津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

発掘

2007-11-01 15:37:44 | 徒然
 熊本市を貫流する白川を、市の中心部から大甲橋を渡ってすぐ左に折れると白川小学校がある。藩政期膨張する市街は白川を越えてこの当たりに屋敷町が出来た。「新屋敷町」というが、このあたり白川の左岸一帯は川幅を拡幅する為の工事が予定されていて、あちこちの建物が取り壊され虫食い状態にある。そんな一画、ちょうど白川小学校の前で、文化財の発掘調査が行われている。所用の帰り道にちょっと自転車を止めて覗き込んでみた。何かが出たのかどうかは分からないが、沢山の丸いくぼみが見て取れる。深さは1mから1.5mといったところだ。基礎らしいものがないから、建物ではないのだろう。周辺部をよくみると、地層が五層になっていることが見て取れる。水害とか火山の噴火によって堆積したものであろうが、縄文・弥生から今世紀までの歴史が感じられる。私はこの小学校のOBが通った白川中学の卒業生だが、その学校でも校庭を掘り返すと土器のかけらが出てきたものだった。水場が近く住みやすい場所だったのだろう。アルバイトの人であろうか、楽しそうに頑張っておられるのが印象的だった。
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あま姫(遥林院)様のお供

2007-11-01 08:50:17 | 歴史
 前のブログに書いた、春日局三男稲葉正利肥後配流事件で、その世話役を仰せつかった松下市之進は、旧・加藤家家臣である。父親の死後加藤忠利に跡目知行1,000石を宛がわれている。父親の松下壱岐は清正に仕え1300余石。清正の死去後のことだが、清正愛娘のあま姫の徳川頼宣への輿入れのお供をしている。壱岐があま姫附として、紀州徳川家に留まったかどうかは定かではない。
 西条上総助長綱--西条若狭守長則--松下飛騨守意綱--松下壱岐
と繋がる松下家だが詳しい事は分からない。
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春日局三男・稲葉正利の肥後配流

2007-11-01 08:29:58 | 歴史
 あの春日局は細川家に利殖を頼むなど、特別の関係が見える。位人臣を極めたが頭の痛い問題が一つ在った。徳川忠直の家老を勤めた三男稲葉正利のことである。忠直の死(寛永10年)と共に、正利は細川家に預けられる(寛永11年)。春日局の希望もあったようだが、徳川家光も承知であったらしい。細川家に預けられた正利は、奇行が多く細川家を困らせている。細川家家臣で、春日局の実兄齋藤利宗の女婿・松下市之進が世話役を務めた。正利の肥後での生活は42年に及んだ。側に在った「いわ女」との間には「三内」という子をなしたが、夫々亡くなっている。春日局も正利の肥後預けから九年後の寛永20年に死去、預かった細川家においても忠利が亡くなり光尚の時代になっている。

 6/9ブログ「肥後藩士小栗氏」に書いた越後事件に於いても、幼い兄弟四人の配流は40年に及んだ。罪とは何か、罪を償うという事はどういうことかを考えさせられる。
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