スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

羨望&保護者会

2019-09-21 18:56:19 | 哲学
 怜子④で挙げた3つの心情について,僕が哲学的に厳密な意味でこれを使用する場合,嫉妬とねたみinvidiaは同じ意味で第三部諸感情の定義二三に倣い,やきもちzelotypiaについては岩波文庫版では嫉妬と訳されていますが僕はその訳は用いずに第三部定理三五備考で説明されている心情の動揺animi fluctuatioとして使います。残るひとつの羨みあるいは羨望については『エチカ』の中では適切な説明が与えられていません。そこでこれについては僕自身がここで定義しておきます。羨望といおうと羨みといおうと,同じ意味であると解してください。
                                   
 僕は羨望あるいは羨みを,基本感情affectus primariiでいえば欲望cupiditasの一種と解します。僕たちが他人の喜びlaetitiaを表象したとき,その喜びを自身が手に入れていないがためにその喜びを手に入れたいと欲望するとき,僕はその人間が羨みあるいは羨望を感じているといいます。いい換えればこれは,他者の喜びを原因causaの観念ideaとして伴った欲望です。ただし前述の説明から容易に理解できるように,僕たちは自身が入手している他者の喜びを表象したとしても羨望は感じません。ですからより正確に定義づければ,自分が感じていない他者の喜びの観念を原因として伴った欲望であるということになるでしょう。ここから僕たちは羨望ないしは羨みを感じる場合には,必ず他者に対してそれを感じるということになりますが,このことは僕たちが一般的に羨みや羨望をイメージする場合と齟齬はないと思います。
 第四部定理八は,善悪は意識される限りにおける喜びないしは悲しみtristitiaだといっています。このことから羨みあるいは羨望の定義Definitioをいい換えることもできます。すなわち,自分が得ていない他者の善bonumの観念を原因として伴った欲望が羨望ないしは羨みであるということもできます。第三部定理五九は,能動的な欲望があることを認めます。そして僕は能動的な羨望あるいは羨みがあることを肯定します。このこととの関係からは,こちらの定義の方がよりいいかもしれません。

 これら3点のうち,秋の祭りとクリスマス会に関してはまだその時期になっていませんから,現時点では何も書くことはありません。保護者会については少し説明しておきます。
 この説明会は,グループホームの利用者に対しての説明会です。新施設とはいってもそれは僕たちにとっての新施設なのであり,新たに組織される施設ではありません。ですから4月以前の利用者,つまり自宅からの通所でこの施設を利用していた利用者は,それ以前にこの施設との契約をしています。グループホームの利用者は新たに利用を開始することになったので,新たな契約が必要となり,このような説明会が催されることになったのです。
 ですから,グループホームの保護者会というのは従来からあったのです。僕はその保護者会には参加したことはありませんでしたが,会合は開かれていて,事後にどのような内容が議題に上り,どういった結論が出されたかといった報告は受けていました。一方で新施設にもそれまでの利用者の保護者による保護者会というものがありました。このときに挨拶をしたのは,その保護者会の会長だったわけです。そして4月からこの新施設を利用するグループホームの利用者の保護者は,こちらの保護者会には加わらないということになりました。なりましたというとこのときに話し合いがされてそうなったかのようですが,加わらないということは事前に決定されていました。このときの会長の挨拶の内容の中心も,その点にあったのです。
 これは別に排除の論理のようなものが働いたというわけではありません。保護者会というのは活動のために資金を必要とします。それを保護者会費という名目で徴収します。これは自然なことでしょう。ところがグループホームの利用者の保護者が,通所施設の保護者会に会費を支払うということは,法的に問題を生じさせるようなのです。僕は法律には詳しくないので正確なところは分からないのですが,こうした行為が寄付に該当し,それは制度の上で許されていないというのが,このときの説明によって僕が理解した内容でした。ですので僕は新施設の保護者会費は支払っていませんし,保護者会にも入会していません。
コメント
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