせて書いている。まぁ今のところ毎週まとめて読み返してみて、「あぁつまらん」と思う回数はそんなに多くはないので、暫くは大丈夫だろう。ま、ネタが無いんじゃなくて書く気が起こるかどうかだから、どうなるかは全然わかんないんだけどね~。

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昨日は憲法記念日だったか。特に感慨は無いけれど、折角だから「法」の話をしようかな。成文法と呼ばれる、文章に起こされたもの。実態としては概念なので、実体は「本」になるだろうか。

改憲の話が出ている。前に話した通り、私自身はかなり極端な改憲論者だと思うが、今の所、日本国憲法についての改憲案で賛成できるものに1つとして出会っていない為、現状では護憲論者として振る舞わざるを得ない。よい改憲案に出会えればこの限りではない。

法の実体が本である限り本質は「文」によって形成される。法の文にはどんなものがあり、変えるとしたら何を変えるべきなのか。

文、というのは何種類かある。叙述文(命題)、疑問文、命令文などなど。「法」とは人(民)に行動を教えるものだから、基本的には命令文が主体になる。

命令文には2種類ある。「しろ」と「するな」である。

「しろ」或いは「やれ」というのは直接の行動の指定だ。大体が義務である。日本国民であれば「働け」「教えろ」「払え」と命令される。国民の三大義務だ。

「するな」「やるな」は行動の制限だ。「殺すな」「盗むな」「騙すな」などなど。十戒などはこの手の法だ。やっちゃいけませんよという行動が書いてある。

基本的に憲法は以上である。人がしなきゃいけないこととしちゃいけない事が書いてある。

とはいっても、人に「しろ」「するな」と言ってもきいてくれるとは限らない。どころか、基本的には無視される。そこで次だ。

「するようにさせる為にすること」
「しないようにさせる為にすること」
この2つを法として書く必要がある。これらは、大体刑罰になる。ここらへんからは憲法じゃなくて、個々の法律、民法やら刑法となる。そして、今の記述にあるとおり、途端に文がややこしくなるので要注意。


さて。時代と共に憲法を変えるとして。どこを変えればいいのだろう。時代とともにいちばん変わるのが、人が「できないこと」が減り、「できること」が増える事だ。つまり、新しい行動が増える。

その新しい行動に従って、新しい「しろ」と「するな」を付け加えなければならない。だから新しい法は常に必要である。

例えば、電話や電信の発達でできる事が増えた。その分、「しちゃいけない」「するな」という法を作る必要があって、最近みんなあたふたしている。また、医療の発達によって、例えばクローンが作れるようになった。どこまでを「するな」と書くか、皆悩んでいる。

「できること」は主に技術の進歩で増えるが、思想の発達によっても進展する。「その発想はなかったわ」である。「両性の同意に基づいてのみ」としか書かなかった当時は同性の結婚という発想が(少なくとも文の書き手には)なかった。今はある。ただ、発想自体なかったのだから「するな」とも書いてないし、「しろ」とも「すれば」とも書いてない。書ける筈もない。だから今のところ、どちらでも好きにして構わない。


「すれば」について書いていなかった。「してもよい」だ。行動の許可である。言論の自由や表現の自由の保障などだ。命令ではなく、しなきゃいけないわけではないししなくてもよいけれど、してもいいよという文。「すればぁ?」と書けばわかりやすいか。どうぞご自由にという事だ。


で。法を変えるとなると、つまり、新しく「するな」と「すれば」を加える事になる。社会として「できること」が増えているならば、新しい「するな」を加える事、新しい「すれば」を加える事には意味がある。

しかし、今ある「するな」を「すれば」に変える必要が出てくるのはどういう場合だろうか。新しい自由が増える、という解釈と道徳の後退、という解釈が混在する事になるだろう。そして、何より問題なのは、それによって他の「しろ」「するな」「すれば」と話が「かちあう」場合が出てくる事だ。それが法の問題の本質である。


簡単そうで難しい話だ。しかし、日本国憲法は、例えば「しろ」「するな」「すれば」が明確に分類されているかといえば否だ。「させる為にこうする」「させない為にこうする」或いは「したらこうする」「しなかったらこうする」に関してはいきあたりばったりの部類と言ってもいい。もっとちゃんとしろ、或いは一から作り直せと思う。でも面倒だし他人事なので私はやる気はない。相変わらず、誰かが書いてくれたものに対して「いい」「よくない」と言うだけだから、特に何も主張する気はない。


なので。まぁここからが本題なのだけれど。日記も法と同じ文だが、叙述文(「した」「だった」)以外にも、私は結構余計な事を書いている。だが、読者に対して「しろ」「するな」と言っても、「させるようにする」「させないようにする」手段も権利も持ち合わせていない為、それは書いていない。書いているのは新しい「すれば」だ。「こいしてみたらいい」「こうみてみたらいい」という新しい発想と視点を提供する事。これが「した」「だった」以外に書く話。

法は、「させるようにする」「させないようにする」手段とセットの文だ。つまり、常に「手と本」が一体だ。日記は常にただの「本」で、手は私も含めた読者が一人々々持つものである。私は、その意味で何もできないし、するつもりもない。する気なら日記なんて書いてないだろうし。

ただ、「手」にも色々ある。腕力の他に、財力やら権力やら魅力やらといった精神的な手もある。何かの「手」と一緒になれば、日記もまた違った風になるだろう。法みたいに。でも今は何もないし、それで居心地がいい。私は「手」から程遠い人間だから。「しろ」も「するな」も書かない。手を出したら、それは何かの終わりである。でも、人と人は手を繋ぎたがる。そりゃあ確かに、難しい。毎日悩むのはそういう事だ。それはそれで、でもまぁ、楽しい事かもしれない。

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この2年間、桜流しが無かったらと思うとゾッとする。私が言うと意外に聞こえるかもしれないが、この曲があったからあと何年でも待つ気になれたのだ。いや、無きゃ無かったで待ってたとは思うのだが、Hikaruだからどうのという前に「この曲を書いた作曲家の次の曲がどうしても聴きたい」とそれだけで思わせた歌の力に平伏したのだ。自分で言うのも何だが、非常に純粋な動機である。まぁその割にポール・カーターにあんまり思い入れが無いのは何故なのか自分でもよくわからんが、たぶんこれが"日本語の歌であること"が大きいのだろう。この私をして「嗚呼、日本人でよかった」と言わしめたのだから。正確には、「この歌を構成する言語であるところの日本語(とほんのちょっぴりの英語)を理解できる人間でよかった」だけど。

ある意味、この二年、ずっと桜流しの衝撃の残像を食べて生きてきたと言っていい。「そこまで言う曲か!?」と思われそうだがもうまさにこれは「あなたなしで生きている私」の話なのだ。感情移入の仕方が違う。EVAQありがとう庵野さんありがとうだ。円盤もう一枚買うべきだったか。感謝の印に。

残像は偉大だ。ただそれを追うだけで人が生きていけるのだから。希望って大事だなと。

残像とか残り香とか。"本体"がそこに居た事を示す、従って"今はそこに居ない"事もまた、残像は断言してくれる。これもまさに、歌の中で歌われている『見ていた木立の遣る瀬無きかな』、あなたが隣に居ないのに今年も同じように桜は散り流れていく…あなたの残像を残酷に浮かび上がらせる。

だがしかし。我々の宇多田ヒカルは帰ってきてくれると約束してくれている。そこが違う。つまり、総てが違う。影を追い続ければ必ず本体に辿り着けるのだ。


そう、影の話だった。これでも前回の続きなのだ。

迫り来る影に怯えるキャンシーと愛の影を追う愛囚と。迷いと逡巡に彩られた歌と、確かな愛の形に約束の手形を刻みつける歌と。その時のそれぞれのヒカルの精神状態も、少しずつ反映されているようにも思える。

キャンシーの歌詞をもう一度振り返ってみよう。

『かすかな物音
 追ってくるmovin' shadow
 振り切れなくなる影』

これ、当時は「検事ドラマ"HERO"の主題歌だから、ちょっぴりサスペンステイストを出したんだな。相変わらず絶妙の匙加減だ。」だなんてあっさり絶賛してたもんだが、さてこの影の正体って結局誰?と考えてみたら、あら、これは自分自身の影以外無いんじゃないのという結論に至った。歌のメインテーマが『近づきたいよ 君の理想に』なのだから、彼女は寧ろ彼の(いや性別はどっちでもいいんだけどね、歌っているのが女性なので)影を追う立場であって、誰かに付け狙われる筋合いはない。そんな中で振り切れない影といえば未来永劫どこまでもついてくる自分自身の影しかないんじゃないの、となる。

先に述べた通り、影とは本体の存在を示唆するが決して本体そのものではない存在、つまり本体の存在を肯定する本体の否定なのである。禅問答的だが、影に追われるとはつまり自己肯定と自己否定の間の揺らぎなのである。自分自身に対する自信があるのかないのかわからない状態。だから次のフレーズが『少しの冒険と傷付く勇気もあるでしょ』なのだ。

影は正確に自分と同じ動きをする。それを私は目で見れる。これは、鏡と同じ効果を持つ。Hotel Lobbyでコールガールが鏡を見て自問自答を繰り返すシーンを思い出そう。そこでは主人公が、鏡を見ながら自分自身の本音と対話していた。影もまた、同じ効果があるのなら、影に怯えるのは現在の自分自身の立ち位置や振る舞いや立場等々に不満があるとか認めたくないとか、そういう感情の存在を示唆してくれる。自らを客観視、客体視してくれる鏡や影のような存在はとりわけ重要なのである。


おっと、熱が入りすぎて愛囚の愛の影の話まで行けなかった。…んだが、次の更新いつになるんだ!? 私もからないよ…。


追伸:で、自分自身を影だと言ってる人の影は、一体どこにあるんですかねぇ…連休中に探してみましょうか。そうします。あはははは…。

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そういやキャンシーの『Can you keep a secret ? or このまま secret ?』ってとこ、つまり『誰にもいわないって約束してくれる? それとも秘密のまま?』って言ってるのか。秘密or内緒の中身はまだ話してないのね。

あれ、じゃあこの人の言うsecret/秘密の中身って、結局何だったんだろう…

もしかして、secret/秘密って最初っからなかったんじゃないの、これ。

この歌の主人公は、(おそらく)"君"に対して執拗に迫る。『誰にもいわないで』と言いながら。殆どストーカーの域だけれども、影に怯えているのは主人公の方だ。
勿論、『ここからずっと送ってる暗号』とか『遠回しな表現』といった歌詞から、秘密にしているのは「私が君を好きなこと』だと解釈するのが通常だと思うし、つまりこの人は「誰にもいわない?」という前フリをしながら(粋な)告白をしようと目論んでいる、というのが本来のストーリーだろうが、それは本当に彼女の言いたい事だったのだろうか。

彼女が本当に欲しかったのは、彼に好きだと伝えること、即ち「君の理想に近づくこと」の方ではなく、約束を守ってくれる誰かの方だったんじゃないのかな。だから『信じよう、だめだよ まだ疑えそうだもの』と歌っているのでは。

全体を通して、ここまで“迷いと躊躇い”に満ちた歌詞も、ヒカルの中では珍しい。『近づきたい』『近づけない』『おとなしくなれない』『すぐには変われない』『伝えよう』『やめよう』―兎に角不安定だ。こんな主人公が本当に欲するのは"何か確かなもの"であり、それを満たしてくれるのは約束だったのではないか、とそう解釈してみた。

迷いと躊躇いがいちばん色濃く出ているのが『振り切れなくなる影』である。君の理想を追い求めている筈の主人公が何かに怯えているのだ。これは、愛への確信に満ちた(満ち過ぎた)Prisoner Of Loveの『愛の影を追っている』とは対照的である。何かよくわからないものに怯える気持ちと、感情が行き過ぎてありもしないかもしれないものを追い求める気持ちと。この2曲を比べて聴くのはまた一興だ。曲調的にも「宇多田の王道」と両者目されるのに、歌詞は真逆ともいえるものなのだ。

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