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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大暑

2025-07-22 21:39:36 | 俳句

        鬱憤や声をあらぐる 大暑かな     津々

 脳梗塞を起こしてからの妻には、思いがけない変化が出てきて驚かされる。
カレーの皿をスプーンでカチャカチャ音を立てて食べるようになった。思わず「うるさい」と怒鳴ってしまう。
みそ汁の出汁の「袋」を破ってしまって、お椀の底にはそれらが異物のようにたまっている。「なにやってんだよ・・」
かっては愛用のiPadをひらいては、料理のレシピなどをみていろんな料理を出してくれたいたが、オリジナルの料理が作れなくなり、近くのスーパーから出来立ての総菜をかって盛り合わせるというのが毎度のこととなった。
iPadは全く開かなくなり、いろんな買い物をしていたがこれがすっかり止んでしまった。
眼も悪くなっていて、レトルトなどの説明書が読めないと一々声を掛けてくる。鬱陶しいことこの上ない。
いろんなことがかさなって、まずいとは思いながら少々声を荒げてしまう。「ごめんね・・」と返されると反省しきりである。
失語症もあって会話が成り立たず、本人もいらいらがあるのだろうから、こちらも余り声を荒げないように心掛けなければならない。
今日は大暑それにしても熱い・・後2ヶ月ばかり我慢しなければならないかと思うと、欝憤も大いにたまるというものだ。

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■献上品の不具合

2025-07-22 08:52:42 | 歴史

 古文書の文意を理解するには苦労が伴うが、例えば下記の「御歸國御禮御献上物」などという言葉も、帰国後の事かと理解するとこの文章は読み解けない。
これは、帰国の「暇」を頂戴し将軍家に献上物をして江戸を発った後、その献上品「干鯛」の「品柄宜しからず」として、「お下げ」すなわち突き返された
当時の藩主は斉茲公であるが、「御代々様参勤帰国」を眺めると、寛政八年の帰国については「一、同八年四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿三日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行 五月九日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月朔日熊本御着」とあるから、帰国の御礼が4月18日だったことが判る。
「干し鯛」には「カビ」でも付いていたのだろうか?それにしても随分時間が経過している・・・・
江戸藩邸からは急使として長塩角大夫(400石)が7月8日に江戸を発って急ぎ帰国し復命した。
下の文書は22日付けとなっているから、長塩は14日ほどで江戸から帰国したことになる。
これにより斉茲は「御差控」を幕府へ願い出るとともに、領内にも謹慎を命じた。長塩にその旨が託され急遽江戸へ下ったたのであろう。
音曲鳴り物は禁じられ、大工仕事も不可、士分の者は月代を剃ることが禁じられた。屋敷の門は閉じられ、馬の調教なども差し控えた。
8月に入ると幕府から「御差控に及ばず」との沙汰があり、領内謹慎の沙汰は取り消された。
この文章からは読み取れないが、将軍家に「不良品」を献上したからには、関係者の処分や江戸藩邸内の「謹慎」、使者の上下、また領国の士分並びに領民の謹慎など「一大事」であり、事態の収拾がどのようになるのか声を潜めていた状況が想像できる。
寛政八年の夏は白川の大水害で城下は甚大な被害を受けている。加えて「謹慎」生活で一段と鬱陶しい夏となった。 

    寛政八年七月御達
   一御歸國御禮之御献上物之内、干鯛品柄不宜旨ニて御下ヶ/ニ相成候ニ付、右之段申上候為、長鹽角大夫儀去ル八日  
    江戸表差立候段申來候、依之角大夫嫡之上、太守様御差/扣之儀御伺日遊筈候、尤右之段被遊御承知候事ニ付、其
    内之儀も御内證は諸事御慎被遊候條、其旨相心得可被申/候、此段觸支配方へも可被申聞置候、以上
      七月            奉行所
   一御歸國御禮御献上物之内、品柄不宜由ニて御下ヶニ相成/候ニ付、太守様御差扣之儀江戸え以御使者被遊御伺候、
    依之御領内一統諸事相慎、火用心別て入念、音曲鳴物繕/作業等相止可申候、尤御家中は長髪ニて罷在、屋敷/\
    ハ大門を閉置候様、且又責馬相止、口入之儀は御厩又は/追廻ニて不苦、尤仰山ニ無之様相心得可被申候、此段觸
    御支配方へも可否達候、以上
      七月廿ニ日         奉行所

 

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■「寿賀廼舎日記抄」をたどる(37)

2025-07-22 07:01:41 | 寿賀廼舎日記抄

(慶應二年)四月~五月 
四月三日 昼夜大早見紋駕二棹出駕一棹下り候、同夜六つ半頃大早下り候。
     鳳台院(細川慶前正室)様方、踊り御覧之れ有る由にて熊本町家踊子十二才以下の者ども御覧願出候由、下大津より子供四月朔
     日より出府仕り、御覧遊ばされ候由。
  十日 (大峯原二万人の大調練)
     太守様大峯原にて御調練、御人数二万人余と申し候、左右備長岡監物殿、有吉将監殿、殿り沼田殿との事なり、在中郡筒加人に
     召し出され候由、楯板持ちに角力取り御召出に相成り候。御同勢甲冑にて道押しに相成り候との事なり。
  十三日 福島準三郎下着、去る十二月二十八日より鶴崎御出張にて相詰め居り候処此の節御替合にて引き取り候。鶴崎残らず替合に相
      成候。近日京都替合多く之れ有り。
  十四日 京都詰仰せ付けられ候高木和太蔵、岡田彦助、安藤常蔵宮籠り仕り候、町内近郷中拝殿にて離盃御座候。
      財津先生代見二人同勢五十人余り上京に相成り、十五日夜当所止宿に相成る。高木列十六日朝出立仕り候。
      十五日六つ時分大早二駕下り候。
  十八日 柊木(たぶの木)水元上り。
  十九日 住吉行。
  二十三日 平野殿上り、鎌田殿上り。近日大早上り下り多し。
  二十六日 宇野播磨より監察判受取り同人え酒迎候。
  二十八日 山辺紀伊、坂本伊予、石原大和同道にて来る。大和儀嘆願之れ有り候。
       梅雨入り候えども少しも降り申さず、植田も干し候位に相成り仍て分水御座候
五月朔日 昼頃より梅雨相催し風起り雨強く相成り候。夕方は田中次郎衛門歓びに参り候。桂、吉川、宇野、右田、植田其の外町内の面々
     も同座候。右は陣内道杉岡三十郎宅え引き移り候、三十籠は林方の参り候、川辺村役宅に候。
  二日 上し風にて雨降り候、三日昼頃まで追々雨降り候。
     当時夏酒上一升拾二匁、白米一升五匁六分、餅米一升六匁八分にて御座候。酒一升八匁八分売、揚酒屋より売り上ぐる様御達し
     に相成り候、それより高値に売買し候者は酒保手御引き上げとの御達しに御座候。
五月節句 曇、雨降らず。
  六日   同上
  七日 鶏鳴頃より雨降り出し風吹く。
  九日 梅雨催し。
  十五日 晴。
  十六日 朝夕寒く相成り候処十七日の朝霜降りたる由にて大豆の葉まで枯れ候。
  十九日 朝までも同様寒く袷重ね着申し候。
  二十日 鶏鳴頃より雨降り出し四つ頃より風起り強風雨にて竹の子過半折れ候。夜九つ風止む。
  二十一日 雨大降り、昼頃小降りに相成る、それより降り続き候。
       御様子之れ有り寺社方より米銭の拝借並に当分御振替とも暫く差し止められ候条、此の段御指配の寺社中へ御達し候。以上。
            五月十四日    寺社方御奉行中
       宮川慶種大宮司仰せ付けられ候、宮川若狭社家頭副役仰せ付けられ候段御達しに相成る、四月二十七日。
  二十六日 社の間敷など改め、御惣庄屋並に横目御家人小頭など参り候。
  二十七日 御郡代片山八郎助殿初対面に相成る、社方より一人も出仕仕らず。
  
  

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