津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■清正公の遺産・瀬田井樋修復

2014-02-13 08:35:27 | 歴史

 寛政八年(1796)六月十一日に熊本を襲った大洪水(辰の年の水害)は、熊本藩年表稿によると高さ1丈6尺(約4.8メートル)の古今未曾有の洪水と成り、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15、202町、損毛362,000石に達したとある。
内坪井の流長院では九重の石塔の六番目、約6メートルの高さに達したという。昭和28年の水害など足元にも及ばない大水害である。
昨日記した菊陽町の資料などから、改めて詳細を知りたいと思っている。
この時加藤清正築造の瀬田の磧が崩れ、井樋石が流出した。その修復工事の模様が「風説秘話」に記されている。
 

                                                                          

        寛政八年六月十一日の洪水白川筋瀬田の磧崩れ井樋石
        不残流失せり、是は九州一の大井樋ニて此石共免ニ出来せ
        んこと甚し大造也、然るに年老たる里民等申せるハ誠や
        らん爰の上の山ニは清正公此井樋の替石を埋置■ひしと
        昔より云傳候と云、時之郡代佐久間平太夫人夫を連て
        其所に至り四五尺掘りしに切石あらされハ實也、迚(トテモ)猶々
        堀たるに井樋石皆埋あり、何も清正公の遠慮と奉感、夫
        より磧にかゝれり、此井出の末流大津邊は至而水■き所
        にて此碩崩てゟ民甚喝に苦あり、然共無双の大碩なれば
        速に功成へきろも見へす、佐久間法令を出して人ニ勝て
        働者ニは銭を与へ怠る者ハ搦んと約せしに初日は銭を
        與る者十餘人、搦る者五十餘人也、翌日は賞を受る者五
        十餘人罰を蒙る者十餘人、其翌日は人皆不怠出精して
        磧は不日に成、然しこれは井樋の根に大なる横木を入さ
        れは水受悪し、此邊是に可用木なく如何せんと云しに佐久
        間云、幸此邊周行坊か墓原の木を伐へし、里民等云、昔よ
        り此木に手指者即時に祟を受候、况(イワンヤ)や伐ル事ハ存も不寄
        と惶(オソレ)たれは佐久間云清正公磧築てしとき土中に命し
        ゐへり此周行坊ハ家冨附従ふ者多かりしかハ手の者引
        具し普請に可出と令ありしに周行坊我は世外の身ニて
        国主の約に出る謂れなしと返答す、清正公悪き奴■■攻
        潰せ、迚其日普請邊ゟ直ニ錦野の瀬を渡り押寄て
        即刻に討殺ゐへり其者の墓何事か可有、是是非伐れと
        て伐らせ無程井樋成就せり、又是ニ付人の云、一年御太守
        御普請ニ長き柱入事ありたるに其間の棟札に此替木
        小田丸池に埋置とて有、果して丸池の泥中にあり、是のミなら
        す外ニも御城中の大材の替、今も丸池に埋有となん、
        水に漬れハ木性よくなる故なるへし

 

                                                           http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00074/2008/52-01-0037.pdf

        瀬田の井樋(取水口)から取り込まれた豊かな水は、大津町→菊陽町→合志市→熊本市飛田まで延々20キロに及び八景水谷の上流部・坪井川に
    合流している。
    その流域の豊かな農業はまさしくこの事業がもたらした恩恵である。清正公をして治水・農業の神様としてあがめる所以である。
    又その遺産は、営々として細川藩に受け継がれ現在へと至っている。思いを致すべきである。 

 
        
      

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