細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より) 吉川英治
(五)
三戸野山の生活は、まる二年つゞいた。
山深い尼寺に、尼よりもさびしく暮してゐたが、いつか木樵や里の者も、素性を知つて、
「叛逆人の娘ぢや」
「死にもせで、生きのびてゐる事よ」
と、垣の外を覗いて通つたりした。
三名の郎薹は、彼女が、何時ふと死の誘惑に負けて、自殺しまいものでもないと、その警戒
にも、片時も目を離さなかつたが、彼女が、露骨にうける辱しめや、危険で、さま/\な迫害
を防禦するためにも、二年前、どれほど氣をつかつたか知れなかつた。
「主殺しの娘に、糧は賣れぬ」
などゝいふ悪口やら、
「お前さま達は、御侍のくせに、大逆人の娘に仕へて、何でそんな忠義だてしなさるか。
主を殺した人間の一族には、世間がかう酬うぞと、思ひ知らせてくれたがいゝに」
と、面と向つていふ朴訥な里人の悪罵にも、凝と、忍んでゐるしかなかつた。
まして、伽羅奢自身は、うつかり出歩くこともできなかつた。
峰つゞきの寺へ、信長の期日と、亡父光秀の命日には、必ず参詣を缺かさなかつたが、被衣
をかぶつて出ても、駕に潜んで行つても、山家にはない美しさに、すぐ氣づかれて、
「光秀のぢや」
「逆賊の娘が、あのやうに美しい」
と、ぞろ/\從いて來たり、指さしたり、果は、小石を投げられたりした。
三戸野の炭焼の子で、お霜といふ十二三の小娘がゐた。お霜だけは
「お姫さま、可哀さうだに。・・・・可哀さうなお姫様だに」
と、里へ買物の使に行つてくれたり、自分の親の小屋から、食物を持つて來たりして、しま
ひには餘りなついて、伽羅奢のそばを離れない者になつた。
「童のきれいな心。有のまゝにものを映して見る澄んだ心・・・・」
伽羅奢は、それに習はうと努めた。
又、尼院なので、経文に親しんだ。亡き右大臣信長への供養に、毎日毎日、寫経もした。
その信長を討つて、一月ともたゝない間に、信長の臣、羽柴筑前守秀吉に亡ぼされ、土民の
手にかゝつて、その首は、一通りの多い都の辻に、幾日も曝し物にされてゐたと聞く・・・・亡父
光秀以下の一族のためにも、朝暮、回向の讀経をかゝさなかつた。
それは、山崎の合戦から二年目の・・・・天正十二年の二月だつた。
峰の雪が解けそめた頃である。
良人の忠興から、迎への使者が來た。久しぶりに見る塗駕籠であった。家臣も侍女も、表向
きに従いて來た。
伽羅奢の境遇が秀吉の耳にはひつて、
「不愍な者じや。亡き右府様になり代つて、秀吉が改めて、媒酌してとらせる、生れかはつた
者として、山より迎へ娶るがよい」
さう許しが出たのであつた。
元よりそれは、本能寺の事變の際、藤孝・忠興の細川家の父子が、市場をすてゝ大義に據り
秀吉の軍を援けて大功があつたにも依るが、又、伽羅奢があらゆる辱しめの中に、その姿のと
ほり清麗な女性の慎みと忍苦に耐へて來たことも、いつか人のうはさに傳はつて、秀吉の心を
うごかしたに違ひなかつた。