細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より) 吉川英治
(二)
「忠興の心は、決してをりまする。わたくしの妻へなど、小さい御不愍はおかけ下さいますな。
私の妻の處置は、私へおまかせ置き願はしうぞんじます」
若い忠興は、胸を正して云った。
父の細川藤孝は、武人とはいへ、温順な人であつた。
家は、室町幕府の名門であつたし、歌學の造形ふかく、故實典禮に詳しいことは、新興勢力
の武人の中では、この人を措いて他にはない。
強ひて、武人の中で、智識人らしい人柄を求めれば、明智光秀であつたろうが、藤孝は、彼
のやうに、新しい時代の教養よりも、むしろ古の學問の中から、今日に役立つものを取上げて
堅實に世を渡つてゆくといつた行き方であつた。
同じ智識人でも、文化に對する考へ方でも、光秀とはさういふふうに違つてゐたが、その明
智光秀と彼とは切つても切れない、深い縁に結ばれてゐた。
光秀がまだ名もない一介の漂白人として、越前の朝倉家に寄寓してゐた頃、藤孝も、三好、
松永などゝいふ亂臣に都を趁はれて、國々をさまよつてゐた将軍義昭に扈従して、同じ土地に
漂白してゐた。
・・・・・・今、眞に頼みがひある武将といつては、尾張から出た織田信長殿よりほかに、頼みまゐ
らす御方はありますまい。
光秀は、その時分から、信長の偉大なことを知つてゐたのであつた。
彼のすゝめに依つて、藤孝は、信長に近づき、信長は将軍義昭を立てゝ、京都へ軍をすゝめ、
それがやがて信長の覇業の一礎石となつたのであつた。
同時に、藤孝も、この勝龍寺の舊領を受け、わけて明智光秀は、破格な寵遇をうけて、龜山
城の主とまで立身した。・・・・今生では報じきれない君恩をうけて来たのである。
いや信長には、主君としてばかりではなく、もつとくだけた世話にもなつている。
光秀の二女の伽羅奢姫と、藤孝の嫡男の忠興との結婚を、取結んでくれた人も、信長であつ
た。
今から四年前の天正五年・・・・に伽羅奢姫十六、忠興も十六歳で、主君信長の聲がゝりで華や
かに婚儀をあげた間であつた。
さういう光秀との関係は、偶然にできたものでは決してなかつた。藤孝は、彼の自分も貧し
い一介の浪人であつた頃から、およそ光秀ほど、信頼していた人物はなかつた。その學問や智
識に関する態度のちがひはあつても、人間として沈着で、教養も深く、忍苦に強く、理性に富
んで、しかも戦場では人におくれをとらない一方の驍将として・・・・今朝の今朝まで、彼との縁
を、悔いたことなど、ただの一度もなかつたのである。
「その光秀が?」
と、藤孝は今も、息子の忠興へ、半ば憤ろしく、半ば、信じられない事のやうに、
「信長公を弑逆し奉つたなどゝは・・・・。大逆の亂を起して洛内を合戦の巷にしてをるなどゝは
・・・・。夢か、天魔でも魅入つたか。・・・・信じられぬのだ。然し、刻々と、矢つぎ早やに諸方か
らのこの通状だ。又、光秀自身から、味方に参ぜよとの書状も今着いた。わしは、正直、途方
にくれた。忠興、そちはいづれに組すか」
かう父の云つたのに對して、忠興は、さつきから二度までも、
「何の御斟酌だすか。主君を殺した逆臣に組する弓矢は忠興にはありません。・・・・妻の處置は、
良人たるわたくしの胸でします。そして、信長公の御無念をはらさんとする何人とも力を協せ
て、光秀を討たずにはおきません」
さう明確に答へを繰返してゐたのであつた。
「よう云はれた。父とても、同じ考へである」
藤孝は、佛間にはひつて、信長の霊に誓の佛燈を捧げ、その日に、黒髪を剃ろしてしまつた。
忠興は、重臣をあつめて、父子の決意を告げ、それが終ると、初めて朝出たまゝの居間へ歸
つたが、時間はもう夕方に近いほどだつた。朝食も午餐も、忘れ果てゝゐたのである。