津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(一)

2020-12-04 14:57:52 | 書籍・読書

                                                         

 私の本棚の数々の古びた本の中に、吉川英治の「日本名婦傳」がある。
随分古い本で、初版は昭和十七年一月廿日で、私が生まれた日の翌日である。
私が所蔵するこの本は翌年の十一月十日の第四刷で、一年十ヶ月で都合105,000冊発行されており、大ベストセラーであったことが判る。
「序」に曰、「いま、大東亜戦争のまたゞ中に、一しほ世の母を拝まずにはゐられない。世の女性の力に大きな期待をかけずにはゐられない。
戦ひは生みの業である。また、女性の力のかゝつてゐない戦ひはない。」と・・・

私は、吉川が戦争肯定者であったか、否かは知らないが、大楠公夫人・太閤夫人・谷干城夫人・小野寺十内の妻・(頼)山陽の妻・細川ガラシャ夫人・静御前・
田崎草雲の妻、そして自らの母にふれて、武人または武人ならずともその夫を支えた「名婦」を取り上げ、戦時の女性にその覚悟を促したかに見える。

こういう時期にベストセラーとなったことは、世の女性の関心の高さが有ったのであろう。

その中の「細川ガラシャ夫人」を取り上げ、数回にわたりご紹介する。
私と相年のこの本は、著作権が切れているのは当然のことである。

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     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (一)

 暁からの本能寺の煙りが、まだ太陽の面に墨を流してゐるうちに、兇亂の張本人、光秀の名
と、信長の死は、極度な壬申の愕きに作用されて、かなり遠方まで、國ゝの耳につらぬいて行
つた。
 わけても、勝龍寺の城などは、事變の中心地から、馬なら一鞭で来られる山城國乙訓郡にあ
るので、桂川の水が、白々と朝を描き出したころには、もう悍馬を城門に捨てた早打ちの者が、
「たいへんだっ」
と、人の顔を見るなり誰にでも怒鳴つて、やがて轉ぶが如く、奥曲輪のはうへ馳せこんでゐた。
 天正十年六月二日であった。
 木々の露が香ふ。風が光る。
 この頃の夜々の眠りの快さは誰しもであらう。起きてすぐ若葉に對ふ目醒めもすばらしい。
 生きてゐればこそと、生命の味ひと幸を、改めて思ふほど、肌をなぶる朝風が清々しい。
「・・・・・・」                うっとり
朝化粧をすましてもまだ彼女は、鏡に向つて、恍惚としていた。
わが姿の清麗に、見恍れてゐたわけでもない。生命に感謝してゐたのである。
「・・・・自分ほど幸福なものがあらうか」と。
 幸福といふものは、幸福と知った時、心から感謝しておかなければ、幸福とも思はず過ぎて
しまふものである。・・・・だから迦羅奢は、
「今ほど幸福な時はない」
 と現在の時分を噛み味はうとしてゐるのであつた。
 豫感といふものであらうか。その朝に限つて、迦羅奢は、特にそんな氣もちを抱いて、やが
て、いつもの朝のごとく、良人の忠興の居室へ朝の禮儀をしに行つた。
 すると、今し方まで、毎朝の日課として、弓を引き、兵書を讀みなどしてゐた氣配の良人が、
どこにも見えなかつた。
 縁端を見遣ると、小姓が一人で端座してゐる。
「御湯殿にお渡りか」
 迦羅奢がたづねると、小姓は
「いゝえ、大殿に召されて、西曲輪へお越しになりました」
と、いふ。
 西曲輪は、良人の父、幽齋細川藤孝の住居とされてゐる所である。
「お。さうか」
 とのみで、彼女は、裳を曳いて、そのまゝ自分の室にもどつた。そして乳母を招いて、暫し
乳母の手から、乳のみ兒の與一郎を膝へ取り、乳ぶさを授けてゐた。

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■細川小倉藩(421)寛永六年・日帳(六月廿四日~廿五日)

2020-12-04 06:51:33 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年六月)廿四日~廿五日

         |       
         |     廿四日  安東九兵衛
         |                                          (規矩郡)

山人鹿ヲ追ヒ海ニ |一、平井五郎兵衛被申越候ハ、古志村にて山人鹿を壱つ追出シ、さとへ追おろし、海へ入候を恒見
入ルヲ漁船突捕ル |                  にて
四またノ鹿ヲ上グ |  猟船参相候て、ほこにてつき留候由〇持来候間、差上候由にて、四またあけたるしゝ壱つ持来候
         |  也、岩田喜左衛門ニ申付、かわをはがせ、ミノ分は其所ノものニ遣候へ之由、平井五郎兵衛所へ
         |  申遣候也、
         |一、野間次左衛門尉せかれ、此中相煩候而、去廿一日ニ相果候由、安東九兵衛申候也、
         |  (松井興長)
豊後横目ヘノ音信 |一、式ア少輔殿ゟ、山瀬勘兵衛を以被仰下候ハ、豊後御横目衆への御音信、御ゆかた、明日被遣候而
湯帷子      |                                          (口才)
         |  可然存候、御使者ニは、歩の御小性衆可然存候間、左様ニ被成御心得候而、歩ノ御小性衆ノ内、かう
         |  ざいなる仁を可申付ノ由、被仰下候也、
         |                       (松井興長室、三斎女)
こほ母松丸ノ葬礼 |一、式ア少輔殿ゟ、山瀬勘兵衛を以被仰聞候ハ、御こほ殿めし候長ゑの御こし務御座候、御城ニ御座候
ニ長柄ノ輿ヲ求ム |  由、被聞召及候、前廉も光寿院様御葬礼之時、葬礼場へ出申由、被聞召候間、三丁かし被下候へ
城中ニナシ    |  かしと被仰ニ付、岡本少介ニ相尋させ申候へ共、無御座候由、申ニ付而、其通勘兵衛へ申遣候也、
         |一、松山権兵衛口御門番日置八左衛門尉、昨日病死仕候由、相番之村田久介申来候也、
         |一、石寺加兵衛、快気仕由ニ而、登城被仕候、煩も大形能御座候間、長崎へ可罷下由被申候、一段
         |  可然由、申渡候也、
         |                                (景広)
牢番山本某屋敷ヲ |一、籠之御番山本理兵衛、今まて屋敷持不申候、左様ニ御座候ヘハ、村上八郎左衛門尉下屋敷ノ内、
望ム       |  面口七間半・入九間半ノ所被下候様ニと申候ニ付、可被相渡由、中山左次右衛門尉ニ申渡候也、
         |一、少峯長崎へ罷帰候付而、猪膝ゟ長崎迄駄賃誾として、銀子壱枚相渡候付、判帳ニ付、大学殿へ判取
         |  ニ遣候処、大学殿ゟ被申聞候ハ、少峯長崎ゟ参候儀ハ、松丸様御煩ニ付罷越候、其段存候、又式ア
唐人少峯駄賃銀ニ |  殿ゟ中津へ被遣候儀も存候、長崎へ罷帰候とて、駄賃銀被相渡候事普請ニ存候由、被申聞ニ付而、
ツキ沢村吉重疑義 |                   (楯岡光直)
アリ       |  此方ゟ申候ハ、少峯此地へ参候儀ハ、鉄斎煩ニ付而罷越候、少峯中津へ参候処、 三斎様被成
ソノ問答     |  御諚候ハ、鉄斎煩ニ付而、小倉年寄衆共ゟよひニ遣し申由候、左候は、罷帰候時も長崎迄送遣可
         |  申と被為 思召候通、貴田権内・高橋兵左衛門尉方ゟ奉書被差越候、就夫、駄賃銀相渡申候、ふ
         |  かしからさる儀ニ 三斎様御諚とハ、此御帳ニ付不被申儀候故、右之仕合候通、返事申候処、重
         |                                可
         |  而被申聞候ハ、三斎様御諚と候ニ付而、判形ハ仕候、併、以来不審立申候間、其段書付置候へと被
         |  申付、此方ゟ申候ハ、重而御不審立申候時ハ、中津御奉行衆ゟ、我等共へ之奉書差出可申由申、
         |  子細を判帳ニハ書付不申候也、

         |       
         |     廿五日  奥村少兵衛
         |
豊後幕府横目へ音 |一、豊後御横目衆へ為御音信、御ゆかた十宛被進之、歩之御小性原久助御使者ニ参候、御年寄衆三人ゟ
信湯帷子十宛   |  もそへ状被遣候、江戸ゟ 御判帋参候ニ付而、式ア少輔殿にて、御書御調候而、右久介ニ御渡候事、
鉄炮小頭等再度登 |一、御鉄炮之小頭衆登城にて申候ハ、先度も如申上候、手前礑不罷成、うへに及申躰にて御座候、何
城借米ヲ願ウ   |                                                                                    (浅山)
浅山修理談合セン |  とそ御談合之上、御米少宛被借下候様ニと申候、修理申候ハ、此儀談合難究可有之候、併、成事
事ヲ答ウ     |  ニ候ハヽ、談合申見可申と申候事、
         |                                (次)
祇園浜手ノ門ノ鍵 |一、祇園はまてノ御門ノかぎ二つ弐つ、御用仕廻申候由にて、中山左ニ右衛門持参被シ候事、
返納       |             〃〃

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