Sunday Song Book #1381

2019年03月31日 | Sunday Song Book

2019年03月31日プレイリスト
「内田正人さん追悼 ザ・キング・トーンズ特集 Part 1」
1. 明日の私 / 竹内まりや '94
2. 小さい悪魔 / 藤木孝 '61
3. 彼氏の気持ちはワークワク / 田代みどり '62
4. グッド・ナイト・ベイビー / ザ・キング・トーンズ '68
5. 捨てられた仔犬のように / ザ・キング・トーンズ '68
6. オンリー・ユー / ザ・キング・トーンズ "愛のノクターン" '69
6. 煙が目にしみる / ザ・キング・トーンズ "愛のノクターン" '69
8. 愛のノクターン / ザ・キング・トーンズ '69
9. 暗い港のブルース / ザ・キング・トーンズ '71
10. いつも夢中 / 大瀧詠一 "ナイアガラ・ムーン" '75
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■内容の一部を抜粋
・近況
明日から新年度、平成も後一月で終わる区切りの季節。達郎さんはそれとは全く関係なくて曲書き。なので番組は前倒しで収録しているそうだ。6月頃からツアーがはじまるのでそれまでにオーダーされた曲を仕上げなければならないので大変だとか。

・内田正人さん追悼 ザ・キング・トーンズ特集 Part 1
キング・トーンズの内田正人さんが亡くなったので追悼を兼ねてキング・トーンズの特集。特集するのが遅すぎて20年前にやっておくべきだった特集だという。ほとんどの関係者が亡くなっているし、とにかく語るべきことが多すぎるとのこと。歌謡曲ではない洋楽志向で、それゆえサブカルチャーの立場を余儀なくされるというスタイルで、そのことを語りつつ特集しないと、キング・トーンズの本当の意味での位置がわからないそうだ。一般メディアで言われてるドゥー・ワップ、「グッドナイト・ベイビー」では語れない、ひじょうに深いものがあるとか。今週、来週、年度を超えて二週間、「内田正人さん追悼 ザ・キング・トーンズ特集 」。

・明日の私
年度代わりなので毎年かけている「明日の私」。竹内まりやさんの1994年のシングル。

キング・トーンズのリード・ヴォーカリスト、内田正人さんが亡くなった。1936年生まれだからロイ・オービソンと同じ年。30歳過ぎた遅いレコード・デビューの人。もともと1958年にプラターズに憧れて5人組のグループを結成する。当初は女性を含めた5人組でファイブ・トーンズと名乗っていた。その後、女性が抜けて4人組になりキング・トーンズという名前になった。'60年代は主に米軍キャンプを回って活動していた。米軍キャンプ回りではプラターズ・スタイルだったので、どちらかというとR&Bよりのスタイルでやっていた。同時代の歌謡曲スタイルのヴォーカル・グループ、ムード歌謡の人たちはジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴの要素が強かったが、そういうものとは違うR&Bのテイストを身につけたグループとしてだんだん業界で知られるようになった。'60年代はレコーディングにバック・コーラスとしてしばしばクレジットされるようになる。そんな時代の作品から2曲。

・小さい悪魔
・彼氏の気持ちはワークワク
1961年の藤木孝さんのテイチクからのシングル「小さい悪魔」。ニール・セダカの「LITTLE DEVIL」のカヴァー。アレンジは宮川秦(ひろし)さん。その翌年1962年の田代みどりのこれもテイチクからのシングル「彼氏の気持ちはワークワク」。ポール・ピーターセンの「SHE CAN'T FIND HER KEYS」のカヴァー。漣健児さんの訳詞。どちらにもキング・トーンズはバック・コーラスでクレジットされている。

和製ポップスの仕事をしながらキャンプ回りは続けていた。1960年代の国内の音楽は歌謡曲が中心で、ロックンロール以前の洋楽ジャンル、ジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴがまだまだ強い影響力を持っていた。大多数のリスナーも既存の歌謡サウンドにシンパシーを持っていた時代。レコード会社の音楽制作スタッフはもとより、作曲、編曲、演奏者からレコード・エンジニアに至るまで、当時最先端だったロックンロールとかR&Bの知識力は圧倒的に不足していた。そこから生じる技術的不足のために英米と同じ音像をレコーディングに再現するのは相当困難な時代だった。
したがって和製ポップスからグループ・サウンズに至るまで、当時の達郎さんのような中高生の洋楽リスナーの音楽的評価は近似値としての洋楽テイスト、その割合の大小だった。その中で優れた近似値を提示していたのが加山雄三さん、作曲家では宮川秦(ひろし)さん、寺内タケシさんをはじめとするインストゥルメンタル、その後に続く一連のグループ・サウンズのムーブメントとたくさんいる。
そんな中で1969年にキング・トーンズというヴォーカル・グループの曲がじわじわと日本でヒットする。それはそれまで聴いたことのない近似値で、米軍キャンプ回りで吸収したアメリカのテイストが既成の音楽マーケットから隔離された純粋培養の存在としてユニークに作品を生み出したと言える。

・グッド・ナイト・ベイビー
1968年にリリースされたときはそれほどでもなかったがじわじわと売れて1969年にかけてオリコンのチャート2位まで上がった出世作の「グッド・ナイト・ベイビー」。
この曲の誕生まで紆余曲折があったという話。日本グラモフォン、後のポリドール、そしてユニバーサルの元。ここと専属契約したが邦楽のセクションはどこも手を挙げず、結局洋楽のセクションの制作となった。このグループの特質を活かした作詞・作曲をしようとするものが誰も出てこなかった。しようがないので当時洋楽のA&Rだった松村孝司さん、「コーヒー・ルンパ」なんかをヒットさせた人で、この人が「むつ・ひろし」というペン・ネームで書いたのが「グッド・ナイト・ベイビー」。作詞を手がけた大日方俊子さんも制作セクションで「ひろ・まなみ」というペン・ネームで作詞をした。このコンビは後に和田アキ子さんのヒット曲「どしゃぶりの雨の中で」を書くことになる。

・捨てられた仔犬のように
達郎さんは当時、高校一年か二年で、どちらかというと洋楽でもあまりヒット曲に目を向けないマニアックな曲が好きな仲間内では、A面の「グッド・ナイト・ベイビー」よりもB面の「捨てられた仔犬のように」、作詞・作曲、そしてアレンジはキング・トーンズのベース・シンガーの加生スミオさんで、当時の日本のヴォーカル・グループのサウンドでは珍しくR&B的で「このグループ、すごいよ」と言っていたそうだ。

1968年の日本の歌謡スタジオ・シーンではR&Bのトラックを構築するのがほぼ不可能だった。オリジナル・ソングの「捨てられた仔犬のように」のほうが「グッド・ナイト・ベイビー」よりも若干メロディの構造が幾分垢抜けている部分がある。でもブラスのアレンジは一昔前のビッグ・バンドの手法で、例えばメンフィス・ホーンズのように三管でやったらもっと雰囲気が出たはず。でも達郎さんだってそれはずっと後になってそう思っただけで、当時はただ漠然とした疑問符であったという。

内田正人さんのインタビューを読むと当初内田さんはレコード・デビューを嫌がったということを話している。どんなに洋楽的な志向とか発想を持っていても、当時の状況では安易にムード歌謡の方向に持っていかれることを知っていたということ。自分のスタイルは日本で理解されないことを直感していたように感じられる。

その後も自らのプラターズのスタイルに対するある種の頑なさが見え隠れしていて、R&Bの認識が正確だったゆえに時代的に日本の音楽シーンとは折り合いの悪い活動を余儀なくされるんじゃないかということだろう。あるインタビューで「グッド・ナイト・ベイビー」に対するコメントがあり、「あの曲は難しい曲で、"涙こらえて"の部分は演歌でしょ? あれをどうすれば演歌じゃなく歌えるかってんで、そこでファルセットが出てきたんだ」と話している。「そういうメロディに関する感性がすごく敏感な方だったと思います」と達郎さん。

「今日と来週のキング・トーンズの特集でどうしても申し上げなきゃいけないことがありまして。無駄と知りつつ申し上げるんですけれども。キング・トーンズはドゥー・ワップ・グループではありません。彼らの音楽的原点であるプラターズの全盛期の活動というのは厳密にはドゥー・ワップ・グループとして定義されておりませんでした。ただアメリカの文化史も相当アバウトになっちゃったんで、今、みんな一緒くたにされてしまった結果そうなりました。ましてドゥー・ワップはおろかですね、バーバーショップ、オープン・ハーモニー、ジュビリー・スタイル、カルテット・スタイル、そうしたコーラス・スタイルに関する明確な音楽的説明が今や全くなされなくなった(笑)、今の時代の中ですと、キング・トーンズというのは結果的に近似値としてのドゥー・ワップとしてのカテゴライズしか選択の余地がなかったんで、ドゥー・ワップということになります。蛇足ですけれども、鈴木雅之と山下達郎以前には日本のメディアにドゥー・ワップという単語はありませんでした。ドゥー・ワップ自体が'60年代以降の用語で造語でありますのでですね、キング・トーンズのみなさんが自分たちがドゥー・ワップ・スタイルと意識したことは、それは後付であります。これだけは言っとかなくてはなんない。もうひとつですが。今、ウィキペディアとかそういうデータを見てますと、キング・トーンズのグッド・ナイト・ベイビーはアメリカでアトコのレーベルから発売されましてですね、ビルボードのR&Bチャートで48位を獲ったという。これは虚報です。私の知り合いのそうしたチャートのエキスパートに4人確認取りましたけれども、全員が否定しました。R&Bチャートに入っておりませんし、もしくは全米チャートにも入っていません。ただひとつ、キャッシュ・ボックスの1969年の5月に最高114位という、このランキングが記録に残る唯一のものです。上柴とおるさんからうかがいました。でも、それは今はもう本当に検証することになしに拡散するんです(笑)、一般メディアがね。グッド・ナイト・ベイビーはビルボードのR&Bチャートに入ったんだと。それあの嘘ですので。かといって彼らのそれがステータスが傷つくとか全然ありません。実力とは関係ない話なんですけれども、データは正確にやらないと駄目だという、ネット時代の弊害があります。長くなりました」と達郎さん。

・オンリー・ユー
・煙が目にしみる
「グッド・ナイト・ベイビー」のヒットがありファースト・アルバムが1969年に発売されて、セカンド・アルバムがすぐ発売される。セカンド・アルバムにはキング・トーンズのアイドルであるプラターズのナンバーが何曲か入ってるので、こちらのほうが本来のキング・トーンズのスタイルとして重要。セカンド・アルバム『愛のノクターン』から2曲続けて「オンリー・ユー」と「煙が目にしみる」。
曲をかけ終えて。「要するに内田さんは早すぎたんです、少しね、時代が(笑)」と達郎さん。

・JALのハワイ・キャンペーンのCM
達郎さんの新曲がJALのハワイ・キャンペーンのCMに使用されることになった。「LEHUA, MY LOVE」というタイトルでレフアは「オ匕ア・レフア」というハワイの花のこと。悲しい伝説があるそうでそこから取ったそうだ。3月29日からテレビCM、ウェッブなどでオンエア。
http://www.jal.co.jp/inter/route/hawaii/index.html

・PERFORMANCE 2019
今年の全国ホール・ツアーが決定した。6月から10月まで5ヶ月間、26都市50公演。チケット一般発売等詳しくは山下達郎オフィシャル・サイトにて。
https://www.tatsuro.co.jp

・愛のノクターン
キング・トーンズのアルバムにはプラターズのカヴァーの他にも加生スミオさんが書くオリジナル・ナンバーが垢抜けていていい曲が多い。この曲もそんな曲の一曲で1969年にシングル・カットされた「愛のノクターン」。所属していた日本グラモフォン、ポリドールはアトランティックを持っていたのでスタックスのR&Bが出てくる。セカンド・アルバム『愛のノクターン』には「ドック・オブ・ザ・ベイ」が入ってる。

・暗い港のブルース
米軍キャンプ回りで培ったR&Bの認識が正確だったゆえに時代的にムード歌謡全盛だった日本の音楽シーンとは折り合いが悪かった。ムード歌謡はどちらかというとラテンに近いテイストでロックンロールとはまた違っていた。内田さんにはそういうものに対する警戒心があった。でもレコード会社や制作サイドとしてはそっちのほうがヒットが生みやすいのでラテン・テイストの曲を取り上げることになった。1971年のシングル「暗い港のブルース」はオリコンのチャートで19位。「グッド・ナイト・ベイビー」に次ぐヒットになった。もともと1963年に「グッド・ナイト・ベイビー」のアレンジをしている早川博二(ひろつぐ)さん、トランペット奏者でモダン・プレイボーイズという自分のバンドを持っているが、そのバンドのインストゥルメンタルがルーツ。この曲になかにし礼さんが歌詞をつけてフランク赤木さんが日本グラモフォンからシングルを出し、なかにし礼さんが歌詞を全面的に書き直しキング・トーンズでレコーディングした。このヴァージョンは藤圭子さん、ちあきなおみさんなどがカヴァーしている。

内田さんのインタビューを読むとこうしたムード歌謡には行きたくないというはっきりとした意志が感じられる。日本で果たしてR&Bがやれるというのかというある種の諦観もあった。日本ではキング・トーンズというと和製フォー・シーズンズはまだましなほうで、ムード歌謡の変形だと思ってるリスナーがまだ多い。「甲高い声」というあさっての形容詞も見られる。日本のシーンでは自分たちはアウトサイダーだというのがプラターズに対する強い意志を生んだ。そういうところは達郎さんも痛いほど理解できるし、そういう意味では達郎さんと似ているところもあって今回の特集のかたちになった。

1974年に若い作家がキング・トーンズに曲を書いて、それをキャラメル・ママがバックを務めてアルバムを作る企画があった。その企画に賛同して達郎さんと伊藤銀次さんが書いたのが「DOWN TOWN」をはじめとする3曲だが、結果曲を書いたのは達郎さんと銀次さんのふたりだけ。結局企画が流れてしまい、もったいないのでシュガーベイブの曲として「DOWN TOWN」をレコーディングすることになった。

その企画がはじまるときに達郎さんはルイードで行われたキング・トーンズのライヴを観に行った。企画の立案者が当時のトレンドだったスタイリスティックスのような感じの曲を歌ったらどうだろうとサジェスチョンをしたそうだが、それを内田さんは「あまり僕は気が乗らないんだ、こういうの」とステージで話して「YOU'RE EVERYTHING」を歌ったという。それが素晴らしかったと達郎さん。その話を大瀧詠一さんにしたらそれに興味を示して、その後、大瀧さんはキング・トーンズを起用することになった。大瀧さんは男性ヴォーカル・グループを欲していて女声はシンガーズ・スリーに出会い、混声はシュガー・ベイブがいて、純粋に男声コーラスはすべて一時代前のスタイルしかいなかったので、「DOWN TOWN」の逸話を聞いてキング・トーンズに声をかけて、ここでようやく満足いくコーラス・グループに出会え、創作意欲が芽生えて、それが後のキング・トーンズのプロデュースに繋がってゆく。大瀧さんは生前なぜかキング・トーンズの話を達郎さんにもスタッフにもあまり細かくしなかった。

・いつも夢中
大滝詠一さんの1975年のアルバム『ナイアガラ・ムーン』でキング・トーンズに「恋はメレンゲ」のバック・コーラスを依頼。最後に大瀧さんがアカペラでリード・ヴォーカルを取り、キング・トーンズをバッグに歌うという企画が出る。ここからキング・トーンズがより若い聴衆にアピールする可能性が出てくる。続きはまた来週。今週最後はその福生でのレコーディング・セッションで録音した「いつも夢中」。

■リクエスト・お便りの宛て先:
〒102-8080 東京FM
「山下達郎サンデー・ソングブック」係
2019年04月07日は、「内田正人さん追悼 ザ・キング・トーンズ特集 Part 2」
http://www.tatsuro.co.jp
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