津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(八)

2020-12-13 12:07:59 | 書籍・読書

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (八)

 ・・・・が、伽羅奢夫人が、もつと困じ果てゝゐる事は、忠興の餘りに度の過ぎた強い愛情のあ
ふれであつた。
 それも、戦場にあつて、留守勝ちなるせゐと、ひとつには、彼女の美貌の聞えがあまりに、
諸大名の廉中でも稀なものと稱はれすぎてゐるせゐでもあらうが、
「留守のうちは、他行はさすな」
 と、目付のやうな武士をさへつけて、日常の事まで、歸ると報告を聞くといつたふうであつ
た。
「夫人の事は、噂もならぬぞ」
 と、家中へ口止したりした。
 何で良人が、そのやうに自分を監視するかと、淺ましくさへ思はれたが、よく/\自分を繞
る世間を見まはして見ると、額に長い皺の幾筋もある太閤電化の赤ら顔が、胸にうかんだ。
 秀吉が何かの折、忠興と自分の居るところで、戯れに云つたことがある・・・・
「よその垣であらうが踏みこえて、つい手折りたうなるほどな花を、忠興は家内にお持ちぢや
な。・・・・麗はしい !     淀よりは美しい」
 彼の君は、何でもずば/\いふ御方と知つてはゐても、伽羅奢は、顔を紅らめた。良人は、
不愉快な顔をして、聞えない顔をしていた。
 權力の下ではしかたがないと、泣き寝入りしてゐる人もあるといふが、秀吉のわるさや、好
奇心では、色々いろんな噂がある。忠興は、それをよく知つてゐる。・・・・で、非常に惧れてゐ
るらしかつた。いはゆる家の垣を、猿にでも窺はれてはと、警戒を怠らないのであつた。
 さう知つてから、彼女は、一しほ身を慎んだ。それでも猶、良人の疑ひを受ける事がまゝあ
つた。貞操のことでは彼女も色をなして云はないでゐられない場合もある。夫妻の爭ひと他人
には聞たであらう。・・・・・・然し真相はいつも、忠興の愛するの餘りに原因があつた。又、彼女
も良人の熱愛に負けない愛に燃やされる所から起る現象であつた。・・・・於霜だけがいつもそれ
を微笑みながら側でながめてゐた。

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■細川小倉藩(429)寛永六年・日帳(七月十九日~廿ニ日)

2020-12-13 09:43:30 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年七月)十九日~廿二日

         |       
         |     十九日  奥村少兵衛
         |
         |                    下田源右衛門かわりてハなく候ニ候也、
金山人割奉行   |一、宮木五郎介儀、御金山人割奉行ニ遣候、橋本惣右衛門替
         |                    〃〃〃〃〃〃〃
鉄炮足軽死後ノ切 |一、桑原主殿与高五十一人内、村上三太夫と申もの、七月十四日ニ病死仕由ノ書付、小頭孫兵衛持参、
米ノ処置     |  則御ふち方御切米奉行衆へ可被申由ニて、相渡候事、
野間仁介死後扶持 |一、野間次左衛門尉せかれ仁介病死仕ニ付、御ふちかたの請取切手ニ判仕ものム御座候、重而留守居
米請取切手ニ署判 |  甚太郎判にて被渡下候様ニと申候ニ付、金子喜左衛門をよひ、右陣太郎ニ引合、甚太郎判にて重
スル者ナシ    |  而相渡候様ニ、御奉行衆へ可被申渡由申候也、

         |       
         |     廿日  加来二郎兵衛
         |
         |             (友好)
大風見廻     |一、大風ふき申ニ付而、松井宇右衛門尉・竹原以凡、御城見廻ニ被罷上候事、
         |   (興相)
         |一、牧左馬殿ゟ大風之由、使者ニて被申越候也、
         |   (可成)           (敦行)
         |一、加々山主馬・桑原主殿・横田権佐・続平右衛門尉・風為見廻登城被仕候也、
         |  (松井興長)                   (松井寄行・幼名岩千代、細川忠興六男
松井岩千代湯治ノ |一、式ア殿ゟ、山瀬勘兵衛を以被仰聞候ハ、御岩様此中小瘡出来申候、爰元にて色々養生仕候へ共、
報        |  快気ム御座候間、豊後の湯へ湯治ニ遣可申と存候、他国へ遣申候ハヽ、江戸へゑ 御諚候ても遣
         |  し可申儀ニ候へ共、豊後の湯ハ御国ノ内と申、殊ニ差当申儀ニ御座候間、其儀無御座候、其心得
         |  仕候へと被仰聞候、一段御尤ニ存候、被仰聞迄もム御座候通、御返事申候事、
         |  (有吉英貴)
         |一、頼母殿ゟも大風・■大雨仕候、如何御城内損不申候哉、為御身廻人を被成御上候事、

         |       
         |     十七日  奥村少兵衛
         |
星野某腹中故検地 |一、星野半太夫、規矩郡御検地被 仰付候処、散々腹中愛煩、出候事不罷成通、誓帋被仕上候也、
出役ヲ誓紙ニテ理 |
ル        |
松井興長忌明登城 |一、昨日迄にて忌明申由にて、式ア少輔殿被成御登城候也、付り、浄喜寺被申候ハ、上方ゟ六条殿家
六条殿家ノ出家廻 |  之出家被罷下候、御国中を廻り申度由被申候、如何可在之哉と被申候、定而、各へも其分ニ可被
国ヲ願ウ  忠利 |  申と存候由、式ア殿被仰候、此方ゟ申候ハ、前かと永正寺もか様儀被申候へ共、御状も不被遣、
何之沙汰モセズ  |                                (田中氏次)
         |  被廻候へとも、又無用共被仰さると覚申候由、申候ヘハ、さ候ハヽ、兵庫被上次第、其様子を書
         |  付か遣由、被仰候、其上にて御三人御談合にて、可被仰遣由也、

         |       
         |     十七日  奥村少兵衛
         |                                     異筆「薏苡仁
長崎ヨリ薏苡仁ヲ |一、嶋田甚太夫、長崎ゟ只今罷上候由にて、登城申候、御買物衆ゟ被調上候由にて、よくいにん壱斤
買来ル      |     但、壱袋ハ壱斤三十め入也、                        今月十九日ノ夜
平戸辺大風ニ一軒 |  入六袋〇持参仕候也、甚太夫申候は、従是下目は近年ニすくれたる大風〇吹候而、平戸のあたり
         |  ハ家壱軒も無之様ニ吹たをし申候、作毛ハ不及申、事々敷何篇痛申由、申候也、
雑賀鉄炮足軽ノ跡 |一、井門亀右衛門与御鉄炮衆、但、雑賀、坂本孫左衛門尉、当五月ニ病死仕候、彼せかれ左太夫儀、
式ヲ倅ニ命ズ   |  親代ニ江戸御供ニ罷越候、孫左衛門尉跡代として弐人ふちニ拾石ニ、六月ゟ新参ニ被仰付候也、
         |  此段荒瀬角兵衛取次也、
         |  (規矩郡)       ゴイサギ
郡奉行ヨリ上ゲシ |一、蜷田村之たんぼニ、ごい壱つ死候て有之由にて、小崎與次兵衛ゟ人を付、被差上候、則河井権丞
死鷺ヲ鷹匠へ遣ス |  処へ持せ遣候事、

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■沼田勘解由宛細川忠利書状

2020-12-13 07:07:13 | オークション

                【真筆】細川忠利(肥後熊本藩初代藩主) 書状 霜月廿日 長岡勘解由宛 

             

                    出品者から釈文が紹介されています。(すこし違うところが見受けられますが・・・)


                      尚々、□候もんめ
                      心つけいたし入候、
                      所事とやめられ
                  就同印之趣、人旨
                      進聞候、如之□
                  給候、殊樽二
                  大魚一折三、致
                  来礼表申候、懇
                  到哉候、可意従候、
                  無用候へく候、即可有
                  其心得候、聞帰
                  国可申候間、其到
                  可申候、恐々謹言、
                         内記
                   霜月廿日  忠利(花押)
                       長岡勘解由殿
                      

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