津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「義士十七人於肥後侯亭割腹検使之圖」

2013-01-30 19:00:01 | 史料

           この図は「赤穂義人纂書」にある「義士十七人於肥後侯亭割腹検使之圖」である。
           義士研究家で近世史に詳しい、東京在住の佐藤誠氏が送って下さったものである。謹んで御礼申し上げる。
           先にご紹介した大野瑞男氏所蔵の「細川家御預義士十七人切腹之畧図」が底本となっているものと思われる。
           下の白金邸平面図と比べると、まさにそのままである。(泉水の形に違いがあるが・・・・・)
           大石内蔵助はすでに切腹を終え、戸板に乗せられて運び出されている。
           四ツ時過(10時過)から七ツ半過(5時過)までかかったとされるから、約7時間に及んでいる。
           後日ご紹介するが、堀内傳右衛門の「旦夕覚書」や「御預人記録」などと併せてご覧いただきたい。 

 

           

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御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世忰被召出候面々

2013-01-30 07:57:55 | 年表

御知行被召上御扶持方被為拝領、或御被遣其以後勘気被成後赦免御扶持方被下、又ハ世忰被召出候面々
       
ここに記載ある500石以上のものについて列記する。陽明学徒の内西川与助の扱いはその由緒によるものか? 

寛文元年閏八月
  ・千石     堀江勘兵衛    四拾人扶持被下置、病死 
       綱利の側近、綱利の初入国に際しその行列の華美に過ぎるのを咎められたという・・・・?          断絶カ

寛文五年六月
  ・五百石   平野三郎兵衛   躮三郎兵衛ニ元禄三年三拾人扶持被下之     平野弥平家

寛文九年十月
  ・五百石   西川与助      元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付、躮弥右衛門御勘気被成御免、
                       五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ召加候
       秀吉から感状を賜った高名の士、陽明学徒追放により国内宇土に閉居した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西川均家 

寛文十一年八月
  ・五百石   佐分利兵大夫    躮佐分利七兵衛ニ元禄四年三十人扶持被下候   佐分利彦右衛門家(弐百石)

延宝六年七月
  ・六百石   大河原治部進    元禄三年妙解院様五十年御忌之節御勘気御赦免被成、十人扶持
                        被下之、元禄五年甥大河原源八養子ニ被仰付右之御扶持方被為
                        拝領、側御中小姓与ニ被召加候            不明

延宝六年九月
  ・千石    丹羽亀之丞      元禄三年妙解院様五十年御忌之節御勘気被成御赦免、三十人扶
                        持被下之                           不明

天和三年六月

  ・五百石   佐藤八郎右衛門  元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付、躮団之允御勘気被成御免、
                       五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ被召加候    不明   

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