津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠興時代の宮内という人

2023-01-23 06:58:07 | オークション

                              【模写】【1円開始】【伝来】us9401〈細川忠興〉書状 ローマ字印 マクリ 戦国武将 利休七哲 三斎

                            

 内容は誠に単純な歳暮の届け物に対する礼状である、模写とあるが忠興のローマ字印が押されている?
忠興の筆跡とは思えないが、現在すでに14,850円の値がついている。宛名の「宮内母」というのが大いに気に成る。
果たしてこれは誰なのか。私のブログの中で検索を掛けても「宮内」が余りヒットしない。
処が「甘利宮内」という人物が見つかった。以下の史料だが、これは三斎(忠興)の死後、遺言を堀田加賀守へ届けるべく江戸へ下った人物として記録されていた。
つまり、三斎の近くに在って信頼された人物であったのだろう。
その後、この甘利宮内の名前は「肥後細川家家臣略系譜」に名前が見えないことを見ると、離国したのではなかろうか?
これは私の全くの推測だが、そんな宮内の母が忠興に歳暮を贈ったという事だろう。「柿二」と読める。                 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一、清岩和尚今度此表登り被申候時 三斎様御暇乞之節被申
   候ハお三事如何思召候哉其外仰置度事御座候ハゝ可仰置候
   拙僧も證拠可立申与被申候得ハ 三斎様被仰候ハお三事
   宮松殿と被仰合 三斎様御格別ニ可被遣方も無之候間御知
   行諸道具共ニ御譲被成候と被仰候得者清岩被申候ハ目出
   度儀ニ候/慥ニ承届候と被申候得ハ御酒出御祝候/其時堀田加賀守殿へ
   此由申候得と被仰候と聞申者も御座候/又聞不申者も御座候とて
   今度御遺言之書物指上ヶ申候時長岡河内守・佐方与左衛門
   志方半兵衛三人之内ニ而せんき仕由ニ御座候/河内者加賀守殿へ
   申候得と被仰候と申候/与左衛門・半兵衛ハ不承候と申たる由にて御
   座候/河内ニ北ノ丸殿と同意ニ罷成候由申候/甘利宮内・魚住万五郎両
   人江御遺言之書物持せ指上申候与右三人之者共申候間定而宮内
   万五郎致持参指上可申候/河内ニ北ノ丸殿談合ニ而御遺言之書物
   究申候由承申候/堀田加賀守殿へ 三齋様御遺言ニ如此
   三齋被申置候と申候而 三齋様御印を付加賀守様へ甘利宮内
   致持参中屋敷ニ而井門亀右衛門孫ニ渡シ加賀守様へ遣申候可申
   儀ニ御座候間田中左兵衛ニ被仰付亀右衛門ニ加様之儀者無之哉
   と被為成御断申候而如何可有御座哉亀右衛門孫中務殿御懇
   ニ被懸御目候と申候/此言上速ク御座候へ共今日九日之四ッ迄ニ承候故
   致言上候佐方与左衛門今月五日ニ勘解由与私ニ申候ハ北ノ丸へ
   伺不申候而者成不申事も御座候/女儀ニ而候得ハ与ク不参迷惑仕候/
   何共先へ不参候事共ニ而難仕与志み/\と悔ミ申所へ河内・半兵
   衛参候故申留申候/多分加賀守殿へ申候得と 三齋様被仰候と
   の儀与左衛門・半兵衛ハ聞不申候河内ハ聞申候と申候付与左衛門先へ
   不参候事有之与申たると存候事

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■ユーミンの覚悟

2023-01-22 09:27:46 | 人物

 先に「■柴垣隆邸跡」をご紹介したが、熊本の右翼ともいえる柴垣隆氏をかこんでいる人々も又凄い人たちが伺える。
私は、右翼の巨魁ともいうべき頭山満などとの関りは知らないが、孫文との交流もあったという二人のことだから何らかの交流があったのだろうと推測している。
熊本史談会でまた何方かのお話が伺えればありがたいと思っている。
処で昨日の史談会で配られた資料の中の「コラム」にこの写真が取り上げられていて、一文が紹介されていた。
その最後の行に頭山家のことが書かれていて「頭山尋子が嫁いだ松任谷健太郎の腹違いの弟、功三郎、彼の息子がユーミンこと松任谷由実の夫・松任谷正隆である」とあった。

 私は荒井由実として名を成した人が、結婚を機に夫の姓を名乗り音楽活動の上でマイナスになるのではないかと思ったりしたが、これはまさに下須の勘繰りで、その後のユーミンの活躍は正隆氏の力が相和して凄い躍進ぶりを見せている。
ユーミンは正隆氏の祖母尋子が頭山満である事を良く承知していたらしい。そしてそれを誇らしくさえ思っているようだ。
事を為すにあたっての揺るがない信念は、正隆氏にもうけつがれ、由美氏もまた松任谷の姓を芸名にも受け入れて思いを同じくしたと思われる。
音楽は平和の共通言語である。曽祖父さんの想いをのせて世界に羽ばたいているように思える。


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■水野勝成宛‐細川忠興書状

2023-01-22 08:17:11 | オークション

               細川忠興 消息 水野勝成宛 十八日付 真筆

  

 出品者によって翻刻文が紹介されている。まことに有難い。引用させていただく。

                今日御城ニ久しく
               罷有、 御前にて色々
               忝仕合之印可につキ
               可申上存儀とも申候キも、
               長座之間、 御きけんの
               ほときつかひ被仕候、
               もし 御前候てハと
               はつかしく候へハ、一言も
               御見聞可被下候、恐惶
               かしく
                 十八日 忠興(花押)
                       細越中
              (端裏書)
                「(墨引)日向様まいる」

 水野勝成は熊本にはゆかり深い人物である。水野家は家康の生母・お大の方の生家で私は山岡荘八の「徳川家康」を読んですっかりお大の方の
フアンになった。勝成はその甥、大名になる迄は大変苦労している。
勝成と忠興はほとんど同時代を生きた人、武人としてのイメージが共通しているように思うが、「茶会」の話が出るとは・・・・
忠興の書跡の勉強になる有難い真筆書状である。


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■光秀の孫の記録‐喜多村市之進覚書ー5・了

2023-01-21 06:50:40 | 人物

       ■晩年の弥平兵衛・市之進
   
     松平忠吉公(家康四男)の関ケ原での負傷した傷がもとで慶長12年(1607)28歳で死去した後、市之進の覚書には「諸州鹿狩場」
    「鉄炮矢の仕立てを退く」「尾州立退」とだけで、詳しい記述はない。
     晩年の弥平兵衛の出来事を次のように記す。

       

               そして市之進も「右之通段々敵認候故 拙者儀も亡父先祖之儀 不致沙汰 兼々無筋目之躰ニ而 寛文元年御奉公ニ罷出之」と役を終えている。
    この「亡父先祖之儀 不致沙汰 兼々無筋目之躰」この一つ一つの文字に苦悩する市之進を感じます。
    喜多村家が背負う負のイメージ、晩年の弥平兵衛・市之進にも100年も経ってもまだ逆臣の負い恐怖がつきまとっているように思います。

    市之進の覚書からも喜多村弥平兵衛は市之進の父であり、光秀の末子(内治麻呂)として、輝かしい人生を送った、しかし晩年の父は、
    光秀の子孫として苦しみ亡くなったものと私は感じます。市之進がこの覚書を記する前に、喜多村家の先祖書を淡路守(蜂須賀氏)を通
    じて公儀へ指上たと記しています。

                                 

                                       

                    以上の様に先祖書を幕府に提出するにあたり、徳島藩の人たちのかかわりを市之進が詳しく記しています。

     この先祖書の提出にあたり次の文がひろえます。
       一、天下一統触之節 = 綱吉就任の年(延宝八年・1680年)
       ニ、私儀阿州に居  = 市之進は徳島に居
       三、家老賀島主水  = 藩家老(賀島重玄)  
       四、淡路守     = 松平淡路守(4代・蜂須賀綱矩か)遣いが幕府に先祖書を幕府に指上げた
     この先祖書はキーワードの4項目から綱吉就任の年延宝七年か八年に提出され、このあと市之進の覚書が書かれたと思われます。
     本能寺の変から100年、市之進が役を退いて20年、この覚書も最晩年の手記だと思います。

     【追記】
     これまで喜多村弥平兵衛については喜多村保光の娘と光秀での間の子であることは玄琳の系図で知られていましたが確かな
     資料がないため俗説としての弥平兵衛でしか知られていませんでした。

     この市之進覚書によって、父の出生から晩年まで孫の確かな記録により明らかになりました。
     孫の市之進もこの覚書により市之進が弥平兵衛(内治麻呂)の子であることも判り、徳島藩での活躍の記録にある確かな人物
     として評価されると思います。
     この覚書は光秀研究の一助になる事と思います。

     次の方々のご協力をいただきました。深く感謝を申し上げます。
         解説 紺野氏   菅野正道氏(元・市博物館)
         徳島大学付属図書館・国見裕美氏
         渋谷和邦氏

                       終り             筆者:高橋 仁

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   尚、タイピングに関しましてはお預かりした草稿に忠実に行ったつもりですが、若干の差異もある事をご容赦いただきたく存じます。
挿入の写真やタイピング記事など位置関係、順番などが主であり、文章に関しては100%万全ではありませんことも申し添えます。
                                      津々堂

    

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■お安く読むー推薦・細川家を知るための必読書

2023-01-20 11:06:49 | 書籍・読書

  司馬遼太郎の著「春灯雑記」では、「護貞氏の話-肥後細川家のことども」という86頁にわたる、長大な項が立てられている。

1991年が第1冊なのだが、司馬氏は20年前の事だとしておられるから、1960~70年代の事だと思われるが、熊本で細川護貞さまと会われ、貴重な時間を過ごされ結果としてこの項が誕生している。
その時期に思い到る事があるが、多分新聞社の主催による講演会の開催であったろう。
私は出かけていないが、なぜか新聞の切り抜きが残っていた(現在は紛失)。
話は多岐に亘っている。然し内容のそれぞれが護貞さまの事、肥後細川家の事を鋭い洞察力で表現されており、寸分の違和感を感じさせない。
「護貞氏は躯幹まことに長大である。温容ではあるが、容貌の特徴は、刃でするどく切れを入れたような一皮の上瞼にあるといっていい。」と護貞さまを紹介する。
まさに膨大な愛読者を有する作家の表現力に「まさにその通り」と申しあげたい。
この本(ハードカバー)は数冊購入して、読んでほしいと人様に差し上げたことがあるほどの、私の愛読書でありいつも目の前の棚に鎮座している。
いまでは安野光雅氏装丁のこの様な文庫本になっている。お安いですからお買い求めいただきお読みください。

                     春灯雑記 (朝日文芸文庫)

 

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■光秀の孫の記録‐喜多村市之進覚書ー4

2023-01-20 07:01:48 | 人物

                        ■北村出羽守宛 筒井順慶書状

 この伊賀越えのあと六月八日付で、出羽守宛の筒井順慶の書状が喜多村家(所持仕候)に届けられる。

                       
                                         喜多村出羽守宛筒井順慶書状
       先日徳川三河守伊賀越えの節、人数を出して両国に於いて働き、徳川殿忝く通り偏に知謀の故である

                                           

  この書状の同文の写しが2015年出版の「明智一族・三宅家」の史料に収録されている。
 (市之進がこの書状を写し書きしていることは、原本の書状は喜多村家に保管されていたと思われます。)

       ■伊賀越えの功績

  筒井重慶からは知行5,000石、徳川家からは服部半蔵使者により、刀・備前大兼光、馬一疋、黄金100両が届けられた。
  特に伊賀越えの途中、家康より御手自ら天国銘の小脇差を出羽守へ「被下置候」付け札までついた、著名な刀を喜多村家で保管されて
  いたことが判ります。
     銘・天国(アマク二)古刀一人 大和・大宝頃(日本元号701~704年 文武天皇のころ)

  付け札 往古安倍貞任御退治之節 源ノ頼儀公江従天子●●候
      宝釼之旨御応答御座候由旧記有之候

       ■父 喜多村弥平兵衛の功績

覚書で父の出生については
     「亡父喜多村弥平兵衛儀実者明智日向守光秀末子ニ而候」

                           
 母について
     「日向守 後妻者 喜多村出羽守娘」
と記し、亡父弥平兵衛尉此後に出生と記す。

                                                     
 出生後、出羽守家で育てられ、出羽守病死のあとは譜代筋の者に十九歳まで養育されていたことが判る。
 十九歳に成った弥平兵衛は、慶長五年(1600)の関ケ原合戦の記録から始まります。
 この戦いに、徳川秀忠の同腹の弟・松平忠吉(家康四男)に仕えた。その経緯は「覚」には記されず・・・
 この初陣の様子は  ❍軽井沢 遠江
           ❍松浦三郎兵衛
           ❍忠吉公
           ❍亡父弥平兵衛  等の四者の戦況を市之進が書き留めています。

 次は父の関ケ原での様子を市之進が写している文です。
   関ケ原戦功
      御先手備に召加される。(21歳)
      御証文 11,750石
      忠吉公 両御所様に加増を所望 6,000石増
      200石与力・25人 与力懇・16,000石
      外に鉄炮同心 50人豫   

                   

                   

                  この初陣で多くの武勲をあげ16,000石に取り立てられと市之進が記しています。

      ■市之進が知る本能寺の変

   市之進の祖父は当事者の光秀、その末子だった父に「本能寺の変」はどんなかげをのこしたのか、市之進は300年前
   覚書でこうのべています。

                             

                               
                                         翻刻文の上段中央部あたりから、下段四行目辺りまでの原文

                               
            上記翻刻文に該当する訳文(訳・渋谷和邦氏)

 

    森蘭丸と信長の密談を聞いた家老の藤田伝吾の娘「いた」の話が発端で、闇討ち謀反と進んだ事件だとすれば、
    謎が多い本能寺の変の一因に。
    本能寺の変に関する話から、市之進の父・弥平兵衛の晩年の話にうつります。

 

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■self-celebration

2023-01-19 16:27:43 | 徒然

 私・津々堂こと本日「傘寿一歳(81)」の誕生日を迎えました。
昨晩は、インターネットを駆使して、この独特な言葉「自祝」に該当する英訳は何というのだろうと思い、いろいろ調べましたら「自祝」では見つからず、「自祝い=self-celebration」と、何とも味気ない感じで、チョット日本的感覚に欠けるな~と思った処です。
学校で同期の人は、4月以降82歳になる人が出て来ます。後期高齢者ではなく更なる「更・後期(こうこうき)高齢者」です。
糖尿病と戦いながらこれを克服し、米寿を目指したいと思います。津々堂至って元気に今日を迎えました。天国の父母に感謝。

コメント (2)
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■お出でまっせ・・熊本博物館・22年度企画展「熊本城と明治維新」

2023-01-19 10:44:47 | 展覧会

 

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■喜多村市之進覚書ー翻刻文・3

2023-01-19 06:57:45 | 人物

         一亡父喜多村弥平兵衛儀 実者
         明智日向守光秀末子ニ而候
         出羽守為孫故 家督為相続
         致養子出羽守嫡子伊賀守
         早世 二男者遂出家 江州多賀
         敏満寺へ致住職被叙 伝廊
         大僧正寺領弐万石被寄附由
         申伝候故 右之外出羽守ニ男子無之
         御座候 然処ニ亡父幼稚之節
         出羽守病死仕 譜代筋之ものニ
         被養育 十九歳ニ而関原陣ニ
         罷在候
         台徳院様御同腹之御連枝
         薩摩守忠吉公者 井伊兵部
         少輔殿●為御婿関原陣中
         御後見兵部少輔殿江
         大権現様被仰付之由 軽井沢
         遠江と申勇者と忠吉公於関
         原槍を御合御戦被成処 御
         草摺之外レニ槍中り候 膝御
         折危相見候故 亡父手前ノ敵
         指置翔出 遠江と鑓を合 雖
         蒙二ヶ所疵 終ニ遠江を突
         倒 頭を搦と其内ニ松浦三郎兵衛と
         申武者馳来 忠吉公と相戦
         乗之被為負御手候も於●●
         彼士御組倒被成候処、下より以脇
         指奉突候を 御胸板ニ当返
         不申 然処亡父懸着 三郎兵衛右之
         腕を籠手共過半切離申所
         手伝すなと被仰 首者忠吉公
         御捕被成候 亡父段々働之次第等
         大権現様江忠吉公被仰上候処ニ
         於挑賦弥平兵衛被召出
         上意ニ 今度忠吉両士と相戦
         大事之砌 汝馳向 依抜群働
         遁急難 組討合高名事
         御感悦之旨仰聞候由申候 彼
         陣敵而後江州三井寺境内ニ而
         台徳院様弥平兵衛ニ始而
         御目見被仰付 忠吉公奉按
         御大事旨 御感之由上意ノ
         処 於関原弥平兵衛働 忠吉公
         御咄被成由申候 ●時分亡父討
         捕候敵之姓名名依不相知働迄之由
         御感被成 如何御褒美新知千
         五百石被下置候 其後喜多村
         弥平兵衛討捕之敵名軽井沢
         遠江と申儀 追而達上聞
         一倍之御加禄被宛行 御証文
         壱万千七百五十石之身躰ニ被
         仰付 廿一歳之時御先手備ニ被
         加召候 遠江儀信州之住人
         軽井沢下総二男之由申候 遠江
         事武者致修行於所々依有
         軍功 太閤秀吉公より御預ケ
         被成候 御代官所之内ニ而知行壱万
         石遣 籏下ニ仕 石田治部少輔
         関原陣ニ被召連由申候

        一尾州名古屋御城普請御●
         名衆へ被仰付御成 就之節
         忠吉公御城主ニ御備被成候
         其節江戸御老中之内 其
         外歴々衆御付被遊候 然処
         関原ニ而亡父働御覧被成候故
         御附被下候様ニと忠吉公
         両御所様江御所望故 被任
         其意候 亡父尾州へ罷越 一
         倍之御加増ニ而六千石被下置候
         百五十石与力弐拾五人 弐百石二
         御直シ 与力懇 壱万六千石之
         身躰二被仰付 外ニ御鉄炮同心
         五拾人御預ケ被成候

        一亡父尾州へ罷在候節 諸州於
         鹿狩場鉄炮之依矢編討
         仕立退申候 其趣 両御所様
         達上聞 亡父意趣討之次第
         御感之上意 其時之御老中
         小笠原和泉守殿御自筆之
         御状ニ控候
                          返々先方之有名好遊興奢者之由達
       上聞候へとも屓之方有之候条 跡ハ
       此所ニ先方之有名済間敷と存候
         其頃諸州於狩場
         依法外働 不堪忍 被打果趣
         達台聴処 宛御仕様可為
         武士之本意之由 上意候
         其方先年於関東陣 軽井沢
         遠江鑓合 討取候程のうい
         やつニ而候間 同様之大事モ仕兼
         間抜ものと大御所様御
         笑被成 自筆之意趣書火
         急之時分其方之有名骸之辺ニ
         閣退候事 神妙之至ニ被思召候
         殊ニ従者不召連 只一騎馳
         向 手際能討事 天晴之剛之
         者と両御所様御感被
         成候 勿論其方之有名一党之者か
         様遺恨候 遠国ニ忍 兎角
         彼討候可為御手柄候 用心者成程
         病せよく新田義貞も被仰
         置候 恐惶謹言
             小笠原和泉守
          極月廿八日  書判
          喜多村弥平兵衛様

         右之御状の文言 詳儀少遠
         慮ニ存候由 致隠密候得共
         亡父尾州立退候 子細不知故
         書残申候

        一件之後 亡父伊州山中へ退居申候
         京都ニ罷出候節 城州藤之森
         辺ニ而歴々ノ浪人被致喧嘩
         彼者伐殺 直ニ伊州へ退申候 彼
         牢人ニ子供多 諸国へ打散 亡父を
         認申候 ●其年亡父実父ノ敵
         余多御座候而 是も亡父を認申候
         右之通敵多有之候故 一生忍●
         不被討 ●●●●致病死候

        一右之通 段々敵認候故 拙者儀も
         亡父先祖之儀 不致沙汰 兼々
         無筋目者之躰ニ而 寛文
         元丑年御奉公ニ罷出之
         大権現様馳●成御判物・御
         証文 其外将軍家御感状等
         所持仕旨 坪内惣兵衛殿・同源五郎殿・
         川勝主水殿及御耳 有拝見
         度由 松平淡路守様へ御所望被成候
         淡路守様被兼蒙候故 右三人衆申
         請 於一座数通見申候 右之外御
         歴々衆余多御判物御証文自
         信長公光秀へ被遣候御感状なとも
         拝見被成候

        一先年御感状之写可指上由 天下
         一統御触之節 淡路守者江戸ニ
         罷有候 私儀阿州ニ居候故 家老
         賀島主水方へ淡路守申遣候者
         市之進所持之御判物之写此度
         公儀江可指上候 大事之儀候間 随分
         入念 遂吟味 少ニ候而も不審之儀
         有之候者 右之写指上間舗由申
         越候 因茲
         大権現様伊賀越被成候節 祖父
         同氏出羽守御忠勤之趣三度
         以書付相尋候故 三度共ニ委細
         慥ニ書付返答仕候 書付迄ニてハ
         具ニ難承届旨ニ而 主水拓へ仕置
         人内海矢五大夫・先山太兵衛・大
         目付平野権丞・触使役黒部
         太郎右衛門・若山十大夫・啐寄、右之者共
         列座ニて、此方より遣候三通之書
         付主水手前ニ控置 出羽守御
         忠節之品々 出羽守働 家来
         討死其外前後之様子并
         亡父関原軍功種々致
         吟味候へとも 少も無不審事
         慥成儀 主水其外之者共明白ニ
         承届候故 御判物之写し主水より
         淡路守方へ遣申候 依之淡路守
         前紙ニ加添書 公儀江指上申候 以上
          九月七日      北村市之進 

 

                                                   (了)        
          
         

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■古文書の海は深く限りなし・・

2023-01-18 15:57:29 | 徒然

            古文書の海のふかさや 去年今年  津々                    

 時々ひっ切れ紙が、本の間から栞代わりに顔を出す。
EXCELをもっと極めたいと思い「らくらくマスター本」という随分古い入門書を引っ張り出してみたら、これが出てきた。
随分下手な句だが古文書に親しみ始めたころだろうか、「もうちょっとすらすらと読みたい」と思うお正月の決意みたいなものが伺える。
小賢しい話で古文書の海の深さは永遠で、大甘の話である。
コロナは八波か九波か知らないが、大いに乗り越えて図書館通いをしてまた良い史料に出合い、読み下しに励みたいと思う。
そして、翻刻したものの意訳を上手になりたいと、近世史に係わる書籍を読み込みたいと思っている。
戒めとして、PCの差支えない場所にテープ止めした。


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■光秀の孫の記録‐喜多村市之進覚書ー3

2023-01-18 07:23:06 | 人物

        ■祖父・出羽守保光の伊賀越え

      ウイキペディアでは光秀の正室については、正室の他俗伝として喜多村保光の娘という側室がいたと記してある。
            注:実は曽祖父だが、父・弥平兵衛ガ保光の養子となったため
      この市之進の祖父(母方)喜多村保光が登場するのは、「娘の親」としての喜多村保光であって、「神君の伊賀越えに供した」
      喜多村保光としての名は初めて聞く名前ではないでしょうか。
                                              
      この「市之進覚書」の冒頭の筒井順慶から、喜多村出羽守宛の礼状でも明らかなように、祖父の伊賀越えは喜多村家一番の
      栄誉の事でした。
      先祖書提出の際にも、伊賀越えは藩(阿波藩)の人からも公認された事実の様で、次のように記されています。
      大権現様伊賀越被成候節 出羽守忠節之趣以書付相尋候 三度共委細慥に書付返答仕候・・・少々も不審無しと淡路守以下
      仕置人・目付・触使人各人が吟味 公儀に指上た とこの覚書にもかかれています。
      この伊賀越えの記録は文・道中の様子は、喜多村出羽守以下家臣からの伝聞を吟味して書き取り、市之進が写した文では
      ないかと思います。
      市之進の記した伊賀越えの文と、これまでいわれている市之進の「点の地名」に添ってたどってみたい。

         ■伊賀越えのルート

      「市之進覚書」では日付・ルートはないが、伊賀から伊勢まで五点の地名がかかれている。
         ① 三田坂下
         ② 拓植
         ③ 鹿伏兔
         ④ 伊勢路
         ⑤ 白子

      市之進覚書の翻刻文をはさみながら紹介します。
      (翻刻は仙台市博物館紹介の紺野氏、現代訳は渋谷和邦氏)

                           

                         

                        

                                 


                                ① 三田坂下
                    喜多村出羽守が供するのは、本能寺の変三日目 六月四日 拓植城主・出羽守保光としての伊賀越えは三田坂下から始まる。

     この「三田坂」は滋賀県と三重県の県境桜峠をこえ、丸柱から諏訪・三田を通る国道422号線上にある峠。
     現代の地図上でも道幅が狭く曲がりくねる難所である。
     近年諏訪・三田間はバイパスで結ばれた。

     三田坂之下ニ被立御帰御控被成候 出羽守儀弐千計之人数召連 山路を押 為御迎罷出候

     この三田坂峠で喜多村出羽守は家康一行を迎える。

          ② 柘植城

     一行は三田峠を経て大和街道(国道25号)に入ったと思われる。
     下柘植・上柘植と現在も残る地名からも、柘植城主・出羽守の領地内を安全に通過したと思われる。

        ❍祖父出羽守の城は街道筋
        ❍伊賀越えの徳川一行のリーダーは兵部少輔(井伊直政)
        ❍出羽守は惟任日向守舅で、嗜・文武・律儀第一ノ勇者 
                            (市之進文)
     いよいよ一行は伊賀と伊勢の境 鹿伏兔峠に入る。

          ③ 鹿伏兔(かぶと)

     鹿伏兔は三重県伊賀市と亀山間の標高300mのところにあり(加太は鹿伏兔を当てる)鈴鹿峠が開かれる前は東海道が通り、
     古くからの難所の地であった。
     家康の前で喜多村出羽守家老の服部兵部懸塞と、一揆の大将・福知但馬、出羽守と三者の戦いの様子を覚書は生々しく記す

        一大権現様出羽守江御目見被
         仰付 御礼被仰聞 供奉仕於
         所々相働家来数多討死仕候
         鹿伏兔辺ニ福地但馬と申
         一揆之大正又罷在
         大権現様を掛目馳来候処
         出羽守家老服部兵部懸塞
         但馬と兵部相戦処 兵部を
         但馬突殺申候 則出羽守懸合
         槍下ニ而但馬を討捕申候 此乱ニ
         大権現様御鎧ニ鉄炮二当候
         由申候 

      この戦いで「大権現様御鎧ニ鉄炮二当候」と、此の道中一番の脅威にさらされた。この後伊勢路に入る。

          ④ 伊勢路

        一大権現様供奉仕 出羽守伊勢
         路迄罷越申候 道中被爲召候
         御馬ニ遠矢中り草臥申候ニ付
         出羽守乗替之馬指上 被召替之
         跡 其所者御敵仕者無之故
         御按申上候処 御傍に被寄召

      「其所者御敵仕者無之故御按申上候」と、伊勢路に入り安堵の思いを伝える。
      家康、馬での道中、「草臥申候」と伊勢路に入る三日間の疲労が一気に出たかもしれない。
      この伊賀越えは、馬と鎧をつけての道中であることが判る。
      「出羽守乗替之馬指上」そして白子へ

          ⑤ 乗船地は勢州白子
      
      伊勢路に入って一行は白子で乗船する。船に移動し鎧を脱いだところ、家康の鎧の内に「打返鉄炮候鉄炮之玉二、船中に落候」
      と記す。
         勢州於白子御舟ニ被爲
         召 御鎧御脱被成処 御鎧之内ニ
         打返候鉄炮之玉二 船中ニ落
         候由申伝候

      そしていよいよ船で白子から三河大浜に向う。

      (注)「申伝候」と記しているので、後日(伊賀越えのあと)喜多村家に入った情報を書き添えたのではないか?

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■「□鼻□石」て?

2023-01-17 14:02:42 | 熊本

 悪友が電話をしてきた。虚礼廃止で年賀状は来ないから、「今年もよろしゅう頼むばい」が挨拶。
話によると勤めていた会社のOB会が催されたらしく、久しぶりに上京したらしい。「数の少のうなってね・・」と一言。
そのついでに、熊本出身の友達にもあってきたという。
その時の会話に「阿蘇に□鼻□石」てあってばってん(有るそうだが)、酒飲んどったけん何のことやら判らんまま帰ってきたが、あらなんのこつかい(あれは何のことだろうか)?、という。

 急に言われても返事に窮する。
「遠見が鼻」と「象の鼻」くらいは判るし、「的石」くらいの地名しか思い出せない。
電話を切って熊日選書の「隈本の消えた地名」を開いてみたら、「阿蘇の七鼻」という記事があった。
その中に「七鼻八石」と記されていて、是が悪友が聞いてきたものらしい。
阿蘇郡誌には「古來阿蘇谷の人々は七鼻八石と称すれどもその何故かを知らず」と記されているという。
阿蘇外輪から内側に突出した処を「鼻」というようだ。「石」については解説がない。
「七鼻八石」と判明したから、ググってみると、「肥後国 くまもとの歴史」というサイトに阿蘇七鼻八石(あそななはなやいし)の記事を見つけた。
一覧表があり、疑問が氷解した。メールで連絡をして一件落着と相成った。

 昭和27年高浜虚子は阿蘇を訪れた。そして前年亡くなった熊本の弟子の宮部寸七翁の為に次の句を捧げている。

      君がため遠見ヶ鼻の竜胆を

私は現在「大観峰」と呼ばれる場所が「遠見ヶ鼻」という雅な名前であったことを知って、この名前が消えたことを残念に思っている。
これもついでに教えてやると、「よか歌ね、覚えとこう」と・・・・

=付け足し=
虚子の「小国」に寄せての句 小国町南小国村芋車 も大好きな句である。
これも教えると「わあ小学生の俳句のごたる、これも良かねえ」とご満悦だった。

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■寛永15年(1638)天草四郎 島原の乱で討死した侍衆を弔う施餓鬼の案内 細川藩家老長岡是季(花押)回状

2023-01-17 08:10:46 | オークション

   寛永15年(1638)天草四郎 島原の乱で討死した侍衆を弔う施餓鬼の案内 細川藩家老長岡是季(花押)回状

                           

 例年熊本市中央区横手の安国寺では、毎年七月六日、関係者が出席されて「四つ戦難供養」の法会が行われている。
     ■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)
     ■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
     ■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
     ■東国戦死之碑   (戊辰戦争)

 今回のオークションの文書は、その先駆けとなった「島原の乱」後に開催された戦死者を弔う施餓鬼の案内書である。
案内者は「家老三人」とあり、その内の一人・二番家老長岡監物が署名している。
翻刻文がつけられているが、これによると、開催日は七月十三日とされていることが判る。
また、翻刻文にある本文の前半部が写真紹介されていないのが残念である。現物にこれが存在するのかどうかは問い合わせが必要であろう。
また宛名の名前については一部誤りがあったり、9名であるべきところが10名に成ったりしている。
出品者提供の翻刻文を手本に判読不明部分その他、当方もチャレンジしてみようと思う。
高額になりそうな学術的にも貴重な資料ではなかろうか。

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■喜多村市之進覚書ー翻刻文・2

2023-01-17 06:49:51 | 人物

        一大権現様御上京 信長公へ
         御対面被成 依御指図
         梅雪御同伴 泉州堺地
         為御見物御越被成候 然処ニ
         件之存念故 於本能寺日向守
         奉弑信長公 此段境地へ
         相聞候 早合戦可被成候と
         御人数不足故 御帰国以後
         可被思召旨御触被成候
         大権現様江日向守訳依有
         御忠節微勢与被仰出□(虫喰)
         合戦御延引 流石之御知
         者之有関東迄致沙汰之由申候
        一本街道御通被成儀 伏見
         御遠慮 梅雪御同道大和
         路へ御懸 伊賀越被成候節
         梅雪者他力を不頼 手勢迄ニて
         御通故 於途中討捕申候
         覃聞召 ●御通難被成旨
         御考 井伊兵部少輔殿へ被仰候
         伊州者山国ニ而険阻多 其上
         伊賀ものは下賤共不惜一●
         ●武者多由候 御手勢計ニて
         御通被成候● 大事ニ被思召候
         堅守義利頼母敷有之間
         敷歟 御頼被成度旨 上意
         之処 兵部少輔殿被仰上候者
         喜多村出羽守与申城主海道
         筋ニ罷在候 嗜文武 律儀
         第一ノ勇者由承候 早惟任
         日向守舅ニ而御座候条 御頼
         被成者前以有御仕間舗由 尤
         被思召 急以使者件之趣被
         仰遣候へ者 御用ニ御可立者と致
         思召 御頼被成段本懐ニ奉存候
         殊ニ日向守と御入魂之由候条
         安等と御請申上候 道筋無
         御心許被思食 三田坂之下ニ被立
         御帰御控被成候 出羽守儀弐千
         計之人数召連 山路を押 為
         御迎罷出候 白地ニ八本立之
         矢車染入之紋付之籟八本         
         大権現様上覧被成 向ニ為見
         軍兵者定而喜多村出羽守可
         為人数八本之白籟同ニ移
         輝之八幡者八ノ旛之書也 源氏之
         氏神 殊更弥陀之依為
         跡常ニ八幡大菩薩与奉
         信故 今度之大事御援被成事
         眼前也 出羽守早々請合 鬮ニ
         成事是偏ニ八幡之御霊験
         ニて候間 皆々心強存 向之幡を
         八幡大菩薩与奉存之
         上意之由申伝候
        一大権現様出羽守江御目見被
         仰付 御礼被仰聞 供奉仕於
         所々相働家来数多討死仕候
         鹿伏兔辺ニ福地但馬と申
         一揆之大正又罷在
         大権現様を掛目馳来候処
         出羽守家老服部兵部懸塞
         但馬と兵部相戦処 兵部を
         但馬突殺申候 則出羽守懸合
         槍下ニ而但馬を討捕申候 此乱ニ
         大権現様御鎧ニ鉄炮二当候
         由申候 勢州於白子御舟ニ被爲
         召 御鎧御脱被成処 御鎧之内ニ
         打返候鉄炮之玉二 船中ニ落
         候由申伝候
        一大権現様供奉仕 出羽守伊勢
         路迄罷越申候 道中被爲召候
         御馬ニ遠矢中り草臥申候ニ付
         出羽守乗替之馬指上 被召替之
         跡 其所者御敵仕者無之故
         御按申上候処 御傍に被寄召
         ●言難為家来為主人 抛一
         人衆事 其忠は以不軽 出羽守者
         無由●処相頼 一言堅守不
         惜神命自身相働 家臣数
         多被討被●大事厚●之段
         生々世之難御意被思召候 是又
         穴山梅雪儀 武田之威風ニ驕
         他人を不頼返故 彼討歩卒
         源姓之名を朽 無懺成事ニなると
         上意之処 兵部少輔殿御申候者
         出羽守猶有別心者面々も当
         国ニ可瀑骸之処 俘虜之●
         ●と御挨拶之由申 其時
         大権現様御別指ニ被成候円
         棟鎬誂天国有銘之御小
         脇差 御手自ラ出羽守へ被下
         置候 就件脇差●持来
         上意之●伝由仕候 以上略仕候
         其天国持伝罷在申候
                     付札 往古安倍貞任御退治之節
                        源ノ頼儀公江従天子●●候
                        宝釼之旨御応答御座候由 旧記
                        有之候
        一大権現様無御恙無御帰国被成
         翌年服部半蔵殿為御使者
         備前大兼光御刀・御馬一疋
         黄金百両 御感書ニ被相添
         出羽守へ被下置候 右拝領之大
         兼光有銘之御刀 致所持候
         御感書之御文言 別紙ニ誌
         通ニ御座候
         亡父喜多村弥平兵衛儀 関原
         依軍功 従公儀被下置候御
         証文之写

            覚
        一今度御自身へ被宛行御加増
         千五百石 此物成江戸於御蔵
         出目指口共無相違可相渡由
         御蔵所へ申渡候 本知千五百石者
         本役 御加増千五百石者可為
         半役事
        一此度御附被成候与力五拾人之内
         弐拾五人者弐百石宛 廿五人者
         百五拾石宛 此物成清州於
         御蔵其方以加印之手配請取
         与力中へ可被相渡事
        一御自分知行御加増共三千石
         并与力知行八千七百五拾石 都合
         壱万七百石之身躰二被
         仰付候条 右知行高之通 御軍
         役御魁可相勤旨 御諚之間
         可被得其意候 右条々固
         厳命 証文如件
              小笠原監物
         慶長七年九月五日 書判
           喜多村弥平兵衛殿

         此時監物殿御家中ニ而御入候
         監物殿件之後和泉守殿と御         小笠原和泉守・吉次
         改被成候 和泉守殿之御嫡監物●
         御成候
        

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■喜多村氏と松尾芭蕉

2023-01-16 10:20:30 | 徒然

「喜多村市之進覚書」のタイピングに励む一方で、朝の散歩も怠らず、大好きな嵐山光三郎の「芭蕉」論や、夏目漱石の縁者が語る関係の本を
読んだり、某家の先祖附の読み下しを並行したりと忙しい。
ふと思いたって古文書を引っ張り出して、判らない文字の判読に思いがけない時間を過ごすこともある。

史談会の1月例会の予約受付の電話も入り始めたので、電話も気にしなければならない。

 処で市之進の曽祖父・喜多村出羽守は家康の「伊賀越え」に際し約2,000の手勢を以て援助し、その功として11 , 750石を与えられたと覚書は記す。
娘は光秀の側室(後室とも)となり、光秀の末子・内治麻呂を出産、これが後の弥平兵衛であり、市之進はその嫡子である。
喜多村出羽守保光は拓植(つげ)城主だと記されている。現在の三重県伊賀市柘植にある古城で現在では「福地城」と呼ばれているらしい。
伊賀市の説明などによると、福地氏が城主であったからだとしている。柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)」を構成
した氏族だともある。北村氏=喜多村氏なのであろう。
「喜多村市之進覚書」によると、家康一行を襲撃したのは福地但馬であり、これに喜多村出羽守と家老服部兵部が家康を護り攻したと記す。服部兵部が福地但馬に鑓で疲れて死に、但馬を出羽守がこれも鑓で突き殺したという。

そうすると、柘植三方が一枚岩ではなかったことが理解できる。
 処で、偶然なことに松尾芭蕉の先祖は「柘植三方」の一族だそうで、この城跡を芭蕉公園と名付けられているらしく、句碑及び生誕碑を
建て後世にとどめているという。
「柘植三方」と松尾氏の関係はどういうものなのだろう。嵐山先生のご高説の中にあるのかもしれないが、まだ見いだせないでいる。
北村家の覚書といい、芭蕉の不思議な略歴といい中々ミステリアルである。


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