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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

昨今

2010-09-07 11:50:15 | 徒然
■9/2、妙解寺を訪ね急な階段を上り下り歩き回って、また膝を痛めた感じ。
     その後、某お寺で二時間ほどお上人様のお話を伺ったが、その折の正座も応えている。

■9/6、図書館行き、先日沢山のコピーをとった際、一二枚抜けていたものがあった。
     その一つが「細川同族天草長岡家系譜」、昨日・今日とタイピングしてUP。
     また「錦嚢移文」はデジカメ撮影なのだが、六枚ほどピントぼけ、これまた再度の撮影をする。
     ブログでご紹介した細目の「未」部分に書き込みをしなければならない。

■参勤交代の立田構口から花畑御殿に至る道筋が判らないでいたが、「有吉文書」から、観音坂を
  経て慶安坂を通っている事が確認できたのだが。その間の順路がはっきりしない。
  資料をみながら城内の古地図と見比べているが、今一ピンとこない。
  方向転換して新たな資料を見つけようと思っている。

■上田家から委託された「上田久兵衛に関する文書」をスキャンして、このサイトで公開しようと思っ
  ている。粗方は、「肥後藩士上田休兵衛先生略傳並年賦」(鈴木 登 熊本地歴研究会 1928年)、
  「幕末京都の政局と朝廷肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た」( 宮路正人 名著刊行会)
  で知ることができるのだが、それ以降の久兵衛の動向を知る上で貴重な資料であると考えている。
  膨大な量であり、これまた何時UPできるのか保証の限りではない。
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細川興秋の子孫について (了)

2010-09-07 10:34:33 | 歴史
    九代
+--■興道 長岡五郎左衛門
|     寛延二年已巳六月二日生まる。實は隆成(天錫)の弟なり。隆成壮年にして病身
|     なる故、弟の興道を養ふて家緒を継がしむ。因て兄隆成の家を継ぎて、大庄屋と
|     なる。明和七年庚寅二月、江戸より苗字を御免あり、是に依り古の長岡の性に復
|     して長岡五郎左衛門源興道と名乗る。尚寛政八年丙辰の九月十一日帯刀を御免あ
|     り。
|    右之家傳と申候は、宗專様尾州より被召連候御家来両人有之候、一人は渡邊九郎兵
|    衛、(一人は)長野幾右衛門、(此両人)御供いたし天草へ罷下り候由。右の九兵
|    衛子を半四郎と申候、其子を渡邊理兵衛と申し、七十餘迄存生にて有之候。この理
|    兵衛、興道へはなし申候儀を、右之通手記し候也、右の九郎兵衛子孫は、當時の渡
|    邊順平にて、長野幾右衛門子孫は、今の長野保助なり。何れも血脈絶え不申、今に
|    御家繁昌いたし有之也
| 一、宗專公以来もちつたへし品
|     刀一腰無銘  茶釜一ツ
|     家康公御状、秀忠公御状、家光公御状
|         右之三状ともに、御文言なし。
|         月日附御宛名判迄にて、宛所なし。
|    これは宗專様世を御忍び被成候ゆゑ、御文書宛所はみな御切捨て被成候ものと相見え候。
| 一、右之興道までに大庄屋役を継ぎ候は、右之通九代なれども、宗專様よりは七世の孫なり。
|    こゝに至りて、又長岡の氏を名乗り得たるも、宗專様令徳の餘慶なるべし。

+--女子
|    (天錫の長女也、後に興道の養女となる。四世石本勝之丞の妻、俗穪勢以)
|    法名、繁室貞昌大姉、寛政六甲寅十月十三日卒。

+--■長岡惣右衛門
|    幼名千一郎。天錫の嫡子也、後に興道の養子となる。

+--女子


+--■長岡惣左衛門
|   安永三甲午年六月十五日に生まる。幼名千一郎實は隆成の嫡子なり。興道其の兄
|   の子たるを以て、養子となす。仍ち區政を攝せしむるに、邑民其徳に服すること
|   ■(弓ニ亥)子の慈母を慕ふが如し。惜い哉、(大庄屋見習中の)寛政十一年巳
|   未十月二十二日病没す。壽僅に二十六歳。法名、篤山良厚居士。

+--■十兵衛
|   安永二年癸巳二月廿五日生まる。惣左衛門を養子とするの故を以て、木戸組大庄
|   屋木山恒四郎の養子となる。

+--女子 長女サダ

+--女子 次女キノ

+--女子 三女トネ

+--女子 四女ミン
|   ヨシキチ
+--■好吉
|   天明七丁未年生まれ、興道の第ニ子也。牛深村庄屋長岡清左衛門の養子となる。
|   右長岡清左衛門者、宗專公の御孫長野宗左衛門興茂の弟中村藤右衛門の末孫なり。
|   仝家も寛政九年に苗字御免あるによって、長岡清左衛門と名乗也。

+--■僧浄元
|   直(ママ)言宗。

+--■興生
    幼名宗之允、後業之輔と改む。惣左衛門死去し子無きの故に、養子となりて家督
    を継ぐ。系下に在り

    十代八世
   ■長岡五郎左衛門興生
     寛政六年甲寅九月五日に生まる。長岡惣左衛門死去して跡に子無し。興道の末子
     業之輔興生、養子となりて五郎左衛門えお禰し、家督を継ぐ。即ち御領組大庄屋
     にして、且つ廣瀬村庄屋を兼ぬ。文政十三年庚寅十一月二十三日卒す、行年三十
     七歳。法名、專光院一應玄至居士。

    十一代九世
   ■長岡五郎左衛門興就
     幼名與七郎、興生の嫡子なり。文政初年の生まれ家督を継いで大庄屋たり。性剛
     毅にして任侠あり。弘化二年小前百姓の意を躰して質地請返しの為め敢然江戸へ
     出訴の擧に出でしも、越訴の廉にて長崎奉行へ護送せらる。然も之が口火となり
     かの弘化打毀しの異変勃發するや、吟味の為長崎より富岡の獄へ投じられしが、
     嘉永二年江戸勘定奉行よりの判決にて、乱心の故を以て欫所仰付けられ、親類預
     けとなりて佐伊津村へ蟄居す。明治二年巳巳九月十五日卒。法名、興就院直宗英
     氣居士。
     妻は中村庄屋の別家波多野氏の出、俗彌ヨシ。明治廿二年己丑一月十八日卒。
     法名、戒光院賢室貞良大姉。


   ■長岡快太郎興英
     後に時彦と改名、五郎左衛門興就の弟なり。兄興就永蟄居の跡を受けて家督を継
     ぐ。明治三十八年九月十一日卒、行年八十歳。法名、直源院本宗居士。
     妻は宮地岳村中西重兵衛の三女ツタ。明治四十年十一月十九日、六十四歳にして
     逝く。法名、大信院聞室法然大姉。

    十世
   ■長岡專一郎興隆
     五郎左衛門興就の嫡男なり。長ずるや伯父興英より家督を譲られ之れを継ぎしが、
     幾若もなくして逝く、時に明治七年二月十日なり。法名、天徳院無二專一居士。

    十一世
   ■長岡養四郎興敏
     快太郎興英の長男なり。專一郎興隆没して跡に子なし、依而養四郎興敏家督を継
     ぐ(現存)
     妻は一町田村益田、奥野保七郎の三女サダ。仲に長女ハルノを生む。

                  (了)
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