津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(ニ)

2020-12-05 15:29:07 | 展覧会

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (二)

「忠興の心は、決してをりまする。わたくしの妻へなど、小さい御不愍はおかけ下さいますな。
私の妻の處置は、私へおまかせ置き願はしうぞんじます」
 若い忠興は、胸を正して云った。
 父の細川藤孝は、武人とはいへ、温順な人であつた。
 家は、室町幕府の名門であつたし、歌學の造形ふかく、故實典禮に詳しいことは、新興勢力
の武人の中では、この人を措いて他にはない。
 強ひて、武人の中で、智識人らしい人柄を求めれば、明智光秀であつたろうが、藤孝は、彼
のやうに、新しい時代の教養よりも、むしろ古の學問の中から、今日に役立つものを取上げて
堅實に世を渡つてゆくといつた行き方であつた。
 同じ智識人でも、文化に對する考へ方でも、光秀とはさういふふうに違つてゐたが、その明
智光秀と彼とは切つても切れない、深い縁に結ばれてゐた。
 光秀がまだ名もない一介の漂白人として、越前の朝倉家に寄寓してゐた頃、藤孝も、三好、
松永などゝいふ亂臣に都を趁はれて、國々をさまよつてゐた将軍義昭に扈従して、同じ土地に
漂白してゐた。
・・・・・・今、眞に頼みがひある武将といつては、尾張から出た織田信長殿よりほかに、頼みまゐ
らす御方はありますまい。
 光秀は、その時分から、信長の偉大なことを知つてゐたのであつた。
 彼のすゝめに依つて、藤孝は、信長に近づき、信長は将軍義昭を立てゝ、京都へ軍をすゝめ、
それがやがて信長の覇業の一礎石となつたのであつた。
 同時に、藤孝も、この勝龍寺の舊領を受け、わけて明智光秀は、破格な寵遇をうけて、龜山
城の主とまで立身した。・・・・今生では報じきれない君恩をうけて来たのである。
 いや信長には、主君としてばかりではなく、もつとくだけた世話にもなつている。
 光秀の二女の伽羅奢姫と、藤孝の嫡男の忠興との結婚を、取結んでくれた人も、信長であつ
た。
 今から四年前の天正五年・・・・に伽羅奢姫十六、忠興も十六歳で、主君信長の聲がゝりで華や
かに婚儀をあげた間であつた。
 さういう光秀との関係は、偶然にできたものでは決してなかつた。藤孝は、彼の自分も貧し
い一介の浪人であつた頃から、およそ光秀ほど、信頼していた人物はなかつた。その學問や智
識に関する態度のちがひはあつても、人間として沈着で、教養も深く、忍苦に強く、理性に富
んで、しかも戦場では人におくれをとらない一方の驍将として・・・・今朝の今朝まで、彼との縁
を、悔いたことなど、ただの一度もなかつたのである。
「その光秀が?」
 と、藤孝は今も、息子の忠興へ、半ば憤ろしく、半ば、信じられない事のやうに、
「信長公を弑逆し奉つたなどゝは・・・・。大逆の亂を起して洛内を合戦の巷にしてをるなどゝは
・・・・。夢か、天魔でも魅入つたか。・・・・信じられぬのだ。然し、刻々と、矢つぎ早やに諸方か
らのこの通状だ。又、光秀自身から、味方に参ぜよとの書状も今着いた。わしは、正直、途方
にくれた。忠興、そちはいづれに組すか」
 かう父の云つたのに對して、忠興は、さつきから二度までも、
「何の御斟酌だすか。主君を殺した逆臣に組する弓矢は忠興にはありません。・・・・妻の處置は、
良人たるわたくしの胸でします。そして、信長公の御無念をはらさんとする何人とも力を協せ
て、光秀を討たずにはおきません」
 さう明確に答へを繰返してゐたのであつた。
「よう云はれた。父とても、同じ考へである」
 藤孝は、佛間にはひつて、信長の霊に誓の佛燈を捧げ、その日に、黒髪を剃ろしてしまつた。
 忠興は、重臣をあつめて、父子の決意を告げ、それが終ると、初めて朝出たまゝの居間へ歸
つたが、時間はもう夕方に近いほどだつた。朝食も午餐も、忘れ果てゝゐたのである。

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■竈・鬮・鼈

2020-12-05 11:28:26 | 徒然

 世の中では「鬼滅の刃」なるコミックで大騒ぎ状態のようだが、老人には何のことやらトンと判らないでいる。
主人公が「竈門」という人物らしく、あちこちの同名の神社がクローズアップされているという。
先ごろ地元メディアが和水町にある「竈門菅原神社」を紹介していたが、地区住民は大変クールで別段騒ぎ立つこともないようだ。
熊本近世の行政区である「手永」のうち「内田手永」にこの「竈門村」がありそこに「竈門神社」が存在している。
あるサイトには拝殿の天井に「スクリュー」が飾ってあるとあるが、これは間違いで飛行機のプロペラらしい。(何故?)

 私としては、近世に於いては熊本では「世帯」のことを「竈=かまど」と読んでいることが気になる。
住まいや納屋・倉などをセットとして「一竈」と称して「一所帯」の意である。
はじめてそんな資料に出くわしたときは、しばらく何の意かわからず往生したものだ。

 又、「鬮=くじ」「鼈=スッポン」などのよく似た字体も、よく古文書には登場している。
前者は住まいを得たい人のために明家をくじ引きで決める手法がとられるから盛んに出てくるし、スッポンは「恕斎日録」で恕斎がさかんにスッポンを藩主其の他重職に献上する記事がある。

 処で、これらの漢字、書くこともないだろうが筆順を確かめてみたら、三文字に共通する「丨」と「乚」の筆順が、鬮(くじ)の「龜」の部分では他の文字と違って居り、これは明らかな間違いだろうと思うがいかがだろうか。
竈だけは覚えたが、どうでもいいかな~と思っている。
それぞれの文字の下のーは文字とは関係なく、リンクを表している

 かまど    又は 

 くじ        

 スッポン 

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■細川小倉藩(422)寛永六年・日帳(六月廿六日~廿九日)

2020-12-05 06:35:48 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年六月)廿六日~廿九日

         |       
         |     廿六日  奥村少兵衛
         |
         |    (弘光)
         |一、深野二郎右衛門尉、快気被仕、今朝登城被仕候事、
         |一、加来二郎兵衛、昨日ゟ、煩にて登城不仕候事、
江戸ヨリ使ニテ帰 |一、益永太兵衛・山口半次両人を生源寺市兵衛召連、登城にて被申候は、右両人は江戸ゟ御使ニ被成
国中ノ者ヘノ役務 |  御下候而、其まゝ爰元ニ居被申候、似合ノ御用等も御座候ハヽ、被仰付候様ニと被申候也、
         |                                          (武次)
         |一、明後日、江戸へ参候御鉄炮衆佐分利兵太夫与森作右衛門、是ハ御台所方ノ御用ニ遣候、又牧丞太
         |  夫与高見吉右衛門、右作右衛門ニ付遣候也、
三斎ヘノ七夕ノ帷 |一、大坂ゟ小早ノ御船頭田中作兵衛罷下候、 三斎様へ被進之七夕之御帷子積下申候、
子下着      |

         |       
         |     廿七日  安東九兵衛
         |
         |   (成定)               (同成政)
領内大雨     |一、坂崎道雲ゟ、使者にて被申越候は、清左衛門知行所茂一昨日殊外雨降申由申来候、江戸へ便宜御
         |  座候ハヽ、御知せ被成候様ニと被申越候、得其意候返事候也、
         |                    (築城郡)                                                                          (同志ヵ)
寒田ノ牧ノ荒馬ノ |一、坂井忠三郎ゟ、小頭加介を以被申候ハ、寒田ノ御牧ニ居申候荒井鹿毛ノ子、親ニ能似候て、どし
処分       |  馬を殊外くい、あらく御座候ニ付而、さとニおろし置申候、御かい料も御損ニ立可申候間、此方
         |  へ御引寄候而、相当ニ御うり候て可然存由、被申候、心得候由申候事、
         |一、加来二郎兵衛事、煩快気仕、今日登城仕候事、
伊藤金左衛門与ノ |一、伊藤金左衛門尉与之御鉄炮衆矢田八郎兵衛と申者不届儀候間、御ふちはなし申候由、金左衛門
鉄炮足軽ヲ不届ニ |  方ゟ被申理候間、相心得候由申候事、
ツキ扶持ヲ放ツ  |
鉄炮ノはい木   |一、御鉄炮ノはい木之を御用ニ相調申ニ付而、吟味帳ニ付、大学殿へ持せ遣候処、頼母殿へ被参由ニ
吟味帳      |  而、渡置、罷帰候事、
御印帳ニ記載スべ |一、御印帳ニ書付申御用之儀、こまかに吟味可仕由、得 御諚、御書付を取置申候間、此後ハ成ほと
キ用件ハ詳細ニ録 |  こまかに書付可申由、大学殿二郎兵衛ニ被申渡候事、
セシム      |
         |     (光直)
唐人少峯長崎ヨリ |一、楯岡鉄斎煩ニ付而、御年寄衆ゟ少斎よひニ被遣、少峯罷帰候時ハ、少峯中津へ参、 三斎様為 御
         |                                  御
ノ往返ニ打賃銀給 |  意、貴田権内・高橋兵左衛門尉ゟ被申越候ハ、少峯此地へ参候儀、小倉年寄衆ゟよひニ遣し候、
         |                                      (田川郡)
与ニツキ沢村吉重 |  罷帰候時も、長崎迄送可遣と被為 思召候間、送遣尤ニ候由、奉書被差越ニ付而、猪膝ゟ長崎迄
トノ問答     |  駄賃銀壱枚相渡、吟味帳ニ付、大学殿へ判取ニ遣候処、判を付、被差越候、左候而、後日ニ付札ヲ
吟味帳ニ付札   |  被仕、被差越候ハ、少峯長崎ゟ爰元へ罷越候儀、何たる子細にて参、何たる子細ニて罷帰候間、
         |  駄賃銀相渡候と、其子細を書付候へと被申聞ニ付而、 三斎様御意とハ、ふかしからさる儀ニ書
         |  付不申候、以来御不審立申候時ハ、奉書差出し可申と申候へ共、又付札被仕ニ付而、此方ゟも又
         |                      〃        〃
吉重ニ奉書ヲ見セ |  付札ニ具ニ書付、中津ゟ之奉書加来二郎兵衛ニ持せ、見せニ遣し申し候ヘハ、重而ハ成ほとこまか
シム       |  に書付候へと、被申渡候事、

         |
         |          (ママ)

         |     廿八日  
         |
江戸諸方ヘノ書状 |一、今日、江戸さし上候御飛脚佐分利兵大夫与森作右衛門・牧丞大夫与高見吉右衛門、両人ニ相渡候
覚        |  城数覚                (ママ)
         |  一、我々ゟ之言上箱壱つ、内ニ頼母殿・監物ゟノ状も入、
         |
         |  一、貴田権内・高橋兵左衛門ゟ、坂崎清左衛門方へ当言上箱壱つ、同状壱つ、
         |  一、方々への状、一からけ渡遣候也、
         |  一、京・大坂への状ハ、何も橋本惣右衛門ニ渡、上ス、
松丸葬儀ニ欠席届 |一、宇野弥右衛門ゟ、書状にて被申越候ハ、今度之御葬礼ニ可罷出候へ共、散々中風さし発候ゆへ、
         |  不罷出由候事、
歩小姓頭欠席届  |一、歩之御小性頭山田七左衛門申越候ハ、今度松丸様御葬礼ニ可罷出と存、今迄逗留仕候へ共、昨
         |                                      (以脱)
         |  日ゟ痔三/\ニ差発、可罷出様ム御座候間、被成其御心得可被下由、渡辺加太夫を被申聞候
         |  間、煩にて候ヘハ、無是非候間、御出候事御無用之由申候事、
         |一、御船頭竹井勘介登城にて申候ハ、今日出船仕筈ニ候へ共、風悪敷御座候テ、中/\出船不罷成候
         |  間、又其内何にても御用之儀御座候は、可被仰付由申候事、

         |
         |          (ママ)
         |     廿九日  
         |
松丸之葬礼    |一、松丸様御葬礼御座候、朝五つ時也、

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