津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興義弟・木下延俊

2006-04-09 12:11:28 | 歴史
 木下延俊は豊臣秀吉正室高台院(ねね)の甥に当たる。長兄は歌人として有名な木下長嘯子(勝俊)、次兄は足守藩主利房、関ヶ原戦において東軍に寝返った小早川秀秋は弟である。延俊の正室は細川幽齋女・加賀、よって忠興と延俊は義兄弟ということになる。二人の親密ぶりは、二木謙一著「慶長大名物語」等に詳しい。延俊・加賀夫妻の間には二男三女があるが、男子は早世している。詳しい資料が無いからはっきりしないが、二人の結婚はまだ秀吉が健在の頃ではなかったろうか。
 慶長五年細川幽齋は、居城田辺城を石田三成の命をうけた一万五千の軍勢に取り囲まれて籠城する。その攻撃陣のなかに、「木下右エ門大夫延俊人數」が出陣している。「父肥後守家定ハ播州姫路城主二万五千石大坂ノ城留守居ナルユヘ姫路ハツ子ニ延俊留守居シテコゝニ人數ヲイタス」と田辺籠城之図に書き込みがなされている。延俊にとっては、岳父である幽齋を攻めるということは出来ない相談であり、板ばさみの決断であったのだろう。そんな状況の中で延俊は、家老中村神左衛門をして幽斎が籠城したことを、九州の杵築にあった細川家家老松井佐渡に、「固めが堅固」であることを報告している。延俊の心情が伺えて興味深い。翌年慶長六年延俊は日出藩三万石の藩主となる。室・加賀は慶長九年に日出で亡くなっている。継嗣の誕生は慶長十九年というから、約十年間はかわいい娘三人の養育に勤しんだのかもしれない。
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清華家「久我家」

2006-04-09 09:03:27 | 歴史
 細川家と深い関係がある公家に清華家の久我家がある。下れば女優久我美子の名を見ることが出来るが、祖父常通氏は元侯爵である。遡れば大友宗麟の女が嫁した久我三休や、その甥下津棒庵(加藤清正臣→細川家臣)などが、良く知られる。さて細川家との縁戚関係はかなり濃密である。細川綱利養女(実・弟、初代新田藩主細川利重女)が、久我惟通に嫁した事に始まる。その子久我通兄の女(婦由姫)が八代細川重賢に嫁した。重賢の孫(九代・治年女)が通兄の曾孫通明(養子・中院通継子)に嫁し、通明の妹が五代新田藩主細川利致に嫁している。ちなみに、久我通兄の女(重賢室・妹)は東久世通晴に嫁しているが、東久世家を遡ると久我祖秀(下津棒庵)の三男が東久世通廉である。
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