今日は熊本史談会で阿田俊彦先生の「儒学、日本への伝来 そしてその変遷」をお聞きした。
過去に何冊かの本を読み、数編の論考を読んだりしているが、「儒学」という大命題はまだまだ私の理解の外にある。
ただ身近な熊本の儒学の歴史を見るとつまるところ政争の具になっているように思える。
司馬遼太郎は「江戸時代のすばらしさは、朱子学一色にぬりつぶされなかったあたりにある」(春灯雑記)と書いているが、「武家は朱子学、庶民は陽明学」とも言われるように多様性が存在はしていたのだろうが、林羅山が徳川家の儒学者となり朱子学を官学となすと、細川家では陽明学徒の勢力の拡大が幕府巡見使(寛文8年肥後入り)により報告されると、幕府からの何らかの圧力があったとみられ、時の藩主・綱利は「陽明学禁止令」をはっして陽明学を異学となして陽明学を信奉する一団を追放した。
寛文9年(1632)の事で、これに反対した叔父(光尚末弟)長岡元知を永蟄居にするなどしている。
そもそも朱子学を官学と定めたのは随分後の事で、大河ドラマ「べらぼう」に田安家を継げずに陸奥白河藩藩主となった松平定信が田沼の跡をうけて老中となり寛政の改革(1787年 - 1793年)の過程で言い出したものである。
それまでの儒学は林家の元にあってもある意味自由であったように思える。寛政2年1790年昌平黌が設立され、官学が林家の元を離れると、松平定信は衰退しかかった朱子学を官学とすることを定めたのである。
熊本藩が陽明学禁止令を発してから半世紀後の事であり、熊本藩はすっかり朱子学一辺倒であった。
それでも、熊本藩が藩校時習館を設立(宝暦5年‐1755)するにあたって、影の尽力者であった片岡朱陵がその開校に当たって皮肉交じりに言った二つの狂句が当時の時習館の気風を物語っているように思える。
・けしつぶの中くりほぎて館立て一間一間に細注を読む
・時習館きうり(窮理)かずらのはびこりて十三經の置きどころなし
朱子学への痛烈な批判である。
また、時習館改革については天保6年(1835)9月19日「河部仙吾宅放火事件」があるが、藩校時習館の改革を望む一派60名が加担したという事件であり、一方筆頭家老松井佐渡(督之)の暗殺未遂事件時もあるとされる。(長岡佐渡暗殺未遂事件・天保年代の一事件 宮本謙吾ー日本談義・昭和29年6月号掲載)
二年前には陽明学の大塩平八郎が大阪で乱を起こしたことなども影響しているのかもしれない。
その後、いわゆる米田監物や横井小楠の実学党による時習館改革ののろしが上がるが、藩主・齊護などの痛烈な反対もあって頓挫していく。蓑田勝彦氏の論考「熊本藩主・細川齊護の実学党排除-実学党は存在したかー」に詳しい。
これらの行動は、とても「朱子学」の教えを逸脱しており陽明学の「知行合一」の教えによるものではなかろうか。
横井小楠は、李退渓の学派「大塚退野」の教えを自らのものとして「実践躬行」の人だと後に語られているが、この言葉も陽明学の根本理念である。
大野退野は当初陽明学を学び、のち朱子学に変じた人であるが、陽明学・朱子学の垣根を越えて「知行合一」「実践躬行」を教えとしたのであろう。
小楠を「朱子学」の人ととらえるのは如何であろうか。
つまるところ小楠は、「尭舜」に到達して、ここに理想を求め新しい時代の夜明けに歩を進めていった。
また、明治天皇の侍講・元田永孚はこの「(大塚)退野の学を伝えて、これを今上(明治天皇)に奉ぜり」と云っている。井上毅と共に教育勅語の編纂に努めた。
細川護貞さまは、昭和10年以降太平洋戦争に至る日本の取り返しのつかない愚行は、その師・狩野君山の言として「みんな宋学(朱子学)のせいだ」という認識を共有されている。
「朱子学というのは、理気の学であり、理論を進めていくと感情が入ってこない。理詰めで人を責める。江戸時代を通じての朱子学を官学とした爲のつけである」(要旨まとめ津々堂)と君山は語っている。
肥後人の直情径行の気質は案外その朱子学の形骸なのかもしれぬ。・・・と私は思っている。皆様はどうお思いであろうか?。