スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

除去後と除去前&パスカルの影響

2019-08-26 18:56:53 | 哲学
 第三部諸感情の定義一四の安堵securitasと第三部諸感情の定義一五の絶望desperatioを,僕が希望spesと不安metusからの派生感情であるとみなす理由はふたつあります。順に説明していきましょう。
                                   
 各々の感情affectusの定義Definitioは,疑いの原因causaが除去されたものの観念ideaが存在すれば,ほかに感情が存在しなくても発生し得ると読解することができます。ただしこれには条件があります。というのは,第三部諸感情の定義一二と第三部諸感情の定義一三から分かるように,もし疑っているものの観念,すなわち疑いの原因が除去される以前の観念が存在していたときに,そこから不確かな喜びlaetitiaが生じているならそれは希望ですし,逆に不確かな悲しみtristitiaが生じているならそれは不安だからです。つまり,疑いの原因が除去された観念は,当然ながら疑いが除去される以前にも同じ人間の精神mens humanaのうちにあったとみなされなければならないのですが,そうした観念から喜びないしは悲しみが生じていた場合には,安堵も絶望も希望および不安からの派生感情であるといわれなければならないのです。したがって,もしも安堵および絶望が,一般的に不安および希望からの派生感情ではないと主張するのであれば,安堵ないしは絶望が発生する場合の疑いの原因が除去された観念が,それ以前に疑いが除去されていない状態でその人間の精神のうちにあったときに,その観念からは喜びも悲しみも発生しないといわなければなりません。より正確にいうと,僕は一般的に安堵と絶望が希望および不安からの派生感情であるといっているのですから,少なくともそうした観念から喜びも悲しみも発生しない場合があるといわなければならないのです。
 僕の考えでは,そうしたことはあり得ないのです。いい換えれば安堵ないしは絶望を発生させる疑いの原因が除去されたものの観念は,疑いが除去されていない状況のときには必然的にnecessario喜びと悲しみすなわち希望と不安を発生させるのです。これは背理法的な証明の一種になりますが,なぜそうなるのかはまた詳しく説明します。

 任意の定義Definitioが含まれてもよいということ,いい換えれば唯名論的な定義が公理系の中に含まれてもよいということが,スピノザがパスカルBlaise Pascalから受けた影響の最大のものであったように思われます。というのは,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の中で創造される事物と創造されない事物に分類して定義論を展開したときのスピノザは,それが創造される事物であれ創造されない事物であれ,定義は定義される事物の本性essentiaを説明するのに役立つものであって,定義されることによってそれ自身が吟味の対象となるというようには考えていなかったふしがあるからです。このゆえに僕は,上野がいっているように,確かにスピノザは定義の理念を変更したのだと考えるのです。それはいってみれば,デカルトRené Descartesからパスカルへの移行ということができるのではないかと思います。
 ただ,パスカルからの影響といっても,これは直接的なものではありません。スピノザは後に『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を出版したことからも分かるように,デカルトの著作は読んでいました。これに対してパスカルの著作を読んでいたという証拠はないようです。ただ,パスカルの定議論に準じた著作は読んでいて,そこから影響を受けたのだというように上野と近藤は発言しています。僕はここではこのことを,スピノザの人生に中の出来事と関連させて説明します。
 書簡九は1663年3月にレインスブルフRijnsburgから出されました。つまりこのときはスピノザはレインスブルフに住んでいました。現行の『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡一は,オルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもので,これは1661年8月付です。この書簡の冒頭でオルデンブルクは,レインスブルフにスピノザを訪問したと書いています。
 オルデンブルクというのはこの時点ではイギリスの情報収集屋のような役割を担っていました。その関係でオランダを訪問したのですが,わざわざレインスブルフまで足を運んだのはスピノザと面会するためです。つまり1661年の時点でスピノザはレインスブルフに住んでいたということが分かると同時に,すでにその時点でスピノザは,オルデンブルクが面会したいと思うほどの人物だったことになります。
コメント
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