津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ご恵贈御礼・いつも隣に山頭火

2022-02-11 09:21:10 | 書籍・読書

                     

 著者の井上智重先生から御著「いつも隣に山頭火」をご恵贈たまわった。事前にわざわざメールまで頂戴した。厚く御礼申し上げる。
私は、山頭火に関しては所蔵する句集を時折眺める位で、あまり詳しい知識を持っていない。
しかし、まことに素直に心の内を表現する山頭火の句には心惹かれるものがある。
御著と一緒に、五木寛之氏の読評文が添えられていたが、五木氏の心をとらえたようだ。「いい本だ」と感嘆されている。
井上先生のいつもながらの穏やかな文章が、山頭火のやさしさを際立たせている。ご一読をお勧めする。
ご厚誼に感謝申し上げる。

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■興秋の系類 鍋→伊千→吟とその周辺(2)

2022-02-11 07:10:50 | 先祖附

 現在の新町3丁目あたりを昔は木下町と言った。藩政時代、豊臣一族の木下氏の屋敷があったが故である。
木下氏が入ったのがいつの頃からかは判らないが、以前は、細川興秋女・を奥方とする南条元信の屋敷であった。
鍋が幼い娘・伊千と共にこの屋敷に入ったのだろう。

元信は、伯耆国(鳥取)東3郡6万石を領有した南条元続の弟、小鴨元清(元宅)の嫡孫である。
元清は
病に倒れた兄・元続を補佐したが、兄の死後秀吉により宇土の小西行長の許に遣わされた。小西没落後加藤清正に仕えた。6,000石。嫡子勘三郎が病身であったため孫の元信が跡を継いだ。元信の幼少期については詳しく承知しない。
「熊本藩年表稿」などを見ても、元信や鍋・伊千の記録は見当たらない。

「福岡県史・近世史編-小倉細川藩」に該当する、熊本藩における資料(奉行所日録)が刊本化されていないので、なんとも歯がゆい限りである。
其の後、元信の話は、細川綱利の時代寛文九年に突然登場する。この年の十月陽明学徒の追放事件が起きた。幕府の異学禁止に連動したものである。
19名が追放されたが切支丹関係者が交っていたとされるが、元信も告訴する者があって藩庁の調べる所となったが、容疑はなくただ長崎奉行所へはその旨が報告された。
当然長崎奉行所は幕府へ報告したが、事は切支丹に関係する事であり、元信は長崎奉行所へ召喚される。
細川一族である南条元信の長崎行きは、大名並みであったと記録が残る。長い調べが行われ有耶無耶の内に放免されたという。迎えの舟がだされ、行き同様の形で帰国した。その後の元信は終生質屋(牢)暮らしを強いられることになる。
詳細は次回・・・


     長岡與五郎興秋                                                                     
          ‖------------                                        
     氏家元政女●            ‖--------伊千          
     南条元清 ----勘三郎----元信       
                        

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