スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感②&質疑応答

2019-09-20 18:57:11 | NOAH
 天龍の雑感①の続きです。
 ジャンボ・鶴田のボディスラムにうまく受け身が取れなかったときに開催されていたシリーズの最終戦で,天龍はリング上からファンに向けて挨拶をしました。この日のメーンは馬場と鶴田のインタータッグに大木金太郎タイガー・戸口が挑戦した試合で,タイトルが馬場組から大木組に移動しました。鶴田はこの試合後に負けちゃったと天龍に抱きついてきたそうですが,試合中に出血して血みどろでした。天龍は挨拶のために大島紬の高級な着物を着用していたそうで,それに血をつけられてしまい腹が立ったと言っています。
 シリーズの終了後に馬場らと共にハワイ経由で渡米。ただ12月に妹の結婚式があったために一時帰国しました。この最中,12月9日にリング上で断髪式を行っています。天龍クラスの関取であれば土俵上で断髪式を行える筈ですが,相撲協会主催ではなく全日本プロレスの主催となったのは,天龍の希望によるものであったのか,あるいは相撲協会と悶着があったためなのかは分かりません。ただリング上とはいえ,場所は蔵前国技館ですから,全日本プロレスと相撲協会との間には,このときには決定的な亀裂は入っていなかったことになります。後に全日本プロレスは両国国技館を会場として借りられなくなるという事態に陥りますが,それはもっとずっと後のことです。もっともこのために全日本プロレスは都内の大会場での開催を日本武道館に絞るようになり,最良の時代は武道館大会なしには考えられませんでしたので,国技館を借りられなくなったことがマイナスになってしまったわけではありません。
 天龍は1976年が暮れないうちに再び渡米しました。そして翌1977年の3月に馬場と鶴田が渡米。3月18日のアトランタでの試合で,鶴田と天龍は初めてのタッグを結成しました。つまり後に鶴龍コンビといわれるようになるチームの初試合はアメリカだったことになります。ただ天龍はこの試合のことはあまり覚えていないそうです。

 TさんとNさんによる説明はここまでで,この後に参加した保護者との間での質疑応答がありました。僕もひとつだけ質問をしました。これは出勤する時間に関するものです。
 新施設は出勤時間が午前9時半になっていました。僕はこれまでは出勤時間を10時に設定し,実際にはそれより少し遅い時刻に妹を送っていたのです。4月以降は9時半に間に合うように送らなければならないのかということが僕の質問の主旨でした。答えてくれたのはTさんで,なるべくそのようにしてほしいとのことでした。なるべくということのニュアンスが僕には十分には伝わらなかったのですが,これについては後にグループホームの職員に質問して,解決しています。
 最後に,新施設の保護者会の会長の挨拶がありました。
 すでに説明したように,この施設はこれまで定員が50人で,実際には45人が利用していました。いうまでもなくこの45人は自宅からの通所です。つまり毎日,自宅からこの施設に通い,作業が終了すれば自宅に帰っていたのです。妹もグループホームに入所する前は,こことは別の施設ですが,これと同じように出勤しまた帰宅していました。妹の場合,朝は送っていたのですが,帰りはひとりで帰っていたわけです。45人の利用者がどのようにしていたのかは定かではありませんが,基本的には通所施設の利用者というのはこのような能力がある人が多いのです。
 これに対してグループホームの利用者は,平均的な比較でいうとより多くの介助を必要とする人が多いというのが事実です。これは他面からいえば,障害の度合がそれだけ重い人が多いという意味です。ですからそういう利用者を新たに受け入れるということについては,おそらく賛否があったものと思われます。挨拶の中でそのようなことに触れられたわけではありませんが,これまでこの施設を利用していた利用者の保護者の中には,おそらく今回の決定について苦々しく感じている方も存在していただろうと思われます。
 会長は3点の話をしました。新施設の保護者会についての確認事項,秋の祭りでのバザーやボランティアの件について,そしてクリスマス会に関連した事柄でした。
コメント
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