無意識日記
宇多田光 word:i_
 



StaffDiary、予定通りの更新な様だ。それ程テイク5とぼくはくまの曲間は鮮烈である。サウンドが突き抜けた瞬間に始まる童謡は、果たして幼少の頃の思い出なのかそれともコチラが現実でソレ迄が夢だったのか。スタッフによる注釈が必要な位だから明確な答は用意されていないだろう。でなくば音の中にあの繋ぎであるべき必然性を封じ込めれた筈。光自身も判らない、イヤ区別する必要がないと思っているのかもしれない。夢と現の区別が不要なのは、光が自由と無力感をどちらでも等しく感じているからである。光が西洋哲学とも東洋哲学とも等距離なのはそういう理由からだ。

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(↑666回目なので)。さて↓ではいきなり9千字超をupしたが無理に読む必要はない。以後天啓で同内容を小分けにして更新する予定だ。兎に角感じた事を即座に書留め公表したくなる瞬発力がこの5thの音にはあった。テーマが「やわらかさ」というからフワフワしたアルバムかと思いきやなんの何ともタフでタイトなサウンドであった。柔は柔でも筋肉の柔軟性である。曲自体は勿論コレはマスタリングの効果が大きい。ぼくはくま等は非常に顕著で、あの柔和な音がクッキリハッキリしたサウンドに生まれ変わりアルバムの1楽曲としてバッチリハマッている。贅肉を削いで見事に"shape"されたサウンドのアルバムである。

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ひとことで表現するなら“風が吹き抜けるようなアルバム”だ。
その風は微風だったり夜風だったり、爽やかだったり優しかったりするし、
時には嵐寸前にもなったりする。暖かい風、熱い風暑い風、冷たい風寒い風、
強い風弱い風大きな風小さな風、目には見えないけれどここまで多様性に富むものはない。
そして、今迄の宇多田サウンドになかった“風が通る道”が音の中心に位置しているから、
これだけバラエティに富んでいるのに聴いていて疲れない。
また、その通り道が全曲で一貫している為アルバム全体を通して聴いたときの
一体感もまた、過去最高である。

聴き手がキラクに対処できるという点は、
要求されるものが多大だった前2作とは非常に対照的だ。
「DEEP RIVER」の持っていた(ジャケットにあるような)一貫したヘヴィなトーンや、
「ULTRA BLUE」のパワフルな極彩色を相手にするのは、リスナーにそれなりの体力が要った。
しかし、この「HEART STATION」は頬に風を受けているだけで音楽の感動を味わうことが出来る。
「FIRST LOVE」のフラットなテンションも聴き手は肩の力を抜くことが出来たが、
それよりも更にもっと気が楽だ。どうしても閉塞感や密室感(“In My Room”だからね)を
感じさせたその1stと違い、ここには圧倒的な開放感がある。
外からの風が吹き、どこまでも広がる青空や夜空が見える。

違ったことばを使えばサウンドに「大人の余裕」を感じさせる訳なのだが、
かといって手や気を抜いている様子は微塵もないから、
余り“余裕”というと誤解されるかもしれない。肩の力が抜けていて、
柳が風にしなるようにしなやかに千変万化する音の万華鏡の筒の中を、
風の匂い、風の色が鳴り渡り鳴り響いていく作品、そう表現したい。
ヒカルによる“小気味よいアルバム”という表現はなんとも言い得て妙である。


さて、プレイボタンを押して突然度肝を抜かれたのが、
その抜群のヴォーカル・プロダクションだ。
もしフレディ・マーキュリーが生きていたらまず間違いなく悔しがった、そして、
“次回作はこのチームにヴォーカル・プロデュースを頼もう”と思ったに違いない、
鉄壁のレコーディング・ミキシング・マスタリングの三位一体。
宇多田ヒカルという日本史上最高の歌い手(あとは美空ひばりと藤圭子を残すのみか)の
稀有極まりない極上のヴォイス・テクスチャーを高域から低域まで、大声から小声まで
総てをマシーナリィなまでにキッチリ隙なくフィーチャしたサウンド造りは絶賛に値する。
三宅プロデューサが胸を張るわけだよ。恐らく世界的に見ても
ヴォーカル・ポップ・アルバムとしては一級品であろうと思われる。

それだけヴォーカルに焦点の集まったサウンドなのに、
音の作り出す空間が過去最高のスケール感を持っている事にまた驚く。
楽曲のアレンジが非常にこなれていてしなやかで滑らか、いい意味で引っ掛かりがないから
全体的に見通しがよい。しかしいつものようにリズムマジシャンらしく
ドラム&パーカッシヴトラックは大地に根を張るように確りと楽曲の輪郭を支えている為
小粋なまでに引き締まった印象を残す。大掃除で窓ガラスを磨きまくった後に
「キュッ・キュッ」という音を鳴らしてる時に似た生理的快感が否応ナシに生まれてくる感覚、
とでもいえば伝わるだろうか。随分卑近な喩えだけれども。


褒めてばかりでは盲目的と謗られかねないから、
初聴で耳についたこのアルバムの弱点を幾つか挙げておこう。


まず、“Stay Gold”のマスタリングである。
それまでの4曲のマスタリングがまさに「完璧」としか言いようのない、
ヴォーカルサウンドの音量・位相の揃え方、ヴォリュームのバランス、
曲間の繋ぎ方の見事さを考えると、
この曲の最大の特徴のひとつである“ベースレス・サウンド”が
活かしきれて居なかったのが非常に残念である。
先述したが、このアルバムのマスタリングは機械的なまでに正確に
カッチリとまとめられていて隙がない。しかし、この“Stay Gold”という楽曲に
対して必要な感性とは“破綻と隙間の感性”なのである。
何故ヒカルがこの曲をベースレスにしたのか、
それによって生まれる浮遊感が高音と低音のピアノの音色をどう響かせるのか、
その点をもっと考慮に入れてサウンドを作って欲しかった。
寧ろ、ベースレスであることを気にしすぎて、
必要以上にこぢんまりとしたサウンドにしてしまったのかもしれない。

カギを解くのは、ヒカルがSSTVのインタビューで少し触れていた
やや左チャンネル寄りで鳴っている無機質な「チッチッチッチッ」というシンセのリズムである。
この音色が、「曲の中に音を鏤めていること」というサウンドの特徴をを代表してるのだ。
いうなれば、この音が「音全体をまとめることを放棄している」事を表明しているからこそ、
ひとつひとつの音が、雪国に降り散るダイアモンド・ダストのような煌きを放つのである。
余りにもマニアックな発想だとは思うが、そこのところをヒカルももうちょっと
サウンド・プロダクション・チームに伝えて欲しかった、、、とか書いておきながら
今度インタビューで「特にアルバムではStay Goldのマスタリングが気に入っている」とか
答えてたらどうしよう、と今から不安な私だ。まぁそれはさておいて。

もうひとつ不満点といえば、ところどころ本当に「素材で勝負」してしまった楽曲があることだ。
特にそう思わせるのがA面B面トップの“Fight The Blues”と
“Gentle Beast Interlude ~ Celebrate”だ。
両者とも最高の素材を持ちながら、有体にいえば「楽曲の練り不足」で
もっと更に豊かな展開の楽曲に仕上げることもできたのに・・・とどうしても思ってしまう。
“Passion ~ after the battle ~”くらい熟考してくれてもよかったのに、と。
まぁ、それは僕の好みの話かもしれない。なんというか、魚獲ってきて
煮もせず焼きもせず刺身で出して醤油すらつけない、みたいな調理法だ。
いくらなんでも味気ないんじゃあないか、と思うが、素材自体が素晴らしいので、
そこところはグゥの音も出ない。まだ1回しか聴いてないのに気が早いが、
特にこの2曲に関しては早くもシングルカットにおいて“Extended Mix”の登場を願いたい所だ。


で、このアルバムの最大の利点について触れておかねばなるまい。

曲順が神だ!

なんという流れ。なんという起伏。サウンドのクォリティを最大限活かし切る楽曲の質の高さを
更に引き立てるもう天才としかいいようのない曲順である。
新鮮な空気を胸一杯に吸い込むかのような“Fight The Blues”で幕を開け、
前作の“海路”~“WINGS”に匹敵する泣ける展開で“HEART STATION”に突入、
それだけでも悶絶なのにそのHステのフェイドアウトから“Beautiful World”の美しいイントロが
鳴り響くのである。この時点で既に3回ノックダウンTKO負けだ。

しかし、このアルバム前半のハイライトはこの次だ。
“Fight The Blues”~“HEART STATION”~“Beautiful World”と
どんどんどんどんテンポが上がってきて聴き手のテンションが最高潮
(のわりに、サウンドの風通しがよいから思いのほか暑苦しくない)になって、
ここで“Flavor Of Life - Ballad Version -”が始まるのだが、
その瞬間、「やられた!」と思った。正直、この曲の真の凄さ、そしてこの曲順で
登場することの運命を初めて痛感できたよ。何故オリジナル・ヴァージョンでなく、
こちらのバラード・ヴァージョンが本編に収録されたか。表向きは、
「バラード・ヴァージョンで世間に認知されてるから」という理由になっていて、
それは勿論真実なのだが、もうひとつ僕がこの曲順で初めて気付いた点、
「バラード・ヴァージョンは、オリジナル・ヴァージョンがあって初めて出来た曲だから」
という余りにも当たり前なことが大きかったのである。

どういうことかというと、この曲は元々ややアップテンポな曲だったわけだ。オリジナルは。
それを、バラードということでテンポを下げた。つまり、楽曲全体が
アップテンポ曲の息吹からの連続的変性で成り立っているわけである。
だからこそ、前曲の“Beautiful World”というハイ・テンポな楽曲からの繋がりが
非常に滑らかなのだ。“Flavor Of Life - Ballad Version -”には、
その出自・成り立ちから、楽曲自体に“テンポを落とす能力”が備わっていたのである。
なんともメタ視点な“能力”なのだが、理屈はともかく、この曲順で聴いた時に
まるでFoLBVがBeautiful Worldを大きく包み込んで昇華させる様な感覚が生まれている、
といえばいくらか共感が得られるのではないだろうか。

そして、まるで大団円のような、1stアルバムでの“First Love”のようなクライマックスを
4曲目で迎えて先述の“Stay Gold”に向かうこの並びもまた素晴らしい。
誰もが愛する素晴らしき“Flavor Of Life - Ballad Version -”の古典的な、
衒いの少ない感動からの流れに導かれてやってくるのは浮遊感と幻想と裏悪夢の世界だ。
ヒカルがついSSTVで“幽霊が唄ってるみたいな”と口を滑らせていたが、
その美しさの裏づけが負の感情であることは、
低音部のピアノの響きと併せてオフィシャル・インタビューでも語っていた。
そう、FoLBVとはまるで正反対の動機付けで生まれた美しさを持っているから、
いうなればオーソドックスな感動の反対側にポッカリとあいたエアポケットに
降り立つ精霊のようなインパクトを聴き手に与える事に成功しているのだ。
勿論、CMでもお馴染みなサビのメロディの親しみやすさは抜群で、
なんともうまい構成である。

そぃで、A面ラストを飾るのは“Kiss & Cry”のインパクト。聴けばわかるよね!(笑)
“Stay Gold”との曲間の秒数設定の絶妙さ。
こういうのもマスタリング・エンジニアの仕事なのだが、
テッド個人の判断というより、三宅&宇多田&宇多田プロデューサチームからの
細かい支持・要望に基づいていると判断した方がいいかもしれない。



翻って、今度は「ぼくはくま」以外初出の楽曲達で構成されたB面である。
ヒット・シングル連発の豪華さとはまた違ったアルバム曲ならではの感動の渦。
A面が疾風のようだったとすれば、B面は暴風とでも形容しようか。

まず、“HEART STATION”のサンプリングまで飛び出す“Gentle Beast Interlude”が心憎い。
左右に飛び交うコーラスワークは、“Stay Gold”で垣間見せた狂気の一端を
より鮮明に浮かび上がらせてくる。ただ狂っているのではなく、几帳面な理性を基底にして
狂ってくれているからこちらの感じる恐怖は倍増である。

その間奏曲に引き続いて現れる“Celebrate”が、全く予想外というか、
「これ、誰の作った曲!?」と思わず聴いてしまう程今迄の光の作風にない
リズム・トラックとアレンジ、そしてメロディであった。
80年代のダンス・ミュージックのようでもあり、90年代のレイヴのようでもあり、
昨今のエレクトロニックのようでもあり、なんだかYMOまで思わせたり、
モダンなのにノスタルジック、ノスタルジックだからモダン、とでもいいたくなるような、
最近でいえばPerfumeにも通じるような無機質とみせかけて官能的有機的なサウンド。
全体を通してメランコリィが途切れないのは80年代初期を知るものにはとても懐かしく、
かといってそれに耽溺しないドライさはここ最近のサウンドの特徴でもあったりする。
ちょっと前にこの無意識日記でも
「今度のアルバムは2010年代を見据えたサウンドになるかも」と書いたが、
正にこの“Celebrate”は次の10年を示唆するサウンドになっていると思う。
先述の「練不足による物足りなさ」も、
実はまだ来ていない時代への期待感の裏返しなのかもしれない、と思わせる程、
明確ではないにせよ新しいサウンド・ストラクチャーを匂わせる音になっている。
くまちゃんと遊びながらもヒカルは、ちゃんと時代の風も確り体内に取り込んでいたんだなぁ。


そこから繋がるのが曲名だけでみんなの目を引いていた“Prisoner Of Love”だ。やられた。
なんという古臭い音。なんという古臭いメロディ。王道というからどれだけ王道かと思いきや、
これは大昔から面々と連なる「日本人の琴線に触れる洋楽メロディの王道」である。
この曲は30代40代50代の音楽ファンは涙なしでは聴けないだろう。
泣き・泣き・そしてまた泣きというマイナー臭にまみれたクサイメロディの数々。
そりゃあサウンドとリズムのコンセプトを「歯切れのよさ」にしたくなるのもわかる。
一歩道を踏み外せば演歌になってしまったかもしれんもんな。(笑)
マイナーコードを使うときのABBAとかEAGLES、ややライトなサウンドのときのJOURNEY、
80年代のRAINBOWとか、いやまぁ40代以降の人でないとわからないタトエを出したくなるが
もしかしたら若いコたちにはこういうのとても新鮮に映るかもしれない。しかし、
なんといっても、誰がどう足掻いたってこの曲調はドラマの主題歌にならざるをえない!!(笑)
早速CXの「ラスト・フレンズ」とかいう重苦しいドラマの主題歌に決まったらしい。当然だ!!w

、、、と、ここまでは普通のレビューなんだが(そうか?w)、
僕としては先ほどのStayGoldのマスタリング話同様、
とびっきりマニアックな視点でこの曲を語っておきたい。
実は、これを聴きながら最初に思い浮かべた曲は“Never Let Go”だったのである。
何故なんだろうと考えるとこの曲“Prisoner Of Love”の製作過程に思い当たった。
同曲は元々UtaDAの曲、即ち英語曲として作り始めていてそれを日本語曲に移行したのであった。
つまり、英語モードから日本語モードへの移行を経て成立した楽曲なのだ。
どうやら、日本っぽいモノを英語で歌ったら面白いと考えやってみたけどやっぱり結局
日本語で唄った方がいいや、ということでこうなったようだが、想起してみると、
“Never Let Go”とは、光が初めて日本語で書いた曲なのである。
それまでは、基本的に英語で曲作りをしていたのだ。つまり、
“Never Let Go”という曲は英語から日本語への移行に於いて生まれた楽曲なのである。
“Prisoner Of Love”も同じく、英語から日本語への移行を経て生まれた曲だ。
私はその連想でこの2つを結び付けたのである。なるほど、
そうであればこの“Prisoner Of Love”は“宇多田ヒカル”としての原点回帰の曲なのだ。
英語だったCubic Uから日本語になった宇多田ヒカル、という流れの先祖帰り。
まるでアメリカ人がマイナーコード好きな日本人に向けて書いたかのような曲作り。
そういった要素たちが絡み合って、この大ヒット曲(確定!(笑))は生まれたのである。
あとは、年配の人たちがちゃんとCDショップに足を運んで購入してくれる事を祈るのみだw

“Prisoner Of Love”で早くもB面はクライマックスを迎えた!と悦に入って油断していた
私の心を襲ったのが、同等かそれ以上に素晴らしい“テイク5”のイントロダクションだった。
なんというインパクト。心を、いや心臓をがっちり掴んで離さない、感情を、身体を揺さ振る旋律。
澄み渡る青空で始まったこのアルバムが満天の星の夜空に吸い込まれていく。
“Prisoner Of Love”と“テイク5”併せてダブル・クライマックス!と叫んでおきたい。

その“テイク5”をぶち切って真打中の真打“ぼくはくま”がやっと、漸く登場する。
これだけの充実作、どうやってこの曲を登場させようか苦心惨憺したに違いない、、とか書くと
毎回「すんなり決まった」ってあとからインタビューで曝露されちゃうんだけども。(苦笑)
しかし、どれだけ極端な繋ぎ方をしようと、この曲の本質は揺ぎ無い。
なんだか他の曲と滑らかに繋がるのを諦めて、真逆の方向に行ってしまったかのようにも思えるが、
なんの、そういう後ろ向きというかヤケクソな気分とはちょっと違うように思った。

先述のとおり、Celebrate~PrisonerOfLove~テイク5はホップステップジャンプというか
ジャンプジャンプジャンプという具合に後半戦を盛り上げてくれるが、
そのエクスタシーが最高潮に達した瞬間の“境地”に、ぼくはくまは鎮座している。
いうなれば、繋ぎ方云々ではなく、A面から通じてそこまで積み重ねてきた感動の頂点に
この曲があれば一番まぁるく収まる、とこういうわけである。
極端なことをいえば、具体的な音の上での繋ぎ方はどうでもよかったのではないか。
あの場所にぼくはくまが先にありきで、じゃあその前はテイク5だからぶつっと切ろう、という
雰囲気だったのかもしれない、と仮説を立ててみておく。

実際、なんといったらいいんだろう、よくSFで「ワープをする為にはある速度以上まで
加速しなければならない」という条件付けがあるじゃないか。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんかを思い起こしてみるといい。あれは時間飛行だけど。
なんか、通じる気がする。各曲のクライマックスを積み上げて、“テイク5”で
感動の臨界点に遂に達し、殻をひとつ突き破った“彼方”に、“ぼくはくま”が居るのである。
その存在はまさに「菩薩」そのものといったらいいのではないだろうか。
あらゆる感動を撒き散らした挙句に到達する安息の地、それがくまちゃんであるのなら、
それから先に向こうに行こうとすればそこはもう「誰も居ない場所」になるのは当然なのだ。
なんだか、昔「ドラえもん」で「宇宙の果ての星」に着いたら空の半分にはもう星がなかった、
という半分ギャグだけどなんだか空恐ろしいコマがあったのを思い出す。
そうやって本編最後の楽曲“虹色バス”にこのアルバムは突入していく。

「虹色バス」とのタイトルをきいて最初に思い出したのは、
僕がほんとに小さい頃、それこそ物心ついた頃に一番お気に入りだった絵本のことだ。
「なないろのじどうしゃ」とタイトルされたその絵本、信じられないくらい何度も読み返した。
小さい子供は、何かひとつ絵本を気に入ると、とんでもなく繰り返し読んでくれとせがむものだが、
僕もごたぶんにもれずそういう絵本があり、それが、いろんな色のじどうしゃが
ただ並んで進んでいるだけの「なないろのじどうしゃ」という絵本だったのだ。
まぁ、完全に余談だな。

「虹色バス」のサウンドは、僕にまだメジャーになる前のTMネットワークを思い出させた。
最初の3枚の頃の彼らの音は、カッコイイというにはなんだか微妙な空気が結構漂っていたのだが
ダンサブルなんだけどこどもっぽいような、でもマニアックでもある、そして、
音楽をちゃんと楽しんで創ってることが伝わってくるその雰囲気は、何か合い通じるものがある。
折しも、そのTMネットワークがついこのあいだ出したアルバムのタイトルが「SPEEDWAY」で、
そのTMの前身グループの名前をそのまま使っていて、コンセプトとしてもノスタルジィ全開、
そしてその音を聴いて余りに古臭く懐かしくて嬉しくなってしまった。
童謡のぼくはくまから繋がるその雰囲気は、TMの「1974」に描かれていた夢寝見な少年の視線と
よく似たものを感じる。僕らが成長していくにつれ、童謡から歌謡曲やアイドルやポップスに
聴く音楽の軸足を移していくのだが、その橋渡しというか、いや、そもそも音楽の好みって
そんなに根本的には変わらないんだよ、ということを、なんだかこの「虹色バス」は
教えてくれている気がする。

あぁ、もう字数が足りない。最後にひとこと。“Flavor Of Life - Original Version -”が
入っていて本当によかった。これがあることで、僕ら聴き手に再び着地点が与えられた。
これがもしなかったら、僕らはポップスの姿を借りたモンスターにあっちの世界に
連れて行かれたまんま戻って来れなくなっていたのかもしれないんだから。
やっぱり、宇多田光も一人の人間、一人の女性なんだなぁ、気の弱い所もあるんだ、と安心して
また次の不安に備えようと心に誓い直したくなる、
そんなアルバムでしたよこの「HEART STATION」と名付けられた宇多田ヒカル5thアルバムは。
以上!


たった1回通して聴いただけでこれだけ書いた俺と書かせた作品の大いなる魅力に乾杯!


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