津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■10月25日・八代萩原堤にて

2014-10-26 09:46:02 | 徒然

                                      

                                 西南戦争に於いて八代萩原堤で戦死した、宮崎八郎の顕彰碑

 

                                     

                     宮崎八郎顕彰碑の横にある追分の石碑。右人吉、左熊本とある。石の表面が剥離し始めている。

 

                                     

                      追分の石碑の左隣にあった山頭火の句碑。文字の彫が浅く写真でははっきりしないが・・・・

                                   このみちや いくたりゆきし われはけふゆく

                      行乞記のトップに書かれた句である。
                      昭和5年9月9日八代駅からほど近い萩原の堤でこの句を読んだ山頭火は翌日日奈久へ至っている。

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松岡正剛氏による宮崎兄弟論 (MA)
2014-10-26 23:45:29
宮崎八郎は荒尾村出身の自由民権運動家であり、その弟が孫文を支援した宮崎滔天(寅蔵)であり、宮崎滔天の長男が柳原白蓮(伊藤燁子)と駆け落ちした宮崎龍介ですね。

『松岡正剛の千夜千冊 宮崎滔天 三十三年の夢』のホームページは詳しいです。
http://1000ya.isis.ne.jp/1168.html

司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は、文庫本でいうと5冊目の半ばあたり、宮崎八郎が登場してきて俄然おもしろくなってくる。

 「肥後荒尾村」という一章があって、宮崎八郎が育った熊本(白川)県荒尾の様子が詳しく綴られ、例の司馬流のゆっくりした蛇行解説がすすむなか、しだいに八郎が西郷の挙動に近づいていくというふうになっている。ぼくが最初に宮崎八郎を知ったのは、この小説のなかでのことだった。

 宮崎八郎は“九州のルソー”と言われ、多くの青年にその存在を知られた。理由がある。ひとつは”日本のルソー”と謳われた中江兆民(405夜)の「仏学塾」に学んでいたこと、もうひとつは次の漢詩が有名になったことだ。

危言ひとり乾坤を貫かんとす

誰が知らん凄月悲風の底

泣いて読む盧騒(ルソー)の民約論

最後の行は「泣読盧騒民約論」となっている。漢詩ふうに「キュードクるそーミンヤクロン」と読む。これが青年の口の端から口の端へ伝えられていったのだ。だからルソーと宮崎八郎は切っても切れないものと思われていた。司馬もそのことに関心をもったようで、『翔ぶが如く』では、その謎に少しだけ介入していた。
(中略)
そこへ西郷の生徒たちの挙兵である。八郎はその挙兵に呼応し、一気に西南戦争の前線に駆けつけた。「徴集隊」という。
この義挙は、今日の見方はともかく、当時としてはかなり意外なものだった。ルソー主義なら大半が自由民権や議会主義に靡いていたのに、ひとり八郎がそうした動きに背いたかのような西郷の挙兵に、勇躍して加担したからだ。中江兆民はこの知らせを聞いて、八郎が本気でそのようなことをしようとしているのかどうか、わざわざ九州に下向して真意を問うたほどだった。それほど西郷に加担することは、当時は異様に見えたのだ。
 しかし八郎は莞爾として答えたという。「西郷どんに天下をとらせて謀反するのも一計ではありませんか」。
 まず西郷に勝たせて、それから真意を問えばいいというのである。その前に西郷をつぶすのでは、日本が見えなくなるというのだった。兆民は青年に宿る大きなものを感じて、納得した。
 けれども八郎はその西南戦争の陣中、八代萩原の一戦に戦死する。享年わずか26歳。それが宮崎八郎の全生涯だった。
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