津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明治八年松平春嶽公夫人「勇姫様」熊本入り

2017-01-13 07:14:14 | 歴史

昨日ヤフオクに「顕光院様(齊護御室)、御前様、鳳臺院様益御安泰・・・」云々という文書が出ていた。
これは顕光院様(齊護夫人)、御前様(韶邦夫人)、鳳臺院様(齊護嫡男慶前夫人)がお国入りをされるについての文書のようだ。
実は正月休みの中、吉村豊雄著「幕末武家の時代相」をよんでいたら、この御三方の帰国の模様が記されていて興味深く読んだ。(下巻p42~50)

そんな中ふと福井県立文書館史料叢書にある 「越前国松平家家譜」 の記事を思い出した。 pdfファイル:766KB
春嶽夫人勇姫様は、細川齊護公の息女だが生母は浅野安藝守齊賢女・益姫(顕光院)である。
明治八年五月顕光院が病床に伏すというニュースに接して、勇姫は見舞いのために熊本に向かっている。
勇姫は江戸藩邸龍口邸の生まれであるから、熊本に地に足を運ばれるのは生まれて初めてという事になる。この時期42歳か(?)

                                                                              勇姫

一、五月廿八日御簾中様御儀本日午前第七時真崎御邸御発車、白川県下熊本表江御出立被遊候、正二位様御同車新橋停車場迄御見送被遊候、正四
   位様・御前様・信次郎様・細川正四位様・細川従四位様・津軽従四位様神奈川駅迄御送被遊、藤沢御泊迄中根新被遣、 明朝之御発駕見上ケ罷
   帰、御機嫌奉申上候 但シ東海道通り神戸御乗船、下之関江御着船、夫小倉へ御渡り、陸通り熊本表江御着被遊候 正二位様より左之御哥被進相
   成候 君のかへり給ふを   としゆきてとくかへりませ何となくいまたわかれの袖のむら雨
                  朝な夕な我菴崎に待乳山ひとり千秋のこちこそすれ
一、六月五日御簾中様御道中無御滞、本日熊本県江御着被遊候旨電報 相達候条、細川様御直書ヲ以被仰進、御安慮被遊候
一、七月六日 細川正四位様御家従板垣信康 右熊本県昨日着、顕光院様・御簾中様より之御伝言旁、尚御 機嫌為申上出頭
一、七月十日熊本表電報、顕光院様御容躰去る九日朝より余程御不出来故、御簾中様御発途御日延相成候旨、委細御使者ニ而被仰越 候旨被仰遣候
一、七月十八日熊本表より御家従山田喜一と申者到着参上、顕光院様御容躰委細申上、且御簾中様御発駕御日延御願被遊候条言上、御 両君様御同
   坐御聴取被遊候
一、七月十九日御簾中様御儀、本日熊本表御発駕被遊候旨電報相達候
一、七月廿日熊本表之電報細川様為御知 顕光院様近日御快ニ付、去ル十九日御簾中様御発途被遊、其後幾許之御不出来ニ而極々御気遣ニ寄、細
   川御両所様ニも為御看 病急々御下県御願相成り候ニ付、御簾中様にも御引返し願置候 との御主意ニ候 同日六時到着熊本より之電報細川様為
   御知 顕光院様御儀十九日午後五時過俄之御不出来、廿日午前一時 御縡切恐入候ニ付、細川御両所様速ニ御下県奉願候条、御簾中様ニハ御途
   中より御引返シ被遊候御儀、佐野久電報ヲ以申上 候 顕光院様御様子御替り、依而御途中御引返被遊候ニ付、御日延御願御差出可相成様との御
   事也

顕光院は二十日死去した。70歳であった。

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