無意識日記
宇多田光 word:i_
 



という単位は結構曖昧な立ち位置にある。ルーツを辿ればビートルズに一旦行き着くのだが、史上最高峰クラスの作曲家集団だったから何十曲収録しても説得力があった訳で普通なら"シングル曲と捨て曲の抱き合わせ水増し販売方法"と揶揄されても仕方がない。斯様な批難を殆ど受けずアルバムを売れるヒカルは1人でビートルズに肉薄する仕事をしてきたといえるのだが、Hステのアルバム曲のバラ売りの売上がシングル曲の数%しかなかった事を鑑みるとそういった認識とソレに基づいた供給体制/消費行動が確立してるとは言い難い。来季のアルバムでも又隠れた名曲が多数生まれるのだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




既出な現状ではシングルの時と2重に支払うハメになってアンフェアだ、バラで買って後はプレイリストをDLすればOK」「作り手からすればムリヤリにでもリスナーに12曲1時間の世界を味わってみて欲しいんだよ、ソレにはある程度の強制力が必要だと思うんだ」「てコトは、やっぱり全曲シームレスに繋ぐしかないな、バラで買っても居心地が悪くてつい全部揃えちゃうだろう」「ソレも何か変か…卑怯ってか、イヤ自分で云っといて何だけどサ」「バランスと選択肢の幅が大事とはいえ、幅が広すぎてもファンとしては困るね、ある程度スタイルを絞って提示して貰った方がイイ」「入門し易い環境作りが必要だね」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




だからコレからも独立した4分の曲がメインになっていくと思うよ」「んだねぇ、ソレどころか、TiTOをみると曲が更に短くなる傾向にあるよね、まぁコレは歌中心の曲作りのせいもあるんだが」「なるべくアルバムで聴いて欲しいな、と思うのは1曲だけじゃ光の幅広いアーティストシップが伝わり切らないってのがさ」「というのなら猶の事1曲ずつリリースして満遍なく聴いて貰った方がイイんじゃないか、アルバム曲として5,6曲一遍に聴くとどうしても印象が薄れる」「キミの云う事も尤もだが、多様性をいちどきに提示する事でしか得られないパースペクティブってのがあるんじゃない?」(TBC)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イイってコト?」「ン~、ヒカルの曲は今や全曲シングルカット可能なレベルだから1曲ずつ提示しないとモッタイナイって話で、そうなるとアルバムってパッケージに拘らなくてもイイかなと」「自分、HステAlの曲順絶賛してたやん」「曲順だけがアルバムの意義、って弱くないかい」「連続した2曲、例えばビーストセレブとか蝕情熱、逆に断絶で隣り合うテイクマ5の醍醐味とかはアルバムでしか聴けないよ」「成る程、リマスターやリアレンジで曲同士が繋がり合うならアルバムで聴きたくなる…けれど、全曲そうなってる位でないとやっぱ弱いよ」「幾ら何でもソコ迄は出来ない、か」「願わくば、やってみてはほしいけどね」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




が、周知の通り今や流通方法の多岐多様によって従来のフォーマットで提供する必要性は薄れてきている。つまり12曲一括以外の方法を模索する事が出来る訳で、例えば昨年のTiTO携帯版は週1楽曲順次配信だった。ただ、斯様にリスナー側の選択の幅が広がっているからといってソレが音楽的経験の豊かさには必ずしも繋がらない。創り手側が適切な方法論を提示しないと、情報過多世界にありがちな"自由貧乏"に陥る可能性がある。提示するに際して「リスナーだって自分が何を聴きたいか予め知っている訳ではない」と云える位の強気の態度で引っ張ってってくれる位が丁度イイ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




HMV渋谷が8月に閉店するらしい」「ん~、まだタワーレコード宇多田店、もとい、タワレコ渋谷店が残っているとはいえ、いよいよという感じだね」「何しろ、日本有数の広さを持つCDショップが渋谷のど真ん中に居を構えてたんだ(よく通り抜けたなぁ)、近年のヒカル作品の扱いに関してはまぁ忠太サンに稿を譲るとして、例えば01年の時なんかDistance何万枚入荷したの!?という規模だったよ」「2010年の今って、その当時のタワレコ渋谷やHMV渋谷1店舗の売上数でオリコン1位が取れてしまうっていう時代なんだよね」「世の中が変わってしまったからとはいえ、やっぱり寂しいもんだね」

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




そのまんま"今、ステージの上に立っている才能達を確率上確実に生み出す事の出来る規模"であるのが理想だな、と人波広がるライブ会場でいつも思う。テクニカルな定義付けになるが、その聴衆の数と方向性がライブという空間の性質を決めるのだ。いわば素朴集合論的定義だが、そのセンでいくとヒカルの聴衆規模は如何にも不釣り合いだ。天井知らずに動員数が増えてもよさそうなものを抑えつけているのは現実には単純にライブの評判なのだろうが、ポテンシャルとしては1度のツアーで100万人動員したって足りないだろう。余程の事がない限り、暫くそんな事は起こらないだろうけれど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




は同じ心理の両面である。多分に、子供の言葉遊びに過ぎなく見えるものの中には真理が隠れる。書評の素材として"仮面の解釈学"を選んだ今朝の池田信夫blog。ノブログと勝手に呼んでる。ココに鮮烈な一節があった。取り出してみる-「オモテトハ オモミトオモヒトシテ カタドラレ カタリイデルハザマソノモノ」。誰の言葉なのかは(まさに)問う気もなく、ただ「思い」「重い」「面(おもて)」が同じ語「主(おも)」を根に持つと知り閃きを感じた。今朝のこの言葉、ひたすらに自らの面(おもて)をアルバムジャケットに使い続けてきた光に贈るに相応しいと感じ入る。"ヲモヒ"と古文風に書くのも悪くないな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




という、前回と同じく異曲同旋律の2ッを比較するのがスジだろう。例のメロディは、ホテロビではほぼ楽曲の主旋律として機能していて、その特徴は既述の通りSheとMeの人称をサビと対比して使い分ける点にあった。微妙に、この区別はキスクラに当て嵌らない様に見える。けれど、2番で家族の風景を見る俯瞰以上に、1番の"曲のサウンド自体について唄う"一節はメタ的視点という意味で俯瞰以上に対象からの距離が調整されているとみるべきだろう。してみるとこのメロディには、ナレーター/語り部としての気分が載っていると解釈するのが妥当か。適用基準が光の中で明快なんだと思うよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2曲、S&Cと嘘愛を比較してみる。詞を読んでみると、まず音声上第2音が"ン"でシメが"イー"である等共通点がある事に気付く他、両者とも載せる言葉に終局を匂わせている点が興味深い。例えば嘘愛は、終わる,最後,ラスト等が(周囲にも)配されていて、S&Cもズバリ"アナタが去る時"だ。載せるメロディが同じだと意味も似通うのか。コレは、"光"の同じ箇所の詞が、ずっと,どんな時だって,完成させないで,と「終わりのないこと」で固められている事に気付くとより説得力を増す。当該旋律@嘘愛で"エンドレス(に疑う)より"と唄っている所も耳を引く。もっと考察すべきテーマかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大きな動機の1ッに過去に自ら生み出した音楽達の存在があるのも間違いないだろうがね」「苦労して作り上げてきたもんねぇ」「全部やり尽くしたと思う瞬間がどこかであったとしても、暫く時間が経てばまた新しい曲を生み出してるし、本人も昔から云ってる様にライブで唄う事で過去を取り戻してまた前に進む力を得たりもする、その繰り返しって結構強固なものだと思うよ」「ん~、深河の時もそうだったね、春に全部出し切っても夏にはAnimatoが生まれていた」「ノスタルジーに浸る為以上に、過去を振り返る事は明日への活力になり得る場合があるって事だ」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最大の問題だ。常に光が表舞台から姿を消さないかとの懸念が頭から離れない。兎に角、お金は2ヶ月で3万円しか使わず、栄光なんて欲しくない、他者からの贈り物に頼らない生き方の人だ。ハッキリ云ってこの正真正銘の才能に対して僕らがインスパイア出来る事など殆どない。就中名曲といわれるレベルの曲を書かせる様な影響は皆無だろう。ソレでも『曲を書こう』という気持ちにプラスを与える事なら出来る筈。宇多田光といえど曲を書かずに名曲を生む事はできない。夜寝る前にチラッとファンからの言葉を読んで"明日も頑張るか"と思って貰えるんならこんなに嬉しい事はない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




宇多田ヒカルブランド下での"Popness"の独自性は、結果としての大衆性を追求するにあたって、プロセスとしては非大衆的なアプローチをとる点にある。つまり、制作過程において光は常に目下の楽曲がPopsとして成立するか否かの不安に苛まれ続ける。従って制作中のメッセには時折その不安を反映したフレーズが顔を出す結果となる。「大丈夫?私の興奮!大丈夫?!」という今回の名調子も、世間とのズレに気を遣わざるを得ない今の心理状態から生まれたものだろう。即ち今作業中の曲も、自己の従来からの嗜好に沿いつつもPopさを失わない、多くの期待に応える楽曲となりそうだ。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




しまったな、前のメッセに韻律の色濃かったのは作詞中だからじゃなく単に詩か何かを読書中でソレの影響が出ただけ、という可能性も考えておくべきだったか。成る程しかし、TiTOでFYIにマントラを引用したのと同じく今度は日本語詞にアイヌ語をと調べていたと解釈するのは自然だし(なので、最初からnon-noの意味を知りたかった訳ではないと思う)、今回も『なんちゅーめんこい言葉』と『めーっちゃかわいい名前』の2ッの韻バランスと文中での置き場所なんかはまさに光の詞の構成と相似形を描き得る。理屈としてはやはり作詞中と解釈するのが妥当か。恐らく、だけどね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




話題の選び方は兎も角、言葉の選び方は何処か韻律優先で、コレは作詞作業中かな、という想像(というか妄想)が膨らむ。多分に光は〆切がないと作詞には入らないからいよいよリリース予定が決まったのかも(来年3月とかね)。然も、柄の部分をみつけて撮るべきアメリカンカトゥーン伝統的な絵面(やはりココはジト目だろうな)を指して"シュール"と云うからには、今意識下にあるターゲット層は日本人、ソレもジト目とか言い出さない非ヲタクだろう-そんなベタな絵面をヲタクはシュールと呼ばないから。のみならず、iPhoneと東京をアピールしつつも雨に濡れて帰る嗜好を強調しているのはとてもバランスがイイ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »