古文書の文意を理解するには苦労が伴うが、例えば下記の「御歸國御禮御献上物」などという言葉も、帰国後の事かと理解するとこの文章は読み解けない。
これは、帰国の「暇」を頂戴し将軍家に献上物をして江戸を発った後、その献上品「干鯛」の「品柄宜しからず」として、「お下げ」すなわち突き返された。
当時の藩主は斉茲公であるが、「御代々様参勤帰国」を眺めると、寛政八年の帰国については「一、同八年四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿三日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行 五月九日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月朔日熊本御着」とあるから、帰国の御礼が4月18日だったことが判る。
「干し鯛」には「カビ」でも付いていたのだろうか?それにしても随分時間が経過している・・・・
江戸藩邸からは急使として長塩角大夫(400石)が7月8日に江戸を発って急ぎ帰国し復命した。
下の文書は22日付けとなっているから、長塩は14日ほどで江戸から帰国したことになる。
これにより斉茲は「御差控」を幕府へ願い出るとともに、領内にも謹慎を命じた。長塩にその旨が託され急遽江戸へ下ったたのであろう。
音曲鳴り物は禁じられ、大工仕事も不可、士分の者は月代を剃ることが禁じられた。屋敷の門は閉じられ、馬の調教なども差し控えた。
8月に入ると幕府から「御差控に及ばず」との沙汰があり、領内謹慎の沙汰は取り消された。
この文章からは読み取れないが、将軍家に「不良品」を献上したからには、関係者の処分や江戸藩邸内の「謹慎」、使者の上下、また領国の士分並びに領民の謹慎など「一大事」であり、事態の収拾がどのようになるのか声を潜めていた状況が想像できる。
寛政八年の夏は白川の大水害で城下は甚大な被害を受けている。加えて「謹慎」生活で一段と鬱陶しい夏となった。
寛政八年七月御達
一御歸國御禮之御献上物之内、干鯛品柄不宜旨ニて御下ヶ/ニ相成候ニ付、右之段申上候為、長鹽角大夫儀去ル八日
江戸表差立候段申來候、依之角大夫嫡之上、太守様御差/扣之儀御伺日遊筈候、尤右之段被遊御承知候事ニ付、其
内之儀も御内證は諸事御慎被遊候條、其旨相心得可被申/候、此段觸支配方へも可被申聞置候、以上
七月 奉行所
一御歸國御禮御献上物之内、品柄不宜由ニて御下ヶニ相成/候ニ付、太守様御差扣之儀江戸え以御使者被遊御伺候、
依之御領内一統諸事相慎、火用心別て入念、音曲鳴物繕/作業等相止可申候、尤御家中は長髪ニて罷在、屋敷/\
ハ大門を閉置候様、且又責馬相止、口入之儀は御厩又は/追廻ニて不苦、尤仰山ニ無之様相心得可被申候、此段觸
御支配方へも可否達候、以上
七月廿ニ日 奉行所