津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

千代姫様に非ず

2007-11-23 14:05:29 | 歴史
 慶長五年正月忠利は証人として江戸へ赴く。慶長九年父・忠興が煩い、容態が案じられ「御存命之内御対面被成候様ニと両上様(家康・秀忠)被思召」により、急遽豊前に下国する。初めての豊前入りであった。その後忠興は本復するわけだが、この折に忠利は家督する事になる。家康の御証書には「忠興任内存」という文字が見えるが、忠興の本意であったのだろうか。十三年小笠原秀政女(千代姫)を将軍秀忠の養女として、忠利との縁組が決定。秀忠の養女というのは、千代姫の生母が家康の嫡男・信康女であることによる。

 さて本題、綿孝輯録によると忠利夫人の名前は細川家家譜には記載がなかったらしい。この縁組に当たり、小笠原家からの御附で細川家に来た岩間六兵衛(武田信玄嫡孫)家記に、「御せん様」とあり、又松井直之所持の系図にも同様の書き込みが有った。故にその後「おせん様」とされてきたが、寛政五年に「御系譜」を差し出すに当たって、小倉小笠原家に問い合わせ等を行い両家ともに「千代姫」としたという。婚儀当時の綿孝輯録の記述等に「千代姫」とあるのは、その編年がずっと下っていることによるが、当然婚儀当時は「おせん様」であったのだろう。・・・目からうろこ・・・
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お詫び | トップ | 綿孝輯録・巻五十五 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事