津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

宝暦の改革--番外編

2007-12-10 13:28:03 | 歴史
 宝暦の改革で引き合いに出されるのが上杉鷹山(治憲=ハルノリ)だが、あちらにはケネディやクリントンが付いたから、改革の先達である肥後細川もどうも旗色が悪い。しかし鷹山が肥後における改革を意識した事は間違いないだろう。
鷹山は高鍋秋月藩の次男坊だが、生母(春姫)が上杉綱憲女(秋月藩黒田長貞室)の女であったことによる。綱憲(四代)はあの吉良上野介の嫡男(生母富子が二代定勝女)だが、継嗣綱勝(三代)に跡継ぎが居らず上杉家を継いだ。五代が嫡子吉憲、六・七・八代は吉憲の子で兄弟である。そして鷹山が養嗣子となった。熊本における「宝暦の改革」を、堀平太左衛門が宝暦二年に大奉行に就任した時をスタートとするならば、鷹山の誕生が宝暦元年、養嗣子となったのが宝暦十年、家督を継いだのが明和四年である事を考えると、いかにも同時期とするような扱いには同意できない。上杉家は20万両の借財を三代で、細川家は重賢一代で40万両の借財をゼロにしたといわれる。
 
 余談だが人吉相良藩はよくぞお取潰しにならなかったと思われるほど、何代にもわたり跡継ぎ問題がぐちゃぐちゃになっているが、鷹山も一時期相良の跡継ぎ候補になったことがある。結果としては弟民部が養嗣子となった(相良晃長)。民部の叔母寿昌院が相良長在室であった事による。
長在--頼峯==頼央==晃長となる。女系をたよって両家は続いた。
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