延享二年江戸では二度大火が発生している。一月二十二日、小石川馬場の武家屋敷から出火し、西北風で延焼し使者100人以上が出た。
その10日後の二月十二日、千駄ヶ谷から出火し、北西風により延焼。焼失28678軒など、死者数1323人を出した「六道の火事」といわれる大火が発生した。この折細川家の白金屋敷も焼失した。
熊本藩年表稿には「青山千駄ヶ谷より出火し、白金邸類焼、この新築のため、郡方集米銀の内より3,000両差出」とある。
なぜ「六道の火事」というのか、その他あまり詳しい史料が見えない。
六道とは青山にある六方からの道が入れ混じる「六道辻」だとおもわれるが、なぜこの名が付いたのだろうか。
時の藩主は宗孝である。二年後の延享四年八月十五日、宗孝は江戸城中に於いて板倉勝該に刃傷に及ばれ死去する。
宗孝の在任中(享保十七年八月二十五日~)には、関東諸川改修の手伝いなど127,230両等の支出が重なり、藩財政の逼迫の度が増している。
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