スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
日本時間で今日の未明にアイルランドのレパーズタウン競馬場で行われたアイリッシュチャンピオンステークスGⅠ 芝1マイル2ハロン。
ディアドラのすぐ外の馬が立ち上がるような発馬で2馬身の不利。ディアドラはうまく内に入れて後方から2番手を追走。発馬で不利があった馬も追い上げてきたので,直線に入るあたりでは先頭から5馬身差ほどの最後尾になりました。手応えは悪くなく,そのまま馬群の中を突こうとしましたがスペースがなく,外に切り返す形に。進路が開けてからは目立った脚で伸びてきましたが勝ち馬からおよそ3馬身弱の差で4着でした。
このレースは勝ち馬の能力が抜けていそうなので,勝つのは難しいと考えていましたが,2着争いには加われるのではないかと予想していました。勝ち馬が2馬身4分の1差で勝ち,2着争いとは半馬身強だったわけですから,この馬の能力は発揮できたものと思います。直線で真直ぐに進路が確保できていれば,あるいは2着はあったかもしれません。
説明会が行われたのは施設の食堂でした。この日に参加した保護者は先述した通り僕を含めて7人でした。
通所施設が変更されるということでしたが,場所は同じです。前にいったかと思いますが,ここは大きなところで,いくつかの施設が混在しています。妹が入所しているグループホームを日中にバックアップする施設が,これまでの施設から同じ敷地の中にある別の施設に変更となったのです。これは4月からで,したがって4月以降も妹が通う場所は変わりません。よって僕の送迎 の場所も変わってはいないことになります。
このときの説明だけでは十分に分からなかったのですが,新たにバックアップすることになった施設は,通所の利用者が利用している施設でした。この時点では妹は日中はグループホームの利用者全体で活動していたのですが,4月以降は通所の利用者たちと一緒に活動することになりました。活動の内容がいくつかあり,妹のようなグループホームの入所者も含めた利用者が,各々に適した活動をすることになります。したがって,4月以降は,グループホームの利用者が全体で活動するということはなくなりました。これがひとつの大きな変更点です。ただしこの変更点は,妹には関係ありますが,僕にとってはあまり関係がありません。
これに伴って,グループホームの利用者の日中の世話を,新たにバックアップすることになった施設の職員が行い,施設とグループホームの間の連絡役の職員が,グループホームの利用者の,施設とホームの間の移動を担当することになったのが,僕にも関係する大きな変更点です。現時点でこの連絡係を担当しているのは,妹が入所したときにはグループホームの妹の担当者で,昨年の4月からはグループホーム全体の責任者になっていたSさんです。
これがなぜ僕にとって大きな変更点であったかといえば,これによってグループホームの職員が,日中に通所施設で利用者の世話をする必要がなくなったからです。これまでは送迎のときは必ずひとりはグループホームの職員が通所施設に滞在していて,大抵の場合は送迎のときの連絡をしていたのですが,4月以降は新施設の職員がそれを担当することになったのです。
『悪霊 』のキリーロフ に対する僕の印象は,第二部第一章の5節で決定づけられています。この章の大部分はスタヴローギンとキリーロフの会話によって成り立っています。その会話のいくつかの部分については,『謎とき『悪霊』 』で触れられています。その読解は僕が印象として抱くための読解より深みがありますから,それについても説明しておきましょう。
キリーロフはスタヴローギンに対して,自分が幸福であることを知るようになった言い,すべてが素晴らしいのだと続けます。そしてその例示のようなものとして,赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す人がいたとしても素晴らしいのだと言うのです。ここではキリーロフは,人間が不幸であるのは自分が幸福であることを知らない限りにおいてであるということを説明しようとしています。この例示は大変に大胆なものではありますが,僕にとってはキリーロフがスタヴローギンに伝えようとしていることを大袈裟に示すための発言であるように思えました。
『謎とき『悪霊』』ではこれがキリーロフの終末的な世界観であるといわれています。この点は実は僕の解釈とそう変わりはありません。大胆とか大袈裟というのを終末的といい換えているにすぎないからです。ですがここではこの会話がスタヴローギンとの関係をはみ出し,フェージカとの関係として説明されています。フェージカは後にスタヴローギンの使嗾 によってスタヴローギンの妻であるマリヤを殺すことになるのですが,このフェージカはスタヴローギンと出会う以前,脱獄囚として身を隠すためにキリーロフの世話になっていました。この世話になっている期間に,フェージカはキリーロフから多大な影響を受けた,ある意味では洗脳されたというように亀山は考えていて,そのキリーロフの世界観を代表するようなことばとして,赤ん坊の頭の例を挙げているのです。
フェージカとキリーロフの間に深い関係が,一方的にではなく互いに影響を与え合う関係性があったのは,物語の中の事実としていいでしょう。そしてこの関係性がなければ,フェージカのマリヤ殺しはなかったのかもしれません。
3月14日,木曜日。回向があり,午前11時に導師が来訪しました。午後9時過ぎにピアノの先生から電話がありました。これは日曜のピアノの件でした。
3月15日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
昨年の11月に三者面談 をしたとき,通所施設が変更される可能性があるという話を聞いていました。この変更が決定事項となったため,新たな契約が必要でした。そのための説明会と契約がこの日と25日の2回あるので,保護者はどちらかに参加するように要請されていました。ちょうどこの日は迎えの日で,説明会自体も通所施設で行われることになっていましたので,僕はこの日に参加しました。迎えは午後3時ですが,説明会は午後1時半から2時半となっていました。2時半までに行けばいいのか1時半に行かなければならないのか僕には不明でしたので,12日の午前に通所施設に電話で確認したところ,1時半に来てほしいとのことでしたから,それに間に合うように出掛けました。このとき,印鑑と筆記用具のほかに受給者証が必要とのことでした。受給者証はグループホームに預けてありますので,事前に妹に持たせるように11日の夜にグループホームに電話で伝えてありました。
この日の参加者は7人でした。グループホームは男女が別々ですが,前にもいったように妹が入所しているところは建物は同じで1階が男,2階が女となっています。なのでこの説明会は男女混合です。利用者,つまり僕の場合でいえば妹も同席しました。説明を主に担当したのは新しい通所施設の支援課長のNさんで,もうひとり,施設長のTさんも出席しました。僕はNさんと会ったのはこのときが初めてでしたが,Tさんというのは,母 が小脳出血 で倒れたとき,妹が通っていた施設の施設長をされていた方で,妹の支援を決定するために面談をしたことがありました。つまり僕にとっては前々から知っている方でした。その後ここに転任していたのです。ですから妹がここに通うようになってからは何度もことばを交わしていました。Tさんは終業時刻には門の前で利用者を見送ることが多かったので,迎えに行ったときは会うことが多かったのです。
疑いdubitatioの原因causaの除去後と除去前 で,喜びlaetitiaないしは悲しみtristitiaの感じ方が変化することはないと僕が考える根拠は,第三部定理一八にあります。
「人間は過去あるいは未来の物の表象像によって,現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される 」。
この定理Propositioがいっているのは,僕たちはあるもののことを想起したり想像したりする場合に,現に知覚したときに感じるのと同じ感情affectus,この定理の場合でいえば喜びおよび悲しみに刺激されるafficiということです。したがって,ある人間がAを知覚することによって喜びを感じるのであるなら,その人間はAを想起したときにも喜びを感じるし,またAを想像するときにも喜びを感じるのです。
このことはそもそも第二部定理一七 から明らかなのです。なぜなら,もし僕たちがある外部の物体corpusに刺激されるなら,僕たちはその外部の物体が現実的に存在すると感じます。これが表象の種類 でいうところの知覚です。この場合にはその外部の物体が現実的に存在しているがゆえに僕たちの身体corpusを刺激しているといえるからです。ですが,もしその物体が現実的に存在していなくても,その物体の本性naturaを含む仕方で僕たちの身体が刺激を受けるなら,僕たちは同じようにその物体が現実的に存在すると知覚するのです。想像とか想起memoriaというのは,それが現実的に存在しているわけではないということを前提としていますから,こちらの場合に該当します。よって僕たちがある事物を現実的に存在すると表象するimaginariのは,その事物が実際に現実的に存在しているのかしていないのかということとは無関係です。ある事物の本性を含む仕方で僕たちの身体が刺激されれば,僕たちはその事物は現実的に存在すると観想するcontemplariからです。
ですから,ある表象imaginatioによって何らかの感情に刺激されるなら,表象されているものが現に存在しているかしていないかは無関係に,僕たちはその感情を感じることになります。
帰途に薬局に寄りました。心配していたトレシーバですが,1本だけ在庫がありました。薬剤師によれば,先日もランタスからトレシーバに変更になった患者がいたとのことでした。処方は3本でしたから,足りたわけではありませんが,この日から打つ分には問題ありません。ヒューマログと注射針は在庫がありましたので,残りのトレシーバ2本については配達 を依頼して帰りました。帰宅したのは午後5時20分でした。
ところが帰宅してすぐ,薬局から電話がありました。渡したトレシーバに関しては,使用期限が切れている可能性があるので,使わないでほしいという内容でした。なのでこの日はまだ残っていたランタスの方を使いました。
午後8時半に,薬剤師がトレシーバ3本を届けてくれました。ですから僕が実際にトレシーバの使用を開始したのは翌26日の夕食前からです。
2月26日,火曜日。22日に不足していた妹の薬 が午前10時20分に配達されました。
3月1日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
3月4日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。
3月5日,火曜日。17日に左の鼻あて部分のネジが外れてしまった眼鏡を眼鏡屋に持って行きました。これまでは家からわりと近くにある個人経営の眼鏡店を利用していたのですが,今回はショッピングモール内にある大手の眼鏡チェーン店を利用しました。持って行けばすぐに直してくれるのは同じでした。ただ全体が劣化しているとのことでしたので,左側部分の鼻あてそのものとネジ自体も新しいものと交換しました。予備の眼鏡を使ったのはこの日までということになります。
3月9日,土曜日。この日は妹は土曜レクリエーション でした。よってこの週は迎えに行かず,妹はグループホームで週末を過ごしました。
3月10日,日曜日。5日に直してもらったばかりの眼鏡だったのですが,また壊れてしまいました。今度は鼻あての左側の眼鏡のフレーム本体との接続部分が折れてしまったのです。この場合はもう直しようがなく,新しいフレームを購入するほかありません。しかし時間の都合がつきませんでしたので,またしばらくは予備の眼鏡を使用することになりました。
第30回テレ玉杯オーバルスプリント 。
ダノングッドは発馬のタイミングが合わず3馬身の不利。すぐに先手を奪うことに成功したノブワイルドの逃げに。エッシャーが2番手でワイドファラオは3番手。4番手はサクセスエナジーとデイジーカーニバルの併走。6番手がノボバカラ。7番手にブルドッグボスで8番手がヤマニンアンプリメ。ここから離れてダノングッド。また離れてリボンスティック。さらに大きく離れてミヤジマッキー。最初の600mは35秒6のハイペース。
エッシャーが3コーナーで一杯になり,逃げるノブワイルドと2番手の差が開きました。2番手に上がってきたのはワイドファラオ。その後ろにサクセスエナジー,デイジーカーニバル,向正面で外から動いていったヤマニンアンプリメの3頭が併走の3番手でしたが,デイジーカーニバルはコーナーの途中で一杯。ノブワイルドは直線では一杯でしたが,コーナーでつけておいた差がものをいい,逃げ切って優勝。ワイドファラオがやや差を詰めたものの1馬身半差で2着。前半の位置取りの悪さが響いたヤマニンアンプリメが1馬身半差で3着。
優勝したノブワイルド は連闘で制したプラチナカップ に続く3連勝。重賞は昨年のテレ玉杯オーバルスプリント 以来の2勝目。先行争いになるかと思われましたが,内目の枠からすぐに先手を奪うことができたのが勝因でしょう。最初から1000mまでは一定のペースで飛ばしていき,あとは粘り込むという走りも,このコースにマッチしていました。今日のメンバーで勝ったわけですから,同じコースで行われるJBCスプリントでも優勝候補の1頭とみておくべきだと思います。父はヴァーミリアン 。祖母は1987年に金杯を勝ったトチノニシキ 。
騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年のテレ玉杯オーバルスプリント以来の重賞10勝目。第10回,20回 も勝っているので連覇となるテレ玉杯オーバルスプリント4勝目。管理している浦和の小久保智調教師は昨年のテレ玉杯オーバルスプリント以来の重賞4勝目。第19回 を制覇していて,連覇となるテレ玉杯オーバルスプリント3勝目。
父のきょうだいの三女が勤務していた保険会社への保険金を請求するための書類は,この日に送付し終えました。これで母の生命保険に関連して僕がしなければならないことのすべてが終了したことになります。母の死から概ね半年の時間が必要だったことになります。
2月25日,月曜日。妹を通所施設まで送りました。
午後からは内分泌科の通院でした。病院に到着したのは午後2時10分です。いつもは到着するとすぐに保険証確認 をするのですが,この日はしませんでした。保険証の確認は月に1度は必要なことですが,僕は18日に検査がありましたのでその日に確認してありました。よってこの日は不要だったのです。
中央検査室には待機している患者はいませんでした。なので先に採血を済ませてから採尿しました。この日は使用済みの注射針は持参しませんでした。
午後2時45分に内分泌科の受付へ。予約は午後3時でしたが,診察が開始されたのは午後3時50分でした。この日はサマリー はもらいましたが検査詳細情報をもらえませんでしたので,詳しい検査結果は分かりません。ただHbA1c が高いので,持続効果型のインスリンであるランタスを,トレシーバという別の薬剤に変更することになりました。主治医によれば,こちらの方が血糖値を安定させやすいとのことでした。ただ,初めての薬剤でしたから,薬局に在庫があるかどうかは不明です。なのでそれを入手することができるまではランタスの方を使い続けるということで主治医の了解を得ました。
検査詳細情報をもらえなかったのは,先週の検査の結果に関する話が多く,僕も主治医もそれについて失念してしまったからです。そちらの検査のうち,神経伝導検査の結果はまだ不明とのことでした。残る3つの検査については主治医は問題なしという判断でした。血圧脈波の結果のひとつである血管の硬さは40代後半と年相応になり,前回よりも良化していました。ただ,頚部血管エコー検査の結果として,右側に厚さ1㎜程度のプラークがあるとされていました。これがどの程度のものであるのかは分からないのですが,主治医が問題なしというのですからそれでいいのでしょう。
一昨日,昨日と鶴巻温泉で指された第60期王位戦 七番勝負第六局。
木村一基九段の先手で相掛かり 。先手の引き飛車に後手の豊島将之王位が高飛車から速攻を掛ける将棋。
第1図から☖7五歩☗同歩☖9五歩☗同歩☖7五飛と仕掛けていきました。実戦の手順は9筋の突き捨てが先手にただで一歩を渡す手になってしまったのですが,入れておかなければ先手は別の対応をしていたので,その善悪はいい難いところです。
先手は☗2二角成☖同銀と交換して☗7七金 と上がりました。これが9筋の突き捨てを咎めにいく力強い一手でした。
後手は☖7六歩 ☗8六金に☖7七角 と打ち込み☗同桂☖同歩成と攻めを継続。無理筋のようですが局面自体は意外と難しいのではないかと思います。先手は☗5九玉と逃げ後手は☖6五飛と寄りました。
ここで先手は☗5六角と打ったのですが,☗7三歩☖同銀としてから☗5六角と打った方が得でした。
後手は☖6七飛成☗同角☖同とと交換。☗6八歩 に☖7八歩と打ち返し☗8八銀 に☖3五歩☗同銀☖3六歩 と進めました。ここは☖5七とと寄るのも有力だったように思えます。
先手は☗6七歩とと金を払い☖3七歩成☗同桂☖5五角に☗7八飛 と回りました。ここは☖3七角成の一手。先手は☗6八玉と逃げました。
ここが後手の最後のチャンスで,☖6四桂と打てば難しかったとされています。実戦は☖7三桂と盤上の駒を活用しにいったのですが,かえってそれを狙われることになりました。
木村九段が勝って3勝3敗 。第七局は25日と26日です。
本牧脳神経外科 への通院は,妹の薬 の処方箋を出してもらうことが主目的です。ですから帰りには必ず根岸駅ですぐにバスを乗り継がずに薬局 に寄ります。ですがこの日は薬が足りませんでした。
妹は朝食後と夕食後に薬を服用します。朝食後にデグレトールを3錠とデパケンを2錠,夕食後にはデグレトールを4錠とデパケンを2錠とマイスタンを2錠で,この量は長く変更がありません。妹は基本的にはグループホームと通所施設を行き来していますが,朝食と夕食はどちらもグループホームで摂りますから,通所施設で薬を服用することはありません。家に帰っているときはもちろん家でも服用します。薬は本牧脳神経外科への通院の帰りに入手しますから,入手した薬はすべて僕の手元にあることになります。よってそれをグループホームに持参する必要があります。これは小さなビニール袋に,1回分を小分けし,朝食後用と夕食後用とに分け,ジップロックのような大きな袋に入れて持たせます。僕は原則的に通所施設に送迎しますから,そこにグループホームの職員がいればその方にまとめて渡しますが,通所施設の職員だけがいるという場合にはその方に渡して,妹がグループホームに戻るときに持たせるように依頼します。グループホームの方で薬の残量が少なくなると,薬を小分けしておいた空き袋を妹が持ち帰りますので,そのときは家でまた新しいものを作って持たせるのです。ある程度はまとめて作りますから,妹が帰るたびにこの作業が必要となるわけではありません。この週はちょうど妹がその空き袋を持って帰っていたときでした。ただ,それを作る分の薬はありましたので,足りなかったとはいえ,何か重大な問題が起こったわけではありません。足りなかった分については,郵送することが可能とのことでしたから,そのように依頼しました。
午後8時10分にピアノの先生から電話がありました。前週のレッスンは先生のお子さんの高熱のために延期となっていたのですが,それが翌々日に予定されていました。このときの電話はその開始時刻についてでした。
2月24日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。開始時刻は午後2時でした。
昨日の第9期女流王座戦 挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女王が4勝,伊藤沙恵女流三段が1勝。
振駒 で伊藤三段の先手で西山女王の角道オープン三間飛車 。先手がすぐに角交換し,ダイレクト向飛車で先手が☗6五角と打っていく将棋の類型に進展。互いに馬を作り合う手将棋に。僕にはどこで差がついた将棋だったのかいまひとつ分かりませんでした。
先手が4五の歩を伸ばした局面。ここは☗4八飛と回る方がよかったという感想があり,あるいはここでもう後手の方がいいのかもしれません。
後手は☖4六歩 と打ちました。これに☗同銀はただなのでびっくりしましたが☖同馬なら☗4八飛でこれは先手が指せそうです。なので☖3六歩として3七の地点を狙いにいきました。
先手は☗3三歩☖同桂☗3六馬でそれを阻止。ただこれは☖2五桂と跳ねられますから後手としても不満のない進展でしょう。
これも3七の地点を狙われています。先手は☗3三歩☖同飛☗3四歩☖同飛と連打して☗4五馬。ここで☖3七桂成は☗3四馬が☗4三歩成の先手になってしまうので☖3一飛は仕方がないところ。先手は☗2五桂と取ったので後手は☖3九飛成で龍を作りました。☗4八飛は仕方がないところで☖2五銀と後手は駒損も回復。龍を作っている分,後手の方がよくなっているような気はします。
先手は☗5五銀と馬を目標にしながら飛車先を軽くしました。ここから☖4七歩☗同金☖3六銀 ☗5六馬☖7四馬☗同馬☖同歩☗4三歩成と進んだのですが,無視して☖4七銀成☗同飛に☖5八角とされ,先手の敗勢となりました。
手順中,☗2五桂と取ったところでは☗3二歩☖同飛☗2三馬とする順があり,これは3七の地点は突破されるものの2四の銀は取れそうなので先手はこちらの方がよかったかもしれません。また,☖4七歩に☗同金と取っても☖3六銀と出られてしまうのなら,☗同飛と取ってしまった方がまだましだったかもしれません。ただ最初にいったように,どこではっきりとした差がついたのかは僕には分かりませんでした。
西山女王が挑戦者に 。第4期 以来5年ぶりの五番勝負出場。第一局は来月30日です。
この日はまた区役所に行きました。これは母の生命保険を請求するのに必要な書類を取得するためでした。この日は行くときは曇っていたのですが,区役所に滞在している間に雪になっていました。
2月17日,日曜日。眼鏡の左の鼻あての部分のネジがまた外れてしまいました。どうもネジが緩みやすくなっているようです。すぐに眼鏡屋には行かれませんでしたので,予備の眼鏡で対応することになりました。
2月18日,月曜日。みなと赤十字病院での検査でした。
病院に到着したのは11時5分でした。最初の検査の予約時刻が11時15分になっていましたので,これはちょうどよい時間でした。それは自律神経機能の検査だったのですが,実際に最初に行われたのは,予定では11時40分になっていた神経伝導の検査でした。もう何回目かになりますが,今までで最も念入りに検査されたような気がしました。この検査が終了すると部屋を移動し,13時に予定されていた血圧脈波の検査と,自律神経機能の検査が立て続けに行われました。これら3つの検査のすべてが終了したのが11時55分でした。ここから少し待機の時間があり,最後に超音波,頸動脈のエコー検査 になりました。これもこれまでより時間を掛けて行われたような気がしました。すべての検査が終了したのは12時35分でした。会計の受付だけ済ませて院内の食堂で昼食を摂り,食後に支払いをして帰りました。
2月21日,木曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
2月22日,金曜日。妹の本牧脳神経外科 の通院でした。木曜日に迎えに行ったのはこのためでした。この日は診察をしただけでした。帰りのバスの中で,妹が本牧の施設に通所していたときに,一緒に利用していた利用者の方に会いました。妹の睡眠時間 を確保するために,僕は通院は歯科であれ脳神経外科であれ午後3時に予約を入れます。脳神経外科は同じ本牧にあり,かつ根岸駅からみると妹が通所していた施設よりもやや先にありますので,診察の終了が通所施設の終業時刻と近くなるため,このようなケースが生じることがあります。利用者とは初めてでしたが,職員と会ったことは前にもありました。
7日に囲碁将棋チャンネルで放映された第41期女流王将戦 挑戦者決定戦。対局日は8月9日。その時点での対戦成績は西山朋佳女王が3勝,伊藤沙恵女流三段が1勝。
振駒で伊藤三段の先手。西山女王のノーマル三間飛車に先手が左美濃から銀冠という戦型に。
後手が3三の角を引いた局面。☗4七銀が最も普通の手でしょうが,ここで☗4五歩と仕掛けました。
これに対しては☖3四飛もありましたが☖3三角と戻りました。☗4四歩☖同銀☗2四歩☖同歩☗4五歩☖5五銀☗5六歩☖同銀の進展は,先手から仕掛けた以上は当然かと思います。さらに☗3三角成☖同飛と交換して☗7七角と打ちました。ここでは☗2二角も有力そうですが,☖5五角でも単に☖2三飛でも,2筋から逆襲して後手がやれるようです。
後手は☖2五角と飛車先を遮断しながら金取りに打ち,☗6八金右に☖4六歩と垂らしました。
第2図となってと金作りを受けられないので先手が失敗したかのように思えますが,実際はそうではありません。☗1六歩と突いて角を目標に攻めていく手があるからです。
後手はすぐに☖4七歩成としましたが,それはいつでもできる手なので☖3六歩と突いておく方がよかったかもしれません。先手は☗1七桂☖4三角に☗2四飛と走りました。ここは☗3三角成や☗4四歩あるいはそれらの組合せなど手が広いところですが,どの順でもいい勝負だったようです。
後手は☖2三歩と受け☗2六飛の銀取りに☖3六歩と突きました。先手はそこで☗3三角成と取って☖同桂。
ここで☗4四歩は☖5五角があるので無効。なので☗2三飛成としたのですがおそらくこれが敗着。ここは☗4七銀☖同銀成と払ってから☗2三飛成といくべきだったと思います。実戦はと金と銀が残ってしまった上に,すぐに☗3三龍は王手龍取りがあるためにできずそれを受ける必要が出たため,後手の攻めの方が早くなりました。
西山女王が挑戦者に。女流王将戦は今期が初参加での挑戦権獲得。第一局は来月以降の放映です。
2月1日,金曜日。通所施設へ妹を迎えに行きました。30日に新しい受給者証が届いていましたので,それを持参し,グループホームに届けてもらうように依頼しました。
2月4日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
2月5日,火曜日。区役所に行きました。これは保険料が未納であることを告げられた保険会社への,母の入院中の保険金を請求するために必要な書類を入手するためでした。
2月7日,木曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
2月8日,金曜日。妹のみなと赤十字病院の歯科の通院でした。これがありましたので,この週は木曜に迎えに行ったのです。この日もクリーニングをしただけでした。担当した歯科助手から,よく歯が磨けていると褒められました。妹は食後に歯を磨いた後,職員の方に点検してもらい,磨き残しがあったら落としてもらっているようです。ですからこのときに褒めてもらえたのは,職員おかげといっていいでしょう。
2月11日,月曜日。回向のため午後2時に導師 が来訪しました。この日は祝日でしたから妹も家に滞在中でしたので,妹も読経に参加しました。読経は概ね30分くらいです。
2月12日,火曜日。妹を通所施設に送りました。
2月14日,木曜日。お寺 の住職の奥さんから電話がありました。これは回向のときの導師に対するお礼に関してでした。回向にはお礼,というのは金銭ですが,お礼を渡すものと渡さないものの二種類があるのだそうです。僕はこれまでの回向ではお礼は渡していませんでした。導師自身がそのようにしてほしいと言っていたからです。奥さんによれば,前年の暮れに渡した年間の費用の中から出すことができるので,お礼を出す回向に変えた方がいいとのことでした。ということで翌月の回向からは,お礼を出すことにしました。
2月15日,金曜日。朝,ロサンゼルスの伯母から電話がありました。これは福江島に住んでいる叔父に対する金銭的援助に関する話でした。叔父は交通事故を起こした影響で,経済的に困窮していたようです。とはいえ僕の方からお金を出すことはできませんでしたので,僕が金銭的援助をしたということではありません。
青森記念の決勝 。並びは藤根‐新山響平‐新山将史‐伊藤の北日本A,渡辺‐守沢の北日本B,小原‐山賀‐伊勢崎の南関東。
渡辺がスタートを取って前受け。3番手に藤根,7番手に小原で周回。残り3周のホームから小原が上がっていき,新山響平の外で併走。このまま残り2周のホームに。併走をやめた小原がさらに上がって渡辺の前に。しかしバックで内を掬う形でまた渡辺が先頭。外から藤根が発進し打鐘前からかまし先行に出ると,伊藤の後ろを小原が追う形になり,5番手に小原で6番手が渡辺,さらに山賀,守沢,伊勢崎という一列棒状に。このままバックに入ると新山響平が番手捲りを敢行。新山将史はやや離れたものの追走しましたが伊藤は完全に離れました。小原の後ろから自力を出した渡辺が3番手まで上がりましたが,最終コーナーでは先頭と2番手,2番手と3番手にそれぞれ差がある形。直線ではその差は詰まったものの順位までは変わらず,新山響平が優勝。マークの新山将史が1車身差の2着で地元の弟と兄のワンツー。渡辺が半車身差の3着。
優勝した青森の新山響平選手は7月に玉野のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は6月の函館記念 以来の3勝目。青森記念は初優勝。ここは藤根が先導役を買って出て,渡辺がこのラインを邪魔することはあり得ないので,小原に競られることがない限りは勝てるだろうと思いました。小原は一時的に併走しましたが,長く競り合えば渡辺を利するだけですから,結局はこのラインの後ろを狙う競走をせざるを得ない形に。藤根もいいタイミングで発進したと思います。
1月25日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
1月26日,土曜日。午後9時にピアノの先生から電話がありました。翌日に延期したレッスンの開始時刻に関してです。
1月27日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。午後3時半の開始でした。
1月28日,月曜日。妹を通所施設に送りました。帰宅してすぐ,午前11時半に電話がありました。風呂のガス給湯器の点検についての案内でした。点検の日時を決めました。さらに午後5時15分には,保険料を引き落とすことができなくなっていた保険会社からも電話がありました。母が死んだことは伝えましたので,保険金の請求の手続きに関してはその時点で初めてもらっていました。また,支払わなければならない保険料に関しては,振込用紙を送ってもらい,それで振り込むことも24日の電話で確認してありました。この日の電話は,僕の生命保険に関するものです。僕の生命保険の受取人が母になっていましたので,それを変更しなければならなかったのです。そのための書類も送付されることになりました。
1月29日,火曜日。午前10時20分に導師 から電話がありました。11時半ごろに訪問するという内容でした。午前11時に,前日に決定しておいたガスの点検の業者が来訪しました。点検は10分程度でした。不良の部位はあるけれども,給湯器としてはまた使用し続けられるとのことでしたので,交換はしませんでした。導師はこの点検が終った後,電話での通知通りに11時半に来訪しました。30分ほど読経をして帰りました。なぜ急に来訪したのか定かではないのですが,御講 だったのだと思われます。この読経の最中にみなと赤十字病院からの電話がありました。22日に申請した書類が完成したので,近日中に取りに来るようにとの内容でした。
1月30日,水曜日。妹の新たな受給者証が送付されました。計画相談 が終了し,19日にサインをしたので,その後で福祉事務所で正式な手続きが行われたのでしょう。
1月31日,木曜日。みなと赤十字病院に行きました。29日に電話で通知を受けた,保険金の請求のために必要な書類を受領するためでした。
金沢で指された第1期清麗戦 五番勝負第三局。
甲斐智美女流五段の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車 。①-Aに進みました。中盤が長い将棋でしたが,9筋で攻め合い になったあたりは先手の方がよさそうに僕には思えました。
先手が☗6五歩と歩を取り込んで後手が受けた局面。ここで☗6七金右と指しましたが,この手はあまりよくなかったと思います。後手の攻めは☖9八歩成からなので,それを受けるような手の方がまだ優ったのではないでしょうか。
後手は☖9八歩成。ここから☗7五桂☖7四銀☗5八香と進めました。先手が金を上がったのはこのように香車を打ちたかったためのようです。実現しましたから,先手が悪くなっているようには思えません。
☖5四歩と受けた手に☗5九飛と回りました。後手は☖9七とと引き先手は☗2六角 と活用。後手が☖2五銀 と催促したので☗4四角☖同歩はこう進むところ。このあたりの後手の指し方はやや危険だったような気がします。先手は☗5三歩と垂らしました。後手は☖7五銀☗同歩と桂馬を払って☖4八角。
ここで☗2九飛と逃げましたが☖5三飛とされて先手に効果的な攻めがなくなってしまいました。第2図はたぶん☗4九飛と角に当てておく方がよかったのではないでしょうか。それなら後手も☖7五角成でしょうから☗5四香でもう少し攻めが続いたように思えます。
3連勝で里見名人が初代の清麗 に。これで6つのタイトルを同時に保持することになりました。
1月20日,日曜日。午後1時10分にピアノの先生から電話がありました。先生のお子さんが高熱を出されたとのことで,この日のピアノのレッスンを延期したいとのことでした。もちろん了承しました。
1月21日,月曜日。午前9時にグループホームから電話がありました。この日からグループホームの利用者は日中は通所施設へ出勤することになったので,通所施設の方へ送ってほしいという内容でした。というわけで,通所施設へ妹を送りました。
1月22日,火曜日。みなと赤十字病院へ行きました。これは外資系の保険会社の保険金の請求に必要な書類を申請するためでした。帰りにI歯科 に寄って予約を入れてきました。みなと赤十字病院から帰るためには根岸駅でバスを乗り継ぎます。I歯科は根岸駅前のビルの中にありますので,これはそんなに面倒なことではありません。
1月23日,水曜日。前日に予約を入れた歯科検診 でした。午前10時半から。この日もクリーニングを施しただけです。ただ,左の上の歯はコーティングが薄くなっているので,歯を磨くときに歯ブラシをあまり強く当てないようにという指導を受けました。
1月24日,木曜日。火曜日に書類の申請に行ったのとは別の保険会社から電話がありました。これは保険料が未納になっているという旨でした。保険料はこれまでは母の都市銀行の口座から自動で引き落とされていました。この口座を相続するために閉じたので,必然的に保険料の引き落としもできなくなったのです。
この保険会社は,もとは父のきょうだい のうち三女が勤めていた保険会社でした。ですから我が家の家族の保険の大部分はこの保険会社と契約していました。つまり母だけでなく死んだ父もそうでしたし,僕も生命保険に加入していました。僕からみると伯母が勤めていた生命保険会社となりますが,その会社は別の会社に吸収合併されましたので,現在は伯母が勤めていたときとは別の会社です。ただ保険自体は新会社になっても継続されていました。なので母の口座から,母自身の保険料と僕の保険料も同時に引き落とされていたのです。母が死んだために引き落とせなくなったと伝えました。
昨日の第32期竜王戦 挑戦者決定戦三番勝負第三局。
振駒 で豊島将之名人の先手となり角換り相腰掛銀 。先手が飛車先の交換を防ぐために角を打つ 展開でしたので,序盤は後手の木村一基九段がうまくやっていたように思えます。
6八にいた角が上がった局面。8筋の受けがなくなったので☖8六歩 ☗同歩☖同飛と交換しました。
先手は☗6五銀と取り☖同歩に☗9一角成。先手が桂香と銀の二枚換えで馬を作りましたが,手番が後手なので少なくともいい勝負だったと思います。
後手は☖8七角 と打ち込みました。ここから☗7七金☖6九角成☗同飛☖8八飛成☗5七王 までは一本道。後手は☖5五歩から攻めを繋ぎにいきました。
先手は☗9七角と打って☖9九龍を強要。それから☗4四香と打って攻め合いに。
第2図から後手は☖8八銀 としましたが,☗4三香成☖同金となった後,4四に駒を打ち込んで4五に拠点を作っていく先手の単純な攻めが厳しく,敗勢となりました。どうも第1図以下の後手の攻めが暴発だったようです。
2勝1敗で豊島名人が挑戦者に 。竜王戦七番勝負には初出場。第一局は来月11日と12日です。
妹は特別乗車券 を持っています。これを持っていれば横浜市内の路線バスは会社がどこであれ無料で乗車することができます。僕が持っている市営バスの定期券 は全線の定期ですので,横浜市営バスなら路線に関係なく乗ることができます。一方,重度知的障害者の付き添いとしてバスに乗る場合には,路線に関係なく半額の割引があります。このときに愛の手帳を運転士に見せる必要があるのです。グループホームの最寄りのバス停は市営バスは走ってなく,上大岡までは京浜急行のバスに乗ります。なのでこの日は愛の手帳を借りたのです。
僕は基本的にこの種の書類はすべてグループホームに預けてあります。愛の手帳すなわち療育手帳や障害者の受給者証,健康保険証やおくすり手帳などです。妹が通院するときは保険証が必要ですし,薬が出される場合はおくすり手帳も必要になります。その場合は僕が迎えに行くのに合わせてグループホームから通所施設に持ってきてもらっています。そして次に妹を送ったときに持っていき,また預かってもらうのです。妹は家にいる時間よりはグループホームにいる時間の方が長いのですから,この方がよいと思ってそうしています。ただし,特別乗車券はほかの利用者に破られてしまいそうになったことがありましたので,常に僕が管理しています。グループホームにいる間に妹が路線バスに乗るということはありませんから,これは不都合ではありません。同様にみなと赤十字病院と本牧脳神経外科の診察券も僕が管理しています。これらふたつの病院に妹を連れて行くのは僕だからです。
帰ってから,ピアノの先生からの電話が入りました。これは20日のピアノのレッスンの開始時間の件です。
1月19日,午後1時45分に支援計画書 の作成を依頼したKさんから電話がありました。計画書が完成したのでこれからサインをもらいにいくという内容でした。Kさんが来たのは午後3時前でした。支援計画の内容を確認した後,サインをしました。このようにいうと僕がサインしたかのようですが,実際にサインをしたのは妹です。本人がサインをすることができるのであれば,その方がよいとのことだったからです。
スピノザの定義Definitioの理念の変更に関するパスカルBlaise Pascalの影響について考察したときに用いた書簡一を簡単に紹介しておきます。
現在の『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』の書簡の番号 は日時順になっています。したがって書簡一は最も古いものです。1661年8月16日付で,オルデンブルク Heinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたものです。遺稿集Opera Posthuma にも掲載されました。
冒頭でオルデンブルクは,レインスブルフ Rijnsburgにスピノザを訪ねたとき,そこを去るのが心残りだったといい,イギリスに帰国してすぐに手紙を書いたといっています。ですからオルデンブルクがスピノザを訪問したのは,この年の7月,早くても6月であったと推察されます。オルデンブルクは情報収集屋で,その一旦はこの書簡にも垣間見ることができます。スピノザに対して,スピノザがもっている情報を自分のために役立ててほしいと依頼しているからです。
レインスブルフでふたりは,神Deus,無限の延長Extensioと思惟Cogitatio,属性attributum,身体corpusと精神mensの合一unio,デカルト René DescartesとベーコンFrancis Baconの哲学の原理について語り合ったとオルデンブルクはいっています。これに関してオルデンブルクは,ふたつの質問をスピノザにしています。ひとつは延長と思惟の相違がどの点に存するのかということであり,もうひとつはデカルトおよびベーコンの哲学の欠陥は何で,それはどう是正されるのかということです。
このうちふたつめの質問は,確かに詳しく説明されなければ分からないかもしれないので,書簡で問うにも値するものだと僕は考えます。ですが延長と思惟の相違が何であるのかということは,たぶん語り合えば分かった筈のことであったように僕には思えるのです。逆にいうと,このような質問をスピノザにするオルデンブルクは,知的な面では有能ではなかったのかもしれません。少なくともスピノザの哲学的な考え方については,理解することができなかったのでしょう。このことはオルデンブルクとの文通の最後の方まで続くことになったといって差し支えないと思います。
僕はこの日は区役所に行った後で桜木町に行きました。家に帰ったのは午後5時10分でした。すると留守番電話が入っていました。グループホームの妹の担当者の方からでした。そこには折り返しでその方に電話をするようにというメッセージが入っていました。ただ,僕の家の電話機には番号の通知機能がありません。担当の方の電話番号が分かりませんでしたので,グループホームに電話を入れました。電話を受けたのはグループホームの責任者,一昨年に契約 をしたときの先方の代表者の方でした。
要件は翌日の迎えのことでした。この日,グループホームからインフルエンザの罹患者が出ました。インフルエンザの罹患者は出勤することができません。つまりグループホームから通所施設へと通うことはできません。ですがインフルエンザの罹患者だけをグループホームに待機させるということもできませんので,この日からグループホームの利用者はユニット全体でグループホームに待機することになったのです。インフルエンザの出勤停止は数日間ですので,当然ながら翌日もグループホームに待機です。よって僕は送迎 は通所施設の方へ行っていたのですが,明日は妹も通所施設には行かないので,迎えはグループホームに来てほしいというのがその内容でした。通所施設であれグループホームであれ,上大岡でバスを乗り換える点は同じです。時間はグループホームの方が掛かりますが,通所施設への迎えの時間より少し遅くなる程度ですので,それで了解しました。同時に時間が少し遅くなることについては先方に了解してもらいました。
1月18日,金曜日。前日に電話で話した通り,グループホームに迎えに行きました。月曜にまた送ることになっていましたから,どこへ送ればいいか尋ねたところ,おそらく月曜もグループホームに待機することになると予想されるので,グループホームに送ってほしいとのことでした。それからグループホームへの送迎の場合は常にそうですが,預けてある療育手帳,通称では愛の手帳を借ります。グループホームの最寄りのバス停は京浜急行バスと神奈川中央交通のバスで,僕は市営バスの定期券 しか持っていないからです。
第48回戸塚記念 。
グラビテーションは加速が鈍くやや遅れを取りました。前にいく構えをみせたのはマイコート,ヒカリオーソ,トーセンボルガの3頭。トーセンボルガがハナを取り切り,1周目の向正面から正面にかけて2馬身くらいのリード。2番手にヒカリオーソで追い上げてきたキャッスルワンダーがこれに並びました。4番手にマイコートとウィンターフェル。6番手がダンサーバローズとコスモマーヴィ。8番手にグリードパルフェでここまでが前の集団。後ろの集団はケンゴッド,グラビテーション,トーセンオリンピア,ジョーパイロライト,グローリアスライブ,レオズハウライトという順に。
向正面の半ばからグリードパルフェが外を進出。ヒカリオーソがこれに合わせ,3コーナー手前でトーセンボルガを抜き,2頭で競り合いながらコーナーへ。グリードパルフェに先に行かれたウィンターフェルが追ってきました。直線に入ってこの3頭からグリードパルフェが脱落。外からウィンターフェルが2番手に上がり,ヒカリオーソを追いましたが,ヒカリオーソが最後まで頑張って優勝。ウィンターフェルが1馬身差の2着。一杯になりましたがグリードパルフェが5馬身差で3着に粘りました。
優勝したヒカリオーソ は東京ダービー 以来の勝利で南関東重賞4勝目。ここはヒカリオーソとウィンターフェルとグリードパルフェの力がほかに対しては明らかに上位で,きわめて順当な結果。ヒカリオーソとウィンターフェルは能力の差はそんなにないと思うのですが,ウィンターフェルは性格的に勝とうとしないところがあり,その分だけヒカリオーソに利があるようです。この2頭は南関東重賞なら古馬相手でも通用するでしょうから,これからもライバルとしてよい関係を続けていってほしいと思います。父はフリオーソ 。母の父はサウスヴィグラス 。祖母の7つ上の半姉に1995年に報知杯4歳牝馬特別を勝ったライデンリーダー 。
騎乗した川崎の山崎誠士騎手は東京ダービー以来の南関東重賞13勝目。第45回 以来3年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している川崎の岩本洋調教師は南関東重賞7勝目。戸塚記念は初勝利。
『主体の論理・概念の倫理 』に関連したすべての探求が終りましたので,今日からはまた日記へと戻ります。僕がこの本を読了したのは今年の1月16日のことでした。
1月17日,木曜日。区役所に行きました。これは母の都市銀行の口座を相続するにあたって必要とされた,母の結婚する前の戸籍を取得するためでした。ゆうちょ銀行の口座を相続したときには不要だったのですが,この都市銀行の預金の相続には必要だったのです。
この手続きで,僕が知らなかったことがいくつか分かりました。母は子どもの頃は上大岡に住んでいて,その後に大和に引越したのです。このことは僕も聞き及んでいました。ところが取得した戸籍によれば,母の出生地は本牧 になっていました。さらに母が結婚したときの居住地は,神奈川区亀住町となっていたのです。このふたつは僕の知らなかった事実でした。
本牧は現在でも僕は行くことがありますから,どのあたりのことかは知っています。一方の亀住町というのはこのときに初めて知った町の名前でした。ですが,おおよその見当はついたのです。これは次のような理由によります。
神奈川区には浦島町という町や浦島丘といった地名があります。僕の父 は一時期,そちらに勤務していたことがあったので,こちらは知っていました。同時に,このあたりにはいわゆる浦島伝説というのがあって,町名の由来がそこにあるということも容易に想像できることでした。そして浦島太郎の物語には亀は欠かすことができない生物です。なので亀住町というのは浦島町の近辺であろうと連想したのです。実際にこの連想は正しく,後に地図で調べたところ,亀住町というのは浦島町と浦島丘のちょうど中間の位置にある町でした。
京浜急行の神奈川新町駅はちょうどこの付近にあります。そしてここには母の親類,どういった親類であるのか定かではありませんが,親類がいて,たぶん僕が小学生の頃だったと思うのですが,1度だけ行ったことがあります。この家の2階から神奈川新町の駅がよく見え,電車が行き来するのを眺めていた記憶が確かに僕にはあるのです。なのでそこが母の戸籍上の居住地と関係していたのだと思います。
鶴巻温泉で指された昨日の第67期王座戦 五番勝負第一局。対戦成績は斎藤慎太郎王座が1勝,永瀬拓矢叡王が1勝。
振駒 で永瀬叡王の先手となり,角換り 相早繰り銀。この将棋は中盤で千日手 となり,斉藤王座の先手で指し直し。
指し直し局は矢倉から後手が速攻。先手が銀を取り,後手はと金を作って桂馬と香車を取るという分かれになりました。
後手が取った香車を打った局面。ただすぐに銀を取ると☗同角があるのでそうは指しにくいところ。なのでのんびり指す手も有力に思えますが,先手は☗7四銀と打って攻めていきました。
後手は☖8二飛。これには☗6三銀成がありそうですが☖8四飛~☖9四飛と活用される手があります。なので☗8五歩とそれを防ぎました。後手は☖7二金で☗6三銀成を阻止。先手はさらに☗8四歩と突き出し☖同飛☗8五銀上☖8二飛☗8四歩と押さえました。後手は☖3一玉でこれは戦線から離れるだけに有効な一手。先手は☗8六角と間接的に玉を睨みました。
これには☖4六香がありそうですが,香車を渡すと☗2七香と打たれて2筋から攻められます。なので☖3三角と上がって手を渡しました。
もう先手は指す手も難しかったようで☗8三歩成 ☖同金☗同銀成☖同飛☗8四歩☖8二飛と8筋を清算しました。
先手は後手の飛車を8~9筋方面で使われることは阻止しましたが,完全に抑え込んだわけではなく,5筋から使う手が後手には残っています。そう考えると先手は攻めてはいったもののそう大きな戦果はあげられなかったといえるでしょう。第1図は先手も急ぐ必要はなかった局面と思われ,どうも先手が局面を悲観しすぎてしまったために慌てて攻めにいき,自滅してしまったという印象です。
永瀬叡王が先勝 。第二局は18日です。
今回の考察に関連して,スピノザの哲学また人生について,確定した出来事として僕がつけ加えるのは以下の2点です。
スピノザは定義Definitioに関して,その理念を変更させています。『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』の定義論がいつ書かれたものであるのかを特定することは困難ですが,このときにはスピノザは,定義からは定義されたもののすべての特質proprietasが必然的にnecessario流出するようなものでなければならないと考えていました。いい換えればそれは,定義は定義されるものの本性essentiaを説明するものでなければならないと考えていたのと同じことだと僕は解します。しかし1663年に書簡九 で定義論を展開しているときのスピノザは,それ自身が吟味するために立てられる定義もよい定義であるということを認めています。いい換えればこれは,その本性が説明されるのならば,定義されるものがどのような記号で表示されても構わない場合があるということを認めていることだと僕は解します。これは明らかに定義の理念の変更だといっていいでしょう。
スピノザは『ポール・ロワイヤル論理学 Logique de Port-Royal 』とフランス語の辞書を所有していました。なので通読したかどうかは別に,それを読んだことは間違いありません。もう少しいえば,ただ読んだのではなく,読んで理解しただろうと僕は解します。通読していないと仮定した場合に,どの部分を読んでどの部分を読まなかったのかを確定することはできませんが,ラテン語とフランス語には類似性があることは確からしいので,辞書がなくても,スピノザ自身に関心のあることが書いてあるか否か程度のことは分かったのではないかと僕は推測します。よって,関心がある部分に関しては読んだと推測するのが妥当です。なのでそこで展開されているのであろう定義論については,スピノザは読んだのだと僕は解します。
このふたつの間に関連性があるか否かということについては僕は判断を保留します。ただパスカルBlaise Pascalの影響の有無とは関係なく,『知性改善論』の定義論がデカルト René Descartes的なものであるとした場合には,よりパスカルよりにシフトした理念になったということはできると思います。
『主体の論理・概念の倫理 』関連の考察はこれで終了です。
大木金太郎 は全日本で仕事をしたときは馬場の対戦相手でした。その頃,大木とタッグを結成することが多かったのはタイガー・戸口です。戸口は日本プロレスに入門したのですが,デビュー戦は韓国でした。日本プロレスが崩壊した後はアメリカで仕事をしました。この仕事を斡旋してくれたのは大木だったようです。渡米中に韓国人キャラクターとしてキム・ドクを名乗り,全日本には逆上陸という形で1976年から参戦。このため,韓国人であった大木のパートナーとしては最適であったといえます。インターナショナルタッグの王者にも就きました。
1979年には全日本プロレスに入団しました。これを機にタイガー・戸口に改名。大木と組んでいた頃は馬場やジャンボ・鶴田 とは戦っていたわけですが,これ以降はタッグも結成するようになりました。ただこの頃は馬場が健在で,鶴田が馬場のパートナーという役割でしたので,力量的にはこの頃の鶴田とは遜色なかったのですが,あまり恵まれませんでした。
1982年に全日本を離脱し,新日本で仕事をするようになりました。僕のプロレスキャリア が始まったとき,戸口は新日本に出場していました。不沈艦 が全日本に移籍する直前,新日本のタッグリーグ戦に狂犬 と組んで出場していたのですが,このリーグ戦には戸口も参加していたように記憶しています。なので僕にとっては戸口は,どちらかといえば新日本のレスラーです。
戸口が全日本を退社したのはおそらく待遇面での不満があったからだと思われます。ただ新日本では全日本のときほどの大きな役割を与えられることはありませんでした。なので実は僕は戸口にはレスラーとしての強い印象がほとんど残っていません。体格的には恵まれていましたから,日本で大成するためにはたぶん全日本に残っていた方がよかったでしょう。もし残っていたとしたら鶴田はもちろん,後に鶴田のパートナーになった天龍源一郎 のレスラー人生もだいぶ違ったものとなっていた筈です。
『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』で定義論を展開していたときのスピノザは,書簡九 で展開している定義論については頭になかったと僕は考えます。それが書簡九では,それ自身が吟味されるために立てられる定義Definitioという,それ以前にはなったと思われる事柄に言及しているので,確かに定義の理念の変更はあったと僕は判断します。
スピノザが『ポール・ロワイヤル論理学 Logique de Port-Royal 』を読むことができる環境にあったことは間違いありません。ですからスピノザがそれによって理念を変更した可能性は僕は排除しません。上野はおそらく,『ポール・ロワイヤル論理学』の定義論と書簡九の定義論を比較し,理念の変更はパスカルBlaise Pascalからの影響であるといっていると僕は推測します。ですが僕はそのような比較はできませんから,それをこの時期のスピノザの人生に関する記述の方から考察しました。
1660年には『エチカ』は書き始められていたかもしれないし,少なくとも『エチカ』を書く企てはスピノザの中に存在していました。そのときすでにスピノザが定義の理念を変更していたとしてもおかしくはありません。この場合,これは『ポール・ロワイヤル論理学』が発刊される前に理念が変更されていたということになりますから,理念の変更はパスカルからの影響ではなかったということになります。それはスピノザ自身が新たに発見したことだったかもしれませんし,あるいはほかからの影響があったのかもしれません。
1661年にオルデンブルク Heinrich Ordenburgがわざわざレインスブルフ Rijnsburgまでスピノザを訪問したのは,知の情報収集屋としてのオルデンブルクにとって,スピノザは会うべき価値がある人間だったからです。あるいはオルデンブルクはそう思ったからです。そしてこのときにふたりは,神Deusについてあるいは属性attributumについて,そしてデカルト René Descartesやベーコンの哲学について語り合っています。そういうことをオルデンブルクと語り合える能力をすでに有していたスピノザが,この時点で定義の理念を変更していたとしても,やはり不自然ではありません。そしてこの場合にも理念の変更は,パスカルからの影響ではなかったことになります。
したがって僕が確定的にいえるのはふたつのことだけです。
富山記念の決勝 。並びは吉沢‐杉森‐武田の茨城と松浦‐小倉の中国四国で渡辺と田中と浅井と中本が単騎。
武田と松浦がスタートを取りにいき,内の武田が誘導の後ろを確保して吉沢の前受け。4番手に松浦,6番手に浅井,7番手に渡辺,8番手に田中,最後尾に中本で周回。残り3周のホームの入口から田中が上昇。続いた中本とふたりでホームの出口で吉沢を抑えました。すぐに外から松浦が上昇。バックでは吉沢の外を併走。残り2周のホームに入って田中を叩いて前に。ここから吉沢が反撃。松浦は番手の杉森に絡む動きでしたがこれは杉森が阻止。しかし3番手の武田は小倉と松浦のふたりに絡まれて続けず,杉森の後ろに松浦‐小倉となり,小倉の後ろが田中となって打鐘からホームへ。ホームから反撃していったのは渡辺。しかしバックから杉森が番手捲りを敢行し,さらに杉森マークになっていた松浦も発進したのでその上からいくことはできずに最終コーナーで一杯。杉森の外を捲った松浦が優勝。マークの小倉が4分の3車身差の2着に続いて中国四国のワンツー。このラインに続いた田中が4分の3車輪差の3着に流れ込みました。
優勝した広島の松浦悠士選手は6月の取手記念 以来の優勝で記念競輪3勝目。富山記念は初優勝。自力選手の中で現状の力量は最上位と思えた上にラインも形成されましたので,優勝候補の筆頭とは考えていましたが,単騎の選手の出方次第では後方に置かれてしまうということもあり得そうなので,全幅の信頼を置くことはできませんでした。自ら早めに動いていい位置を確保しにいった積極性が勝因といっていいでしょう。このようなライン構成では後方から一発狙いの捲りというのは難しく,単騎の選手たちは逆に消極的過ぎたといえるのではないでしょうか。
フランス語とラテン語の類似ということで上野が何をいわんとしているのかということは,ふたつの言語に詳しくない僕には意味を推し量りかねます。ただ,鼎談の中のこの部分で上野と近藤に対して質問側になっている米虫は,この上野の解答に対して,ラテン語ができればフランス語は類推することができるということを認めているので,上野がいっていることには理があるものと解しておきます。ただ,一方でスピノザが英語はできなかったということは事実なのですから,この部分を合理的に解釈するためには,ラテン語と英語の類似性よりもラテン語とフランス語の類似性の方が高くなければならないように僕には思えます。この点についても僕は結論を出すことはできませんが,少なくともこのことは条件になってくるのではないかと思います。
それを通読できるような能力がスピノザにあったのかどうかということは,僕にとっては不確かなことですが,『ポール・ロワイヤル論理学 Logique de Port-Royal 』とフランス語の辞書がスピノザの蔵書として残っていて,かつフランス語とラテン語との間には一定の類似性があるということは確からしく思われますから,スピノザが『ポール・ロワイヤル論理学』を読むことができる環境にあったのは間違いなく,そうであるならそれを読んだと推測するべきではあるでしょう。ですからそこで論じられているパスカルBlaise Pascalの定義論を読むことによって,定義Definitioの理念が変更されたという可能性は,否定することはできません。ただしこれは否定することができないということなのであって,実際にそうであったかどうかは僕には不明であるとしておきます。
注意してほしいのは,すでに述べたように,僕はスピノザが定義の理念を変更したということに関しては肯定しているということです。書簡九 でいわれている,それ自身が吟味されるために立てられる定義というのは,『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』の定義論の時点ではスピノザの眼中に置かれてなく,もっぱらそれ自身の本性essentiaを説明するための定義,他面からいえばその定義により定義されたもの自身から流出する特質 proprietasのすべてを十全に認識するcognoscereことができる定義についてだけ説明されていると思えるからです。