スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

赤ん坊の頭&Tさん

2019-09-14 18:56:58 | 歌・小説
 『悪霊』のキリーロフに対する僕の印象は,第二部第一章の5節で決定づけられています。この章の大部分はスタヴローギンとキリーロフの会話によって成り立っています。その会話のいくつかの部分については,『謎とき『悪霊』』で触れられています。その読解は僕が印象として抱くための読解より深みがありますから,それについても説明しておきましょう。
                                        
 キリーロフはスタヴローギンに対して,自分が幸福であることを知るようになった言い,すべてが素晴らしいのだと続けます。そしてその例示のようなものとして,赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す人がいたとしても素晴らしいのだと言うのです。ここではキリーロフは,人間が不幸であるのは自分が幸福であることを知らない限りにおいてであるということを説明しようとしています。この例示は大変に大胆なものではありますが,僕にとってはキリーロフがスタヴローギンに伝えようとしていることを大袈裟に示すための発言であるように思えました。
 『謎とき『悪霊』』ではこれがキリーロフの終末的な世界観であるといわれています。この点は実は僕の解釈とそう変わりはありません。大胆とか大袈裟というのを終末的といい換えているにすぎないからです。ですがここではこの会話がスタヴローギンとの関係をはみ出し,フェージカとの関係として説明されています。フェージカは後にスタヴローギンの使嗾によってスタヴローギンの妻であるマリヤを殺すことになるのですが,このフェージカはスタヴローギンと出会う以前,脱獄囚として身を隠すためにキリーロフの世話になっていました。この世話になっている期間に,フェージカはキリーロフから多大な影響を受けた,ある意味では洗脳されたというように亀山は考えていて,そのキリーロフの世界観を代表するようなことばとして,赤ん坊の頭の例を挙げているのです。
 フェージカとキリーロフの間に深い関係が,一方的にではなく互いに影響を与え合う関係性があったのは,物語の中の事実としていいでしょう。そしてこの関係性がなければ,フェージカのマリヤ殺しはなかったのかもしれません。
 
 3月14日,木曜日。回向があり,午前11時に導師が来訪しました。午後9時過ぎにピアノの先生から電話がありました。これは日曜のピアノの件でした。
 3月15日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
 昨年の11月に三者面談をしたとき,通所施設が変更される可能性があるという話を聞いていました。この変更が決定事項となったため,新たな契約が必要でした。そのための説明会と契約がこの日と25日の2回あるので,保護者はどちらかに参加するように要請されていました。ちょうどこの日は迎えの日で,説明会自体も通所施設で行われることになっていましたので,僕はこの日に参加しました。迎えは午後3時ですが,説明会は午後1時半から2時半となっていました。2時半までに行けばいいのか1時半に行かなければならないのか僕には不明でしたので,12日の午前に通所施設に電話で確認したところ,1時半に来てほしいとのことでしたから,それに間に合うように出掛けました。このとき,印鑑と筆記用具のほかに受給者証が必要とのことでした。受給者証はグループホームに預けてありますので,事前に妹に持たせるように11日の夜にグループホームに電話で伝えてありました。
 この日の参加者は7人でした。グループホームは男女が別々ですが,前にもいったように妹が入所しているところは建物は同じで1階が男,2階が女となっています。なのでこの説明会は男女混合です。利用者,つまり僕の場合でいえば妹も同席しました。説明を主に担当したのは新しい通所施設の支援課長のNさんで,もうひとり,施設長のTさんも出席しました。僕はNさんと会ったのはこのときが初めてでしたが,Tさんというのは,小脳出血で倒れたとき,妹が通っていた施設の施設長をされていた方で,妹の支援を決定するために面談をしたことがありました。つまり僕にとっては前々から知っている方でした。その後ここに転任していたのです。ですから妹がここに通うようになってからは何度もことばを交わしていました。Tさんは終業時刻には門の前で利用者を見送ることが多かったので,迎えに行ったときは会うことが多かったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする