日本文学史上まことに重要な作品ではありますが、拙稿のここでの興味は、その文学的な中身ではなく、人生というものがこのように言葉で書けるものなのかどうか、という問題にあります。
この作品は、作家が自分で自分を観察して第三人称「彼」を用いて記述したもの、つまり三人称自叙伝という類の文学作品だ、とされています。三人称を用いてはいても、「彼は傷みを感じた」とか、「彼は軽蔑した」とか、主観的な内面の動きを記述していることから、これは純粋に客観的な行動記録であるとはいえません。やはり、自分を観察した主観的な記録という形式になっている、といえるでしょう。
著作権はもちろん時効ですから一部を抜粋してみましょう。
彼は彼の先輩と一しよに或カツフエのテエブルに向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
そのカツフエは極小さかつた。しかしパンの神の額の下には赭い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。(一九二七年 芥川龍之介『或阿呆の一生』第五節)
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