津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(432)寛永六年・日帳(七月廿八日~廿九日)

2020-12-16 08:37:17 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年七月)廿八日~廿九日

         |                 
         |     廿八日  奥村少兵衛
         |
         |             (神ヵ)
馬舟ニ有明黒ヲ乗 |一、今度御馬船之御船頭ハ九右衛門尉也、但、有馬黒之御馬のせ上り候也、
セ上ル      |                 (亀右衛門)   (文右衛門)
鉄炮足軽出府   |一、御鉄炮衆弐拾人被成御上せ候、内井門与大塚少左衛門・西沢与手嶋次左衛門・横山助進与井上九
         |  兵衛、此三人ニ京衆へ之状渡、遣候也、
         |一、右御馬のさいりやう仕上り候間御鉄炮財津惣左衛門尉与岡久右衛門尉・国友半右衛門尉与帆足十
江戸諸方ヘノ状  |  左衛門、此弐人ニ我々言上之文箱、中ニ御金山ゟ之言上も有之、又江戸諸奉行衆、其外方々へ之
         |  状とも相渡、遣候也、
         |一、安場仁左衛門尉中津へ 御目見え罷越、 御前ニ被 召出、御菓子なと被下、仕合残所も無御座
         |  由、被申候事、
         | (沼田延之) 内越智善兵衛 内友松九左衛門 内塩木茂助
忠利書状ノ覚   |一、勘解由殿〇備前殿〇監物殿〇衆、江戸ゟ罷下候ニ持下申 御書之覚
         |      (小笠原備前)(米田是季)
         |  一、三斎様へ被進之御状壱つ、
         |  一、御こほ殿へ被進之御状壱つ、慥ニ請取申候 杉原二郎兵衛(花押)
         |  一、御金山衆へ被成遣候御書壱つ、
         |  一、修理・兵庫ニ被成下御書壱つ、
         |                  慥ニ請取申候  
         |  一、式ア少殿へ被成遣候御書壱通、 式ア内 杉原二郎兵衛(花押)
         |
続重政痰薬ノ拝領 |一、続亀介ゟ、少右衛門尉を以被申聞候ハ、此中たんを相煩、さん/\の躰にて罷有申候、承候ヘハ、
ヲ願ウ      |  殿様御たんの御薬何れもへ被遣ため、御広間ニ御座候由、承及候間、拝領仕度由、被申候間、
         |  御本丸へ御登城候而、御番衆へ被仰届、御請取可有由、申渡候也、
忠利書状ノ覚   |一、江戸ゟノ御書、式ア少殿ゟ持せ被下候覚
         |             慥請取申候
         |  一、いよ殿へ 御書壱つ、 大嶋喜右衛門〇(黒印)
         |  一、金山衆へ 同壱つ、
         |  一、修理・兵庫ニ被下御書壱つ、
長岡孝之室幷同女 |   (長岡孝之)細川幽齋四男  
小万ノ川口切手  |  一、休斎様御内儀殿幷小万様御湯治被成ニ付、川口被成御出候 御印〆切手壱枚、

         |                 
         |     廿九日  安東九兵衛
         |
忠利松丸ノ葬儀ニ |一、長岡式ア少輔殿ゟ使者を以被仰聞候は、松丸殿御吊ニ入江仁兵衛を被成御下候、左様ニ御座候へ
入江仁兵衛ヲ下ス |  ハ、甚兵衛やかて春光院へ可有御参と存候間、前かとニ御知せ候而可被下候、仁兵衛寺へ不被参
         |  内ニ、先ニ参候而相待申度間、頼存候由、被仰下候、得其意存候、追而従是可申上之由、申候也、
牢死       |一、財津惣兵衛被申候は、江戸にて籠者被仰付候上林七太夫女房、夜前病死仕候由被申候、せかれ茂
         |  煩候而、廿日前ニ相果申候由、被申候也、
         |
湯治願      |一、矢嶋平三郎痔煩申ニ付、川田那■へ湯治仕度候間、御暇被下候様ニと、吉田源七郎を以理候間、
         |  御年寄衆へ申候而可被参通、申渡候事、

〇八月二日分ヲ誤リテ本冊末尾ニ記録セリ、「毛利甲斐守殿ゟ」以下三項(五十三丁裏面)ハ襷掛ケニ抹消ス、

         |     八月二日
         |      (元五)
         |一、江戸ゟ、志水伯耆者一人、又小谷忠次郎与之御長柄衆忠七と申者、夜前九つ時分ニ参候、
         |  一、我々へ成被下 御書壱通、
         |  一、三齋様へ被進之御状壱通、
         |     (秀元)  (益田元祥)  (宍道元兼)    (本山、長門厚狭郡)
         |  一、毛利甲斐守殿ゟ益玄蕃・完主殿所へ、 殿様ゟもと山にて隼御おとし被成候■■やうニとの御
         |    状之由事、
         |                 (立政)
         |  一、かわや九郎左衛門所へ、道家左近右衛門・山本三四郎ゟノ状壱通、
         |      (辰珍)                                (志水元五)
江戸ヨリノ音信物 |  一、津川四郎右衛門尉殿、間太郎介所へしふかミ包壱つ参候、是ハ伯耆ものすくニ渡申由、御長柄
覚        |    ノもの申候、
請取       |  一、道家左近右衛門殿・山本三四郎殿ゟ私所へ之御状、慥ニ請取申候、
         |                               かわや
         |                                 九郎左衛門(花押)

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■井上平太のお墓・・(2)

2020-12-16 07:05:31 | 熊本

 平成肥後国誌の編著者・高田簾一先生に御案内いただいて、随分あちこちと出かけたが、先生の20年以上前の記憶を頼っての事だったから、とうとう見つけ出せなかったものがいくつかある。そのなかに、小泉八雲の小説「停車場にて」に出てくる細川藩士・井上平太のお墓をさがして、谷尾崎に出かけたのは2014年の7月29日のことだった。
                ■井上平太のお墓・・・
先生が亡くなられる1年前の事である。

 先生を尊敬してやまない史談会の若い友人N君は、一人谷尾崎を訪ね探し回ったようだが、これも発見できなかった。
そんな彼が、今年の11月29日熊本森都心プラザ図書館の主催で「平成肥後国誌について」対談方式で講演を行った。
60人ほどの人が来場されたというから大成功である。
そんな中彼は、この井上平太のお墓をまださがし得ないことを話し、御存知の方が有れば教えていただきたいと乞うたらしい。

 昨晩N君からの連絡で、そのお墓の写真や場所が記された地図が送られてきた。ある方からの情報によってである。
写真はご了解を得ていないからここに掲載はできないが、場所は以下の所である。

 井上智重氏著の「異風者伝」に「井上平太」が登場している。これによると、どうやら井上の屋敷が谷尾崎にあったようだ。それは上林の居宅が西南ノ役で焼失した後、谷尾崎に在った妙解寺の別院跡に引っ越したそうだ。
彼の事だから、暖かくなったらまた当地を訪ねて確認し、高田先生の霊前に報告するのだろう。

    

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