津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■真田丸はどこだ・・・・

2015-01-16 07:04:29 | 歴史

 「玉造を応援する情報サイト」というサイトがある。大坂玉造地区に特化したサイトだが、今年は「大坂冬の陣」400年メモリアルイヤーということも有って熱く燃えておられるようだ。
そんな中に「真田丸はどこにあった?・地元を調査して歩く」という項がある。これは2013年7月10日に放映されたNHK歴史秘話ヒストリア「発掘!真田幸村の激闘~最新研究調査から探る大坂の陣~」で紹介された真田丸を、いろんな資料からその場所を探ろうというのである。
               (参考: http://ameblo.jp/e-fh/entry-11611904002.html 
来年の大河ドラマは「真田丸」に決まったことも有り、気合が入ることは当然であろう。 

折も折産経新聞が1月14日(水)7時55分配信したYahooニュースに「真田丸、城外孤立の砦だった!? 最新の等高線調査で可能性高まる」がでた。
記事をたどっていくと 「大坂上町台地の総合的研究」という論考があることを知った。有り難いことにこれに関する資料「
上町台地とその周辺低地における地形と古地理変遷の概要がWEBで航海されている。また「十三の今を歩こう」というサイトには、「古代上町台地の地形変遷と大阪高低差学会」という項があって、まさしく大坂の町を「弥生時代」「古墳時代」「古代」「中世」「豊臣後期」とその変遷を見事な図をもって説明している。(下記図は豊臣後期の図を引用)
このような形で真田丸の位置関係が明らかにされようとしている。関係者の熱い思いがふつふつと伝わってくるが、それはまた大阪高低差学会というユニークな名称のサイトにあらわされている。熱い皆さんがうらやましい。

「大坂冬の陣」400年メモリアルイヤーである今年、いろいろと目が離せないようだ。

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真田丸、城外孤立の砦だった!? 最新の等高線調査で可能性高まる (Yahooニュースより産経新聞記事を全文引用)

徳川家と豊臣家が国を二分して戦った「大坂の陣」。その豊臣方の知将・真田幸村が大坂城の堀の外側に築いた出城「真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられてきたが、最新の等高線調査によって、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まった。専門家は「あえて敵の標的となって大軍を引き寄せた」と推測。実際、幸村は真田丸をめぐる攻防戦で徳川軍の主力を散々に打ちのめした。その戦略の真意とは-。(川西健士郎)

 ◆専門家も舌巻く作戦

 「まさに背水の陣。血祭りに上げてくれ、といっているようなものだ」と、真田丸が孤立無援の砦だったとする新説を唱える奈良大学長の千田嘉博氏(城郭考古学)。「真田丸攻防戦の幸村の戦いは、従来の常識とはまったく違う」と言い切る。
 大坂の陣は慶長19(1614)年、最初に冬の陣が勃発。翌年の夏の陣に続く前哨戦と位置づけられる。
 全国の大名を主力とする徳川軍20万が大坂城を包囲。豊臣軍10万が城に籠もった史上最大の籠城戦だ。その最も激しい戦闘が真田丸攻防戦だった。
 大坂城は東西と北の三方を川や湿地帯で囲まれた天然の要害。一方で、南に続く上町台地が唯一の弱点とされた。真田丸は、この弱点を強化するため、城の東南部に築かれた。戦記などによると、真田丸攻防戦では、豊臣軍はほぼ無傷だったが、徳川軍は数千人もの兵を失ったとされる。
 「難攻不落の大坂城」の名声を一躍天下に知らしめた戦いだったが、舞台となった真田丸の調査はそれほど進まず、確かな遺構も残っていない。
 千田氏によると、真田丸を復元した絵図は数多く存在するが、後世の人々が軍学を学ぶため概念化、単純化した絵図が大半という。
 しかし、広島藩主の浅野家に伝わる江戸時代初期の城跡図面集「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の真田丸は、かなり様子が異なる。
 大坂城と真田丸の間にがけが描かれ、かなり互いに離れているような印象を与えている。
 しかし、千田氏が「浅野家の絵図は正しかった」とする資料が存在した。
 昨年3月、大阪文化財研究所と大阪歴史博物館が刊行した報告書「大阪上町台地の総合的研究」に掲載された古地理図だ。ここでは難波宮や大坂城など、古代から現代まで次々と都市が築かれた上町台地について、遺跡報告書やボーリングデータなどから5時代ごとに等高線を再現した。
 千田氏が大坂の陣の時代と重なる「豊臣時代後期」(1598~1615年)に注目すると、真田丸があった場所では、大坂城との間に堀だけでなく、大きなガケが存在していた。
 古地理図の作製メンバーの大阪文化財研究所の市川創氏によると、「この400年の土地利用で上町台地の高低差は緩和されたが、当時真田丸には深い谷があり、地形の高低差はかなり激しかった」と指摘する。

 ◆驚くべき幸村の戦略

 さらに古地理図を詳しくみると、上町台地の西半分は平坦(へいたん)だが、東半分は谷が入り組んで高低差の激しい地形だったことが分かる。
 「真田丸があった場所は起伏が激しく、天然の要害ともいえる場所。実は真田丸を築く必要はなかったのではないか」。古地理図を分析した千田氏は指摘し、こう語る。
 「あえて戦の定石に反した城外孤立の砦を築いて格好の標的となり、徳川勢の主力を引き受け、その隙に西側の他の部隊が反撃を仕掛ける。それが幸村の作戦だったのかもしれません。幸村は、常識を超えた戦略の持ち主。まさに恐るべき知将です」

コメント
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