無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最早名人芸の"腹話術(腹芸??)"、或いは"人形使い"ぶりだ。つまりコレは、光の本音をオブラートに包んで書く方法であると同時に、普段の光にはない視点や考え方を提供する役割も担っているのだ。となると、バックステージ-語順に訳すと裏舞台だが、普通は舞台裏という-とは何なのか。ハナからクマチャンに本音を喋らせてるならそんなものは不要な筈だ。謎を解く鍵は、クマチャン様が光にカメラの腕を指摘する場面にある。そう、光を外から見定める視点に彼は居るのだ。後ろで黒子としてクマチャンを操る立場と、"実際にクマチャンの側から物事を見る"視点両方を齎す彼。よく出来たカラクリだね全く。

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見える様に熊々態々置いてある中村俊表紙スカパー誌とリチャードアベドン(アディクの写真家)バイオ本の隣に顔を覗かせているのはデイヴィッドボウイの御尊顔。てか世のデイヴィッドさんはデイヴと略される事しばしばなのにボウイはデイヴと呼ばれるのをみた事がないね、ってどうでもイイですか。幾ら何でもBOφWYが彼の名を意識しなかった筈はなく(布袋サンは否定してたか)、ZIGGYが名作「ZiggyStardust」からバンド名をとった事からもわかる様に80s世代には中々影響力のある御仁。ていっても今の所光とこの70sUKロックアイコンとの音楽的繋がりは希薄。よもや顔が好みだったりするの!?

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今回もメッセ投稿後修正のお楽しみがあった。といっても私も教えて貰ったクチですがね。だが然し、投稿丸ごとクイズにしてしまう荒業があったり作品のキメ台詞をいいまちまって((c)陰陽座)しまったりと今迄の修正は何れも動機が明解だったのに今回はイマイチソコが不明なのだ。検討しようにも保存を怠っていた為確証はないのだが、最初"主だったシングル曲云々"とあった所に配信や篠田サンといったキーワードを追加した模様だ。ヲタとしては、光が投稿後その1の隆大クンと対になるよう篠田サンの名を出すコトを思い立ち、彼(女)のキャラを鑑みて今の書き方にしたと推測していますがね。

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我が家の家宝、貼って郵送しちゃうんならウチに送ってきてくれないかな~とか考えてんじゃないぞココの読者及び執筆者!(笑) 頼むから「この切手、光がデロ(ry」とか言うな!(言うてるがな) 然し、切手代とは郵送代の事なのだからもし使わなきゃ郵政丸儲けになるな、ソレは悔しい(謎)。ノーマルに考えれば、光がS萌えを発揮する時期は作詞中か〆切前か或いはその両方だから、その合間にU3かEMIにプレゼントチェックしに来たって所だと思うのだが、一方でこのハイテンションぶりは制作が順調に進んでいる事の証だろう(キリッ)、って書いてもデロとか言ってた矢先じゃ説得力ねぇなwww

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は創造(という過程)の結果に過ぎない』と云う時、さて作品はいつその"作品性"を獲得するのだろうか。決して自明でないこの概念は流通性とも自立性とも換言できるが即ち人はいつ"作品が完成した"と感じれるのか、だ。締切のない創作に光が突入した時その過程をいつ終わらせ作品を"棚に飾る"のか、逆に締切迄にその内面基準に達しなかった時どうしてきたのか、或いは過去1度もそうなった事がないのか。テクニカルでもスピリチュアルでもあるこの問題、単なるプロセスに過ぎない創造行為を締切という枷で目的的行為に変えてきた光に、松浦サン今度1度訊いてみて下さいw

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が、光が行きたいと思う頃に果たして大学という形態は生き残っているのだろうか。兎に角今はITを中心とした変革の時代であって、企業と国家が火花を散らす漫画的な展開すら現実味を帯びている。もしかしたら音楽家という選択は、普遍性、即ちコレから数十年を表舞台で生き残る上で最良の選択だったのではないか。体のイイ解釈かもしれないが、科学や漫画が職業として機能し始めたのはココ数百年単位の話で、音楽家は数千或いは数万年単位でコレを生業としてきた筈だ。歴史の分厚さが光のモチベーションの後押しをしてくれるのなら、こんな有り難い事は希有なのだが。

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語り掛けている(と解釈できる)曲が光にはあって、例えばキスクラでは曲自体のサウンドの説明や自身の嗜好について唄っているが、コレは誰を演じている訳でもないだろう(光がヒカルを演じてるとはいえるけど)。至近の曲ではO&O,オートマ2、Poppin等がソレにあたりココでも光はUtaDAとして聴衆に語り掛けるスタイルで詞を書いている。多分に光はLIVEの予定が具体的になると聴衆に向けて詞を作る傾向があって、ボヘサ前のリスク&タイムリミットやユナ前のキプトラ等は明らかにLIVEソングだ。能動的にヒカルとして語り掛けてくる詞の新曲が今後来た暁にはツアーの実現に期待を寄せてもイイのかもしれない。

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ってのが、光のファンでいるコツだと思うんだ」「空虚さに負ける気がするんだけどな、何の目的もない状態じゃ」「全然そんな事ないよ、現にこのblogだって大した目的意識もなくダラダラと続いてるじゃないか」「ん~、ソレはココの執筆者の異常性からくるものであって、普通は参考にならないのでは;」「望ましいのは、ココを読みにきてる人達がコイツの異常性に些少でも共感できていて、同じ様にいつ来るか判らない次の曲の妄想を繰り広げながら待つ事に楽しみを見いだしてくれるコトかな…まぁつまり"光の歌を聴く"という目的は存在して共有してるとはいえるのか」

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ハトステ&TiTOという日米各々の前作達からの流れの合流地点にくる訳で、即ち曲の方向性もそのセンから予想するのが穏当だ。中でもタイアップ作品が何かは気になる所。想像に過ぎないが、恐らくヒカルは実現した企画の何倍ものオファーを受けている筈で、その中から取捨選択して曲を提供してきたのなら今迄のタイアップ曲も結局光のアーティストシップの流れの中にあると考えるべきだろう。ウルブルの口火を切った"前回の合流地点"BMLは日本製小説の映画化とのタイアップだった。予断は禁物だが、次曲も同じく日本映画とのタイアップ曲ならば、この長いお蔵入り期間も説明がつくかもしれない。

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何をして過ごせばいいのかと問われたら取り敢えず「歌でも唄って暮らせばいいじゃない」と答えるつもりでいるのだが(そもそもそんな事誰も訊いてこないけど)、光はどう答えるのか興味がある。つまり裏を返せば、今の世には常に何か諍いがあり、歌はその癒しと成り得る事が光の(原動力か否かは兎も角)大きなモチベーションの1ッになってきた気がする。ところが、Hステに至る迄の詞のテーマは大局観も擁していたのにTiTOはライブソングと失恋歌で構成されていて、有体にいえば"諦観の向こう側"な感覚が強かったので次の曲の詞の方向性がちょっと気掛かりなのですよ。

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考え込んでしまった-というのは、今朝今日が6/14と知って何となくワクワクドキドキな高揚感を感じたからだ。夜中にW杯日本初戦があるからでは勿論なく、考えたらすぐ判った、ULTRABLUEの発売日の日付だ。何といえばいいのやら、余程4年前の私はこの日が待ち遠しかったのだろうね、記憶の中で日付と高揚感が直接結び付いてたのだから。斯様な過剰な期待に見事応えてくれたあの傑作から、もう4年と云うべきかまだ4年と云うべきか。人間の感慨は何とでも解釈できるが、blogに私が書き重ねてきたエントリの数は揺るぎないからコレを眺めて私の時間の尺度としておくか。

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はやぶさ君、燃え尽きて一粒のカプセルに後を託し夜空の星になった最期を観ながら、逝く事を美化するのがキライな私は「はやぶさ君全身カプセルにすればよかったのに」とブツクサ云っていた。つい光がキスクラ発売時に"犠牲"について語っていた事を思い出す。軽々に美化しない感性は、『夜空のパイロット孤独を癒すムーンライト』の夢見がちな感傷に『今日は日清CUPNOODLE』と"タイアップCMの日常商品"という最も生々しい現実を繋げるラディカルさにも表れていた。ルンルン気分で雲のない青空の下を闊歩する大衆相手に"青空が怖い"と言い切る史上最高のPopシンガーさん、そろそろ入梅ですヨ。

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LIVE出演者以外の固有名詞は使わないつもりだったのに抗い難く出してしまったのが英国のロックバンド、ピンクフロイドの名前だった。他界者が居る為最早再始動も望めぬ20世紀人類文化を代表するこの男4人組と光を比較したくなったのは、その圧倒的な包容力、赦しの力に通ずるものをみたからだ。死すら万物の風景として許容する深い懐。ヲタクの集まりに過ぎない彼らから何故か立ち昇った幻想の母性は、幻想であるが故に生身の女性にない神秘性を醸していたのだが、光の身体性感覚を鑑みれば彼女なら同様の神秘性を音楽に宿せるのではと期待してしまう私だった。

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ばかりしてる当欄だが、ホンネを素直に書けば"そんな事はどうでもイイ"のだ。宇多田光が社会にとってどんな意義があるかだなんて愚問も甚だしく、本来は社会の方が如何に光を楽しませる、喜ばせる、幸せに出来るかを考えるべきなのだ。光は、然し、そういう受身な他力頼みに与せず何より自分が生み出したい人なのでこの私の"真っ当な主張"は行き場を失って迷子となる。かといって、光が社会や会社に貢献しようという態度を(明示的に)とる事も又ない。両者が共に共鳴する場所を自然に見いだしていくしかないかな。我慢強く待つ事も勇気の1ッなのかもしれない。

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取り上げるといつもハラハラする。皆が皆という訳ではなく、例えばニーバーの祈りのW&Sリスクなんかはイメージがいいのだがアダム&イヴを詞のテーマに提案されたのにその露骨な肋骨的男尊女卑観に真っ向から反発したくてボニー&クライドをセレクトしたり創造主が女性形だったと主張してしまう創世期を描いたPVを作ってしまったりまでいくと流石に危なっかしく思える。当然光の中では個々の宗教(観)は相対化されていて、タイトルでメリークリスマスと謡いながら歌の中では密教の真言を唱えてみたりと結構無節操なのだが、コレは無宗教というより汎宗教/汎神観といった方がイイのかもしれない。

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