函館記念の決勝。並びは新山‐守沢‐斉藤の北日本,諸橋‐稲村の上越,渡辺‐小埜‐内藤の南関東で南は単騎。
新山が前受け。4番手に南,5番手に諸橋,7番手に渡辺で周回。残り2周のホームで上昇してきた渡辺が新山を叩いたところで誘導が退避。切り替えた諸橋が4番手,やはり切り替えた南が6番手,引いた新山が7番手で,わりと長めの一列棒状となってバックから打鐘。ホームに入って単騎の南が発進。バックで諸橋が切り替え,コーナーの手前で南が前に迫ると渡辺の番手から小埜も発進。後方にいた新山はこれらの外から捲り,最終コーナーの途中で前をすべて捲り切って先頭。2番手が内から小埜,南,諸橋,新山マークの守沢の4人で併走に。捲り切った新山はそのまま後ろを離して優勝。諸橋に執拗に絡まれる形になった守沢ですが,持ち応えて直線は外から伸び,5車身差の2着に続いて北日本のワンツー。3着は南と,直線で小埜と南の間に進路を取った諸橋マークの稲村,小野の後ろから大外に回った内藤の3人で接戦。写真判定の結果,4分の3車身差の3着は南。内藤が微差の4着で稲村は8分の1車輪差の5着。
優勝した青森の新山響平選手は3月の別府のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2016年の函館記念以来となる2勝目。この開催は有力選手の敗退もあり,決勝メンバーをみた限りでは新山と渡辺が優勝候補で,そこに南や諸橋がどこまで絡めるかというレースになるのではないかと思いました。新山が前を取ったのは,最初から引いて捲る競走をするつもりがあったからだと思います。そう考えれば渡辺は前に出た後,もう少し流してしまってもよかったのではないでしょうか。あまりペースを緩めずにそのまま駆けたために渡辺が苦しくなり,後方の新山に向く展開になったように思います。南は単騎ながらいいレースをしたのではないでしょうか。
さらにもう一点,以下のような事情があり,これが僕が同一の事物に形相的側面と客観的側面があるという解釈を推奨する最大の理由になります。
この考察で具体的な質問として示した,スピノザの哲学において「我」というのは形相的にformaliter存在するといえるのかという類の疑問は,唯物論的思考に慣れた人から発せられやすいものだといえます。この質問は客観的有esse objectivumすなわち観念ideaが「我」として存在するということは暗黙の前提とした上で,それが形相的にもすなわち物体corpusとしても存在しているといえるのかということを問おうとしているといえるからです。
ところが,もしどんな事物にも形相的側面と客観的側面があるという解釈を採用すると,この質問に対する答えは,それは事物の客観的側面だけに注目するから出てくる疑問なのであり,その形相的側面に注目するなら自ずから答えは明らかであるというようなものになります。つまり,事物の客観的側面ばかりに捉われている,いい換えれば認識論的な思考に偏っているからそのような疑問が発生するのであって,形相的側面にも着目する,すなわち唯物論的思考も取り入れればそのような疑問が生じてくる余地はないと答えることになるのです。
実際のところ,どんな事物にも形相的側面と客観的側面があるというように解釈してしまえば,何であれXが形相的に存在するかという質問自体が無効になります。これだけでもこういう解釈を採用することには大きな意味があるといえるでしょう。すでにみたように,この解釈は平行論の理解に対しては何の問題も齎さないからです。しかしそればかりではなく,本来であれば唯物論的な思考に慣れている立場から発せられそうな問いが,実は認識論的な立場に立っているがゆえに発せられてしまうような問いへと移行するのです。ここに大きな意味があります。なので僕は,スピノザの哲学において「我」は,厳密にいうなら「我」に限ったわけではなく何でもいいのですが,それが観念としてではなく形相的にも存在するといえるのかという類の疑問を感じる人には,形相的側面と客観的側面は同じ事物の異なった側面あるいは観点であるという解釈を推奨するのです。
新山が前受け。4番手に南,5番手に諸橋,7番手に渡辺で周回。残り2周のホームで上昇してきた渡辺が新山を叩いたところで誘導が退避。切り替えた諸橋が4番手,やはり切り替えた南が6番手,引いた新山が7番手で,わりと長めの一列棒状となってバックから打鐘。ホームに入って単騎の南が発進。バックで諸橋が切り替え,コーナーの手前で南が前に迫ると渡辺の番手から小埜も発進。後方にいた新山はこれらの外から捲り,最終コーナーの途中で前をすべて捲り切って先頭。2番手が内から小埜,南,諸橋,新山マークの守沢の4人で併走に。捲り切った新山はそのまま後ろを離して優勝。諸橋に執拗に絡まれる形になった守沢ですが,持ち応えて直線は外から伸び,5車身差の2着に続いて北日本のワンツー。3着は南と,直線で小埜と南の間に進路を取った諸橋マークの稲村,小野の後ろから大外に回った内藤の3人で接戦。写真判定の結果,4分の3車身差の3着は南。内藤が微差の4着で稲村は8分の1車輪差の5着。
優勝した青森の新山響平選手は3月の別府のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2016年の函館記念以来となる2勝目。この開催は有力選手の敗退もあり,決勝メンバーをみた限りでは新山と渡辺が優勝候補で,そこに南や諸橋がどこまで絡めるかというレースになるのではないかと思いました。新山が前を取ったのは,最初から引いて捲る競走をするつもりがあったからだと思います。そう考えれば渡辺は前に出た後,もう少し流してしまってもよかったのではないでしょうか。あまりペースを緩めずにそのまま駆けたために渡辺が苦しくなり,後方の新山に向く展開になったように思います。南は単騎ながらいいレースをしたのではないでしょうか。
さらにもう一点,以下のような事情があり,これが僕が同一の事物に形相的側面と客観的側面があるという解釈を推奨する最大の理由になります。
この考察で具体的な質問として示した,スピノザの哲学において「我」というのは形相的にformaliter存在するといえるのかという類の疑問は,唯物論的思考に慣れた人から発せられやすいものだといえます。この質問は客観的有esse objectivumすなわち観念ideaが「我」として存在するということは暗黙の前提とした上で,それが形相的にもすなわち物体corpusとしても存在しているといえるのかということを問おうとしているといえるからです。
ところが,もしどんな事物にも形相的側面と客観的側面があるという解釈を採用すると,この質問に対する答えは,それは事物の客観的側面だけに注目するから出てくる疑問なのであり,その形相的側面に注目するなら自ずから答えは明らかであるというようなものになります。つまり,事物の客観的側面ばかりに捉われている,いい換えれば認識論的な思考に偏っているからそのような疑問が発生するのであって,形相的側面にも着目する,すなわち唯物論的思考も取り入れればそのような疑問が生じてくる余地はないと答えることになるのです。
実際のところ,どんな事物にも形相的側面と客観的側面があるというように解釈してしまえば,何であれXが形相的に存在するかという質問自体が無効になります。これだけでもこういう解釈を採用することには大きな意味があるといえるでしょう。すでにみたように,この解釈は平行論の理解に対しては何の問題も齎さないからです。しかしそればかりではなく,本来であれば唯物論的な思考に慣れている立場から発せられそうな問いが,実は認識論的な立場に立っているがゆえに発せられてしまうような問いへと移行するのです。ここに大きな意味があります。なので僕は,スピノザの哲学において「我」は,厳密にいうなら「我」に限ったわけではなく何でもいいのですが,それが観念としてではなく形相的にも存在するといえるのかという類の疑問を感じる人には,形相的側面と客観的側面は同じ事物の異なった側面あるいは観点であるという解釈を推奨するのです。